第14話 ダンサー
森林は風の声にざわめきを隠すことが出来ないそう。キールは汗水流して働き続ける。飽くまでも生きるための事。前の休みにはトマトを投げ合う祭り、更に前の休みには鐘の塔に登る事と少しだけ豪華な食事。ただそれだけだと大きな出費には感じられないものの、ユユの金銭感覚には不満が渦巻いてしまう。
ただただ働き続け、得られた金の半分は貯金の為に取っておかなければならないという。まさに生きる事しか出来ない状態でキールは自由が塞がれたような感覚に支配され始めていた。決して自由が少ないわけではない。もっと大きな自由を得ようと思うのならば今のキールが稼ぐ給料の四倍は必要だろう。身分の壁はそこまで大きなものだった。
森林の中で汗に塗れながら木材を運び続ける。周りの男たち全てが揃いも揃って同じ光景を作り上げている。今のまま八月の終わりまで過ごすのだろうか。想像を巡らせるだけで気が重くて仕方がなかった。変わらない作業というものは愛着がなければすぐにでも飽きが来てしまう。秋よりも先に来てしまう。
伐採、運搬、切断。そうした過程を経て、幾つもの労力を注ぎ込んでようやく人々の生活の役に立つための姿を取る木々を思わず睨み付けてしまう。そこまでしなければ住民たちは手に取ってくれないのだ。
どれだけ働いたところで給料の上がらない仕事、雇い主はきっとある程度以上の裕福を身に着けているのだろう。誰のおかげで仕事が成り立っていると思っているのか、何度も問い詰めたくなってはその度に口を無理やり閉ざしていた。
「安いよな」
キールの言葉に釣り仲間は頷きながらわざとらしい強さを滲ませた声で答えを返す。
「あいつらは自分が大儲けできればいいと思ってる」
恐らくほとんどの雇い主に共通する思考なのだろう。労働力は潰れるまで使い、果てには処分する、それだけの扱いでいいと思っているようだ。
「釣りのおっさんは違うけどな」
キールは肯定の頷きを見せて釣りの仕事の雇い主の顔を思い出していた。
「俺が釣りに携わる時は主は良いんだよな」
他の人物が危険な者な事や邪悪の権化だった事はあったものだとキールは続けてみせた。そんな経験を覗き込んで釣り仲間は声を上げると共に斧を振り上げる。
「そりゃ運がいいな」
斧を振り下ろした果てに薪は二つに割れた。綺麗な断面を見つめ、釣り仲間は次の薪を割り始める。そんな作業をいつまでも続け、二人共に疲れを感じ始めた頃にようやく鐘が鳴り、残りも少し。
幾つかの薪を割り終えたキールは辺りを見回しため息をついた。どうやらノルマの達成はキールが最も遅かったようで、周りで立っている男たちの目はあまりにも鋭く厳しく見下すような形をしていた。汗を拭い、謝りつつ斧を仕舞って薪を運び出す。男たちが遅れて歩き出し、キールが運び終えるまでただ傍にいるだけ。その目は言葉も無いまま語っていた。早く終わらせろと無言のまま叫び散らしているようだった。
立て続けに責め立てるような言葉の数々が浮かんで来る。実体などなくてもそこにあるものとして扱っていた。
「待ってくれ、もう少しだから」
そう言っている内にも更に視線が色を濃く深く色付けて嫌な輝きを放っているよう。
キールは無事に運び込み、足を思いきり広げて腕を組み立っている雇い主へと薪を差し出す。その姿を見て鼻で笑いながら薪を受け取り後ろを振り返る。
「終わりだ」
途端に周囲の男たちはひざを折って座り込み、緊張に固められていた顔を崩す。
「あの野郎本気で終わらせない事あるからな」
その時には何がどうあれ雇い主の望む成果へと到達できない労働者の責任だと言うだけの事だった。
「いつもより大変だっただろう」
釣り仲間の言葉にキールも肩の力を抜いて崩れ落ちるように座り込んだ。
いつも通りに雑談を交わしながら衣服を編む。会話は途切れを知らず、言葉の結びつきが表向きの結束力となる。ユユは手を動かしながら口を動かそうと努力を重ねるも彼女たちの動きの真似など容易ではなかった。そう、今までは狩りや農業に船釣りといった男社会に含まれる職での経験を積んで来たユユにとって今までとは異なる頭や体の使い方と共に会話を嗜むことが出来ないでいた。
