第12話 塔の頂上

 嫌な日を締めくくる晩ごはんの中でユユはキールの金の確認を行ない、盛大なため息をついた。

「減ってる」

 毎日の確認、前日よりも減る事が罪であるとユユの鋭い目つきが断定していた。思わず気が滅入ってしまいそうな状態で過ごす毎日の中で楽しみを求める事すら許されないのだろうか。

「嫌なことが重なってな」

「で、使い過ぎたんだ」

 責め立てるユユが大きく感じられてしまう。キールは我慢を続けなければならない。どれ程の不運が来ても気晴らしは許されないという事か。

「気分転換は前の日よりお金を減らさないように」

 説教の時間が訪れる。分かり切った話、それでも何度も同じことを繰り返し交えながら長々と告げる。食事の味がどん底にまで落ちてしまうものの、しっかりと聞いておかなければ今後の関りが暗くなってしまうだろうと分かっていた。

「言っとくけど毎日減らしてたら生きて行けないから」

 分かっていたものの、あの日はあのような行動に出てしまったのだ。決して許されない、ユユの中ではそういった一線を引いた行動を取ってしまったのだと反省を浮かべて謝る。

「毎日の賃金の半分が全財産だと思って」

 それだけ貯めて使い道はあるのだろうか、一生働いたところで中途半端な収入にしかならないため医者に頼る事や写真を一度だけの思い出として形にすることも出来ない。家も働いてさえいればその時の手段でどうにか用意出来る体制であり、家を強制的に出て行かされる時にはきっと周囲に家を持たない人物が溢れている事だろう。

「やはり、生きて事だけしか出来ないんだな」

「生きてるんだから良いじゃん」

 男は労働と子育てが全て、生きている限り休日の過ごし方すら男には選ぶ権利がない。そんな事が当たり前の世間に染まったユユの一面は好きになどなれない。

「でも、次の休みには鐘の塔に登るから少し我慢して」

 そんな言葉をもらえるだけ優しいのだろう。

 木々を運ぶ男たちの話を聞けば彼らには休日が無い、結婚出来ない者は生きるために、結ばれた者は支えるために休みを取る事が出来ないのだという。どうにか働く事の出来る場所を探して休日を消しているという現状は改善の見込みもなく、女子供だけが休みを得られる事が多い。

 不満を問うと返って来る事はただ一つ。休んだら金の負担が重たい。

 そのような世間の流れは貴族が握る手綱によって操られる暴れ馬のよう。貧富の差は埋まるはずもなく、生きる意味を失いながら働き続ける人の多い事。

「どうか二人の為に」

 その言葉は封じ込めてしまいたかった。感情を揺らし、現れた割れ目から染み込むユユというインクが侵食を始めていた。

 食事は終わり、満腹感を得た一方で食べ物を口にした感じは一切思うことが出来ない。口にしたのはユユで、口にしたのは説教の言葉で。

 それから闇に包まれるように床に就いて寝息を立て始めた。



 労働にも慣れて虚無を毎日の節約メニューと共に流し込む毎日が過ぎ去って、ついに訪れたこの日。

 キールは暗闇に負けない明るさを纏い、歩く。地面に触れる靴の音はいつになく跳ねて輝きの欠片が散っているよう。全てが星々へと成り上がり、優しい風と共に流れ続ける。暗闇に隠れる雲は星の瞬きに照らされて、いつも通りに釣りの仕事をこなす。

 一匹たりとも釣り上げられなかったのはあの日だけ、悪いことが立て続けに起こった過去の霧は遠くへと流してしまって幸運を糸と共に引き寄せて、魚という様々な意味で生活の支えとなるそれを桶に入れて、暗闇が明けるまで海の闇から軽やかな闇へと魚たちを持ち出して無事に終えた今日の仕事。

 キールは家に戻り、ユユの仕事が終わる時間を、太陽が真上に昇る時間にならされる鐘の声を待っていた。ただひたすら待ち続けていた。


 夜が明けたその時のユユは気分が良かった。昨夜までの気分はどうにか置き去りにできたようでほっと胸を撫で下ろす。

 いつも通り、人々の生活の一部となる。特別な情熱ややる気は持ち合わせていないものの、継続の力は偉大なもので惰性の推進力で時間の中を駆け抜けた。

 最低限度の振る舞いで最大限度の気楽を得て客には愛想笑い。嘘で塗れた笑顔の裏側には本物の笑顔が眠っており、それを引き出すことの出来る人物はこの場にはいない。

 誰も彼もがそれぞれの感情を持っていてみんなが足並みをそろえる瞬間などどこにもない。そんな中で取り繕って生きるのだ。ユユが今この瞬間に構えている笑顔と裏に隠した笑顔は別物で、自分の心情すら足並みを揃えていなかった。

