第13話 トマト

 歩き出す。光の中へと踏み込むように足を動かし進み続ける。そうして進む先には何が見えるものだろうか。広がる景色、道を埋め尽くす人の淡い動きの波、全てが優しくて麗しい。

 塔が見えて来た。時報の鐘を鳴らして人々の生活の一つの基準をもたらす街で最も高い建物。七日もの日数を歩む今でもそこを通る際にはあの出来事が脳裏を過る。今のキールという人物が大まかに分かってしまったあの出来事を、ユユが秘めていた不満を全て放り込んだあの瞬間を、周りの空気は汚れに満ちて重々しく響いたあの日の時報は忘れられない。仲直りは済ませても問題は解決されていないのだから。

 今日も労働前にパンを焼くために、パンを焼く人の先導という労働の果てに得られる給料の為にユユは進み続ける。今日は昼までの仕事が終われば街の住民の殆どが休むそう。夕飯は昼の鐘が時間の目安を伝えたのちに買わなければならない。店仕舞いの前に買わなければならない。日頃であれば張ったまま放置するテント屋台が姿を消す前に生きるための必需品を手にしなければならない。それを頭に置いて仕事前にパンを焼き始める。

 窯の熱や具合を確認する作業も兼ねたそれを通してユユとキールの明日の朝食がその時に口に入る姿を取り始める。本来パンと言えば小麦を練るだけでなく発酵するように寝かさなければならない。しかしながらこの街にパンという名を持って伝わるそれは発酵という手間を省いたものだった。焼き上がったそれは飽くまでも小麦を練り固めたものでしかなく、どこかでうわさに聞いたような空気の跡もふんわりとした食感もみられない。

 やがていつも通りの作業と呼ぶべき仕事を始める。

 窯へと続くドアが開いた瞬間、流れ込む人々が乱れてユユの視界一杯に広がる。

 いつ訪れてもマナーを知らない連中にため息をつきつつユユは懸命に人々を整列させ、利用料金を受け取る。上手く並ぶ彼らを見つめ、今日は日頃よりも人々の列が激しい、動きが忙しない。そう思わずにはいられなかった。客の熱気によって窯にパンやおかずの野菜が放り込まれる一方で決まった熱量を不規則に放ちながらも跳ね返って内側をまんべんなく熱するそれは入れられた物をしっかりと焼いていく。

 整列を促すスタッフは女性で統一されているが恐らく雇い主の趣味だろう。今の今まではそう思っていた。

 待機中の男が一枚の黄ばんだ紙を女性スタッフの一人に手渡していた。栗を思わせる茶色をした髪を背中まで伸ばした女、肉付きを感じさせないすっきりとした輪郭に伸びるまつ毛と切れ長の細めがキレのある心地を滲ませ空気感を塗り替えていた。耳たぶにぶら下がって揺れる蝶の姿をした銀の光沢を放つピアスに嵌め込まれた緑の石は彼女の美しさを散らすことなくしかしながら主張は続けていた。

 きっとあれは恋文だろう。スタッフの誰もが悟っていた。気が付かないのはそもそも興味を示さない者か幼い頃から労働や生活といった必要なものにしか目を向けて来なかった人物くらい。

 女は薄っすらと感情を込めた低く落ち着いた声で礼を告げ、手紙をエプロンのポケットに仕舞い込む。作り物の感情は所詮は偽物、その場でごく少数の者が男を憐みの目で見つめ、わざわざ手紙を渡された女には多くの者が憐みの視線を送っていた。男の顔が少しでも整っていれば周りからの印象も大幅に変わったものだろう。如何に優れていても、必要程度の読み書きだけを生涯かけて詰め込む人物が大半の中で手紙を書くだけの知識、つまるところ勉学に励むだけの余裕のある人物だったとしても、彼ではあの美女にとっての王子様になることなど到底できないだろう。役不足という言葉が非常に似合っていた。

「仕事中の人になにやってるんだろ」

 他のスタッフも総員一致であの男の行動を陰ながら批判していた。状況を読まない以上、教養など役に立たない。相手の事まで考えることの出来ない貴族はただ金で恰好から行動までを着飾っているだけで気品が宿っていない。