口々に夫の愚痴を語る女は顔にしっかりと皴を刻み込んでいてまさに苦悩を浮かべ続けて来て様な顔をしている。独身の女はそれはそれで大変なものだと語る。針と糸を繰る事によって空気で弾けるように鳴り続ける軽い音は耳に何かを刻み込んでいるような気がして仕方がなかった。
そんな中でユユも悩んでいる事を皴だらけの女が口にした。
「旦那が無駄遣いしてるの、それも毎日」
「毎日じゃないけど私の彼も」
周囲の女たちはユユの方へと柔らかな視線を向けて上手く包み込んでいた。
「あなたとカレシは若いから仕方ない」
納得を示さないユユの貌がこの上なく目立ってしまっているのか、他の女も同じように会話を重ねる。
「自由はいいものだしカレ君可哀想」
それぞれに柔らかで艶やかな唇からそのような言葉が飛び出して来た為にユユは少し俯いた。
「節約は大事だから」
「楽しまなきゃ生きるだけ生きて死ぬのは悲しいよ」
女たちなら全員ユユに賛同してくれると信じていた。安定と安心こそが生きる上で大切だと共感してくれるだろうと思っていた。裏切られた気分を抱きながら引き続き服を作り続ける。
「そう、かもね」
空気を乱したくない、自分の中で主張を続ける様々な感情の中でその想いを選んで引き抜いた。感情の果実というべきか菜というべきか、実っているその中から妥当なものを選ぶ事が出来ているだろうか。
「そうそうそういえば」
女のうちの一人が脳に蓄えている情報の欠片を取り出し全員に配るように差し出す。
「次の休日にダンサーが来るんだって」
キールとユユがこの街に足を踏み入れた日に知った事。七月の末は遠いと思いながらあの予定表を見ていたあの日からそれだけの日数が経ってしまったのだと知り、ユユは時間という偉大なる存在が如何に無慈悲であるか、しっかりと思い知らされた。
「何の演目を踊るのかな」
「ドラマ劇かもよ」
「ミュージカルがいい」
ダンスと言っても様々なジャンルとの組み合わせで成り立つ大衆劇の一種として扱われているそう。
事情を知らなかったユユは仕事を終えてすぐさまあの予定表、ホールとして使われる広場のすぐ傍に置かれた看板を見つめ、ダンスのサブジャンルが分からない、ただ若手の踊り手が決めのポーズを取っている写真が貼られていた。
「写真なんて高いのに」
もしかすると宣伝に必死なのかもしれない。一般人の中でも長寿な人物が二度の生涯を働き潰す事でようやく撮ることの出来る一枚に目を輝かせていた。
灰色の映像の一瞬を切り取った神秘に目が離せない。彼女はどのような人生を歩んできたのだろう。どのように世界を渡り歩いてきたのだろう。全くもって想像すらつかない事を考える事はやめて目の前の現実へと向き直り、そのまま後ろを振り返って歩みを進め始める。
それからというもの、キールに対して少しだけ優しい気持ちで接してみたものの、彼の生活態度は変わらない。ユユのしつけがしっかりと効いてしまっているという事を知って反省の海溝に沈んでしまいそうな心情でキールを見つめる。
キールはユユの顔を見つめてはほどほどに明るい笑みを咲かせていた。薄っすらと明るみを帯びた笑い声はまさにストレスという悪しき形を感じさせない。固い体に宿る心は柔らかさを極めているようだった。そんな中でユユは労働の中で獲得した事を、この街に入る際に一度知ったはずの事を思い出しながら話し出す。
「次の休みの時にダンサーが来るんだよ」
「そっか」
キールはきっと我慢さえしていれば良いのだと抑え込んでいるのだろう。今までの扱いが過ちだと気が付いたその時、キールに対して見せていた言葉や姿勢があまりにも愚かなものだったのだと知った。まだ間に合ってくれるものだろうか。
「俺は金貯めなきゃいけないしな」
引きずり出された言葉はユユがかつて想いを積み重ねて作り上げたもので、自分の行動の写しとなっている。写真ほどの価値、思想が逸れた今のユユから伸びる手は届かないものかも知れない。
「ごめん、無理させてごめん」
「慣れたら別になんてことない」
きっと毎日働き続けて出来る限り楽しみを噛み締めないようにして来たのだろう。
「この前トマト投げもやったしな」