「読み書き上手でもあれじゃあね」

 誰も彼もが口々にあの男への非難を零していた。

 まるで一週間前のユユとキールが作り上げていた湿っぽい雰囲気のよう。ユユは改めてあの日の事を反省していた。



 仕事が終わったユユは仲間たちと軽い雑談を交わしながら私服に着替えていた。どうやら今の季節、街では非常にイベントが多いようだ。キールとユユは行けなかったものの、少し前には劇団が来ていただろうかと記憶を呼び起こす。もう少し時を置けば他の劇団が訪れるそうで、やはり今の時期は催しが多いようだ。

「隣の都市の学校の入学祝で劇団やダンサーの稼ぎ時なのですって」

 ユユは軽い言葉で知を受け止めて頷きながら、さようならを告げて日の恵みをもたらす職場の一日を閉じようとドアを開いた。

 外で待ち受けていた光景にユユは思わず目を見開いた。全身を迸る熱が収まることなく循環している。

 少し離れたところに生えた木に寄りかかっているその姿は紛れもなくユユの大切な人。

 ユユの姿を目にすると共に鋭い笑顔を薄っすらと浮かべる。いつから待っていたのだろう。

 ユユは目を丸くしながら駆け寄って行く。足取りがぎこちなく、不慣れな感情について行けなくありつつも当然のように無事にたどり着いてみせる。

「キール」

 ユユの到着と共にしっかりと抱き留める。温もりはしっかりとした硬めの感触を伴って、心はときめき時間が止まったように思えた素早い拍十二回程度。

 そんな魔法を強制的に解いてしまう言葉が差し込まれた。

「その人誰」

 背後から飛んできた声の主はきっとユユの仕事仲間だろう。ドアを開いた先に身うmけられた輝かしい恋の銀世界はどのように映っているだろう。空気の熱に対して爽やかな涼しさが流れているだろうか。

「もしかしてカレシくん」

 そう思われるのは当然だろう。意識なく隠していたこの事実は今、しっかりと暴かれてしまっていた。言葉を入れるまでも無く彼女は悟ってしまうだろう。というより既に知られていた。

 眩しい太陽のきらめきが二人を包み込み曖昧な景色を作り上げ、ぼんやりと幻にも似た淡い色彩で塗り尽くして行った。



 キールとユユは足並み揃えて歩く。少し後ろで一定の距離を保つ気配がそこにあった。

「どうしてついて来てるんだあの子」

 ユユはため息をつきながらもキールの疑問を熔かしてこの恋愛のワンシーンに変えて行った。

「恋愛劇とでも思ってるんじゃないかな」

 演劇でも何でもない本物のカップルに対してそのような視線を向ける女の事は意識から外して歩く。

「こうやって見せつける」

 キールと腕を絡め合い、身体を寄せ合い頭をキールの肩につける。

「彼女の思うつぼ」

 すぐさまテント屋台で食べたかったものの、いつまでも後ろで見つめている女が忌々しく思えて仕方がない。

 ナイフとフォークが交差した絵が描かれた看板が下がっている建物を指してキールに目を動かして。

「そこ入ろ」

 促されるままにキールはドアを開いて中へと踏み込む。その先で待っている一人の女が二人を案内する。褐色の肌をした女は白みがかりくすんだ金の髪を後ろで一纏めにしながらも前髪の左半分はしっかりと流している。幾つかの細い房が緩やかなウェーブを描いていてそれが大きなガラス玉の瞳の全容を見せない程よい大きさの目にかかっていてそんな姿がどこか大人びて見えた。

 席に着くと共に小麦と野菜のバジル炒めとメロンジュースを頼み、一息ついてユユはやけに明るい笑顔を浮かべた。

「迎えに来てくれたんだね」

「今日は祭りがあるからな」

 キールは目を逸らす。そこに宿る感情はある種の罪悪感だろうか。そんな情を解きほぐすように言葉をひねり出した。

「毎日迎えに来ていいんだよ」

 料理が運ばれて来る。自前の窯や鍋を火にかけるためのスタンドが付いた七輪の下部には薪が敷かれており、透明感のある赤を躍らせていた。

「キッチンを用意できる家ってどのくらいあるんだろう」

 逸らされた話題を睨み付け、キールから目を逸らして少し固い声で答える。

「そんなに多くないかもね」

 言葉にしない感情はきっとキールにも伝わったのだろう。次に彼の口から出てきた言葉がユユを満足へと至らせた。

「大丈夫、終業の時間は分かってる」



 それから夕飯を終えて外へ。爽やかな空は笑顔を浮かべる太陽の気まぐれに合わせて色付いていた。街の人だかりがいつになく騒がしく、街までもが太陽に溶けているようだった。

 ユユは周りを見回して近くに散らされた人々、喧噪の破片を拾い上げながら笑顔を浮かべた。

「もういないみたい」

「そっか」

 ユユの望んだ返事そのもの。キールもあの日の事を反省しているのだろう。

 愉快な空気をさらに強調させるラッパが響く。幾つもの同じ音が混ざって決まりきったメロディーを奏でて、右から左から重なり合って周囲を包み込む。

「来たぞ」

 キールは言葉と共に街の入り口に目を向ける。それに続いてユユも同じく街の入り口を見ると共に関所の門から入って来る馬車。荷車には赤々としたトマトが積み込まれており、太陽とも宝石とも例えられる鮮やかな姿を見せていた。

 馬を巧みに操りここまで運んで来た人物。並んで座っている二人の内の片方はしっかりと着込みフードを被ったままであるが為に顔を確認できないものの、もう片方の女はユユの嫉妬心を加速させるほどに煌びやか。

「話によれば汽車の出発点の街にある有名な宿の看板娘だそうだ」

 キールの仕事場での休憩時間は女の話で埋め尽くされているそう。ユユという彼女と共に生きているキールにとっては気まずい事この上ないそうだが避けられない話題なのだそう。

「様々な貴族や美男子から持ち掛けられた話を拒んだそうだ」

 そんな自由がただ欲しくなってしまう。様々な男たちからの声掛けを跳ね除けてキールとの愛を見せつけたい衝動に駆られてしまう。

「付き合った人の顔が見えないな」

 男だの女だの異国の貴族だの召使いだの、噂は色とりどりだったが、答えを知る人物はほんの一握りだろう。誰も知らないからこそ話題は尽きなかったらしい。

 無事に届けられたトマトは役人たちに引き渡され、二人はすぐさま馬を引いて去って行く。

「遂にこの日がやって来た」

 役人はトマトを一つ掴んで掲げていた。宙で輝きを浴びるトマトは太陽と一体化しているように見える。

「さて、このトマトは誰を汚すか」

 途端にトマトは放り投げられた。宙を進み、レンガの街を転がるように飛んで行く。渦巻く力に誰もが息をのみ、目にも止まらない速さで突き進むそれを追いかけるだけで必死。

 やがてトマトはゆったりと下降を始め、遂に誰かの頭を捉えてそのまま弾けた。

 トマトを受けた男は汚れた頭を震わせるように左右に振り、濡れた顔で荷車を睨み付ける。街の幾つかに分けられたトマト、この祭りは自然の恵みに感謝し、神なる太陽に、その化身たるトマトに感謝を込めてみんなで浴びる行事。

「やってやる」

 男はトマトを手に取って他の男の頭に叩き付けるように放り投げる。当然のように男の頭を汚し、そこからの流れは既に決まり切っていた。

「ざけんな」

 そんなやり取りが行なわれている内に街は既にトマトの汁でいっぱいだった。

 キールが辺りを見回しているところで横薙ぎの赤い球体が飛んできた。

「いてえ」

 キールが振り向いたそこにはトマトを持ってニヤニヤと笑い続ける男がいた。

「トマトで汚れてるぜ、情けない面だ」

 更なる追撃を躱してキールはトマトを手に取ると共に勢いのまま放り投げる。

「これからは俺の時代だ」

 交わされる赤い放物線。当たることも無く突き抜けてキールとは程遠い場所に落ちると共にキールが放ったものは狙い通りの男に当たって破裂を起こす。

 そんな様子を見つめながら呆れた目をして立っているユユの姿があった。

「進学とトマトで時代とか関係ないよ、どういうプライドかな」

 呆れつつも見つめている事しか出来ない。感謝祭と聞いて思い描いていた事との違いに驚くばかりだった。

 元々は感謝の想いを込めてみんなで一ついただく儀式だったそうだがある年トマトが嫌いな男が顔をしかめながら隣の男に投げ、怒った男がトマトを投げ返したという一つの喧嘩をもってこの行事はトマトの投げ合いへと変貌してしまったそう。

 ユユは大きなため息をつくと共にトマトを投げる野蛮人から狙いを定められないように逃げていた。派手に逃げることなくひっそりと姿を消す事、全てが終わるまで隠れながら家に逃げ帰る事。それだけしかユユに残された道はなかったようだ。

 彼女が無事に家にたどり着いたその時、彼氏の方はトマトを投げ込み暴れ回っていたのだそう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る