後ろから抱きしめる。力強く、なけなしの温もりを分け与えるべくしっかりと包み込んだ。過去のユユに従うための言葉を次から次へと放つ彼の口を塞ぐように。
「無理しないで、私が間違えてたよ」
「間違いでもないだろう」
そうした言葉に対してすぐさま返すようにユユは小さな口を大きく開く。
「次の休み、一緒にダンサーの演目見に行こうよ」
言葉では通用しない。明らかに昨日までのユユの方が堅実で現実的。ならば行動で示す他なかった。
しばらくの沈黙は心地の悪い湿度を家中に蔓延らせていた。自分の心臓の鼓動すら聞こえてしまいそうな静寂に得体のしれない焦りが乗っていた。
やがて、キールの口は無事に開かれた。
「分かった」
その回答を経て空気は今まで通りの心地よく澄んだものへと変わり果てていた。
看板が立てられている。幾つかの写真にはどれも同じ顔が写っている。同じ顔が異なる貌をしていて色とりどりの感情の輪。目を合わせる客に飽きを与えない意識しない工夫が楽しくて仕方がなかった。
広場に入る際に観覧料を支払い警備の者の指示に従って並び始める。
人々の声がどこからか、どこからでも飛び交っていて頭の骨から脳の髄にまで振動を与えて来る。
「頭が痛いな」
キールの単純な感想にユユは一度頷くのみ。ただただ待つこと、それだけしか出来なかった。
やがてスタッフが鋭い光沢を放つラッパを手に取って口を付ける。そこからすぐさま吹き鳴らし始めた。音の高低を細かく調整しながらそれぞれの音が上手く繋がって音色になる。陽気な空気に明るい音楽、清々しさはあまりにも高かった。
そんな音楽に合わせて一人の女が広場の真ん中へと飛び込んで来た。濃い緑というべきか青みが混ざって別の名を唱えるべきか。生きる事をや必要な勉強をすることに気を取られ続けたキールやユユにはその青緑の名が浮かばなかった。
「染料はなんだろう」
服屋での仕事では色まで扱う事は無かったものの、それでも観点はそこへと到達するのだった。
「花緑青だってさ」
酸性紙に綴られた文字からその単語をつかんだキールが伝える。入場者専用のパンフレットは実に正直なものだった。
金髪を靡かせながら踊る彼女、うるんだ瞳を収めて長いまつ毛に覆われた瞳は緩やかに細められ、鮮やかな赤に塗られた唇は色気を放つ。体をねじり、胸や腹を空に向け、地に頭が来るように向けられた顔から放つこの表情は人々の心をつかみ取る。恋人や配偶者がいようとも構うことなく、この瞬間だけは全ての人々の視線から心までの全てを奪い尽くして見せようと艶を放っていた。
そんな唯一の華にキールの心も例外ではいられない。
「色気がすごいな」
「セクシーだよね」
ユユは怒ることなくただ賛同する。この見世物の世界に向ける視線は演者の意図に従っていれば叱られることも無いという事か。
姿勢を立て直したかと思えば目にも止まらぬ速さで宙を舞う。行動に客の思考が追いついたその時には鮮やかなドレスがひらひらと舞っていた。
音楽に合わせて腕を伸ばしてみせ、涙を流しながら芯の通った力強い歌声を響かせて、彼女は確実に人々を自分の世界へと引き込んで見せていた。
そうしたダンスを見届けて、彼女の動きと言葉と歌によって紡がれた物語は人々に起きたまま夢を見せるように深みに嵌め込んでしまっていた。
鐘が鳴り、夕刻の訪れを知らせる。踊りは終わり、人々は広場を離れる。スタッフたちはこれから片付けの時間なのだろう。数人が広場に残っていた。
そんな様子を傍目にユユは声をしっかりとキールに届けた。
「面白かったね」
「そうだな」
得られた同調はユユの顔を明るみに晒す。太陽の輝きは茜、彼女本人の笑顔は今でもヒマワリのよう。それぞれの輝きはキールにとって眩しい程に強かった。
「それと」
切れたと思った会話に続きがあったのかとキールは驚きを張り付けながらユユの声に耳を貸した。
「使い込むのはだめだけどもう少し贅沢していいよ」
キールは笑顔を浮かべる。外だというにもかかわらず、だらしなく表情を表に出してしまう。キールにとってはその言葉がそれ程までに嬉しいものだったのだろう。
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