 鐘が鳴り、今日の仕事は全て終わり。ユユは肩の力を抜いて最低限の虚像すら剥がして街を歩く。そこを歩く人々の大半がユユと同じ休日を得た者だろう。人が色を埋める地面の上でしっかりと足を進めて入ったそこは濁った赤に焼けたレンガたちがしっかりと屋根に敷き詰められた建物。

 入った途端に出迎えた男が親指を一本伸ばしながら一人かと訊ねて来た。店員の一人なのだろう。

「彼と待ち合わせ。二人でキールの名前の予約は無いかな」

 キールが先に店に入って待っているはず。彼氏とのデートだと知った男はすぐさま木の板に刻まれた名を見通してユユを通す。

 テーブルに座る人々を見回しながら歩いていく。知らない人、知らないひげ、知らない美女、知らない事。知らない関わりに知らない楽しみ。

 遂に見つけた、知っている彼。ユユの彼氏は奥の方の席で座って待っていた。

「随分探したよ」

「悪い」

 キールは立ち上がり、ユユの方へと回って椅子を引いて座らせる。

「手前の方は座席料金がかかるから奥にした」

 この街の人気料理店ではよくある事だという。便利な席は昼間と夕食の稼ぎ時には有料席となるようだった。そこに座った上に様々な料理を頼む一般階級の上位層から一般階級寄りの貴族の姿や堂々とした振る舞いが眩しかった。

 キールは座ったままメニューの書かれた板を、ただの文字の羅列を眺めて顔を上げ、ユユにメニュー表を差し出した。

 すぐさま受け取り倣うようにユユも目を通す。注文する品を決めると共にテーブルに乗せられたベルを指でつまんで浮かせて鳴らす。

 すぐさま駆けつけてきた男が注文を伺い、二人一組でラージサイズのピザとオレンジジュースを頼んでみせた。

「では、銅貨七枚」

 その場で支払う形式だと知って即キールの手がポシェットを開いた。銅貨を取り出して男の手へと落とすと男は卑しい笑みを浮かべながら去って行った。

 周りを見渡すとやはりというべきか恋人同士は大きなサイズのものを分け合っていて一人の客は普通サイズ。この街の文化は経済事情によって築き上げられたといっても過言ではなかった。

「トマトピザは無かったね」

 ユユの言葉に頷き、左手を浮かせながらキールは口を開き始めた。

「ああ、ちょうど次の休みだろう」

 その日が来た時にはトマトが運ばれてくる予定なのだという。貴重なそれを使った感謝祭も開かれるという噂を耳にしたその日からキールの心の片隅で欲望が騒いでいた。

 やがて運ばれてきたそれは端の方が黒ずんでいてベーコンは香ばしい焼け具合を香りに変えて運び込む。ホワイトソースのピザはマグマを思わせるチーズの泡噴きによって昼のステージを踊る主役となっている。オレンジジュースは濁った色をしていてまさに自然が付けた色だった。

「美味しそう」

「なら良かった」

 キールの財布から出て行った銅貨は今日の稼ぎの半分程度だろうか。いつも通りならばこれ以上の出費を許してなどくれないだろう。しかしながら今日は、この日はユユから特別に許しをもらっている。互いに訪れる機会を待っていた事だろう。ユユは微笑みながら次へと向かうよう手を上げる。しっかりと伸びた細い手とその先にまで真っすぐ向いた人差し指。キールの顔に熱が走る。これこそが夏なのだと訴えかける感情、流れ込む想いは瞳からユユを見つめ続けるという結果だけをもたらして。

「はやく行くよ」

 キールの手を握り締める。その固い感触としっかりとした骨の質感は確かに男の手を握っているのだと、熱っぽい手の温度感は間違いなく男のものなのだと訴えかけている。そこまでしなければ男としての在り方を感じられないキールという人物に情けなさを感じながら男らしさの象徴となっているその手を引いて歩みを進める。

 二人揃って踏み入れたのはこの街で唯一の時報の鐘が収められた塔。街の中のありとあらゆる建造物の中で最も大きくて、キールは世界の頂上に立った気分になって浮かれていた。太陽の輝きを受けて煌めく鐘は祝福してくれているようで、見下ろした世界は自然から人の作り上げたものに人々の行き交いに至るまで何もかもが愉快な演奏をしているよう。この気持ちを持ち続けている特別な二人、そんな想像を巡らせながらユユに告げる。そんな言葉を受けてユユは口を閉ざしていた。言い返す言葉も無いほどに同調してくれているのだろうと心の鐘を鳴らす。そのまま手を伸ばしてしまいたい。本物の鐘を鳴らしてみせたい。ユユにもあの音色と自分の心は同じだと聞かせてみせたい。そう思いつつも手が出せない自分を意気地なしというのが正しいのか賢明というべきか。

 きっと罪に問われてでも思い出を残すべきだがその勇気は出なかった。

 しばらくの間、太陽と鐘の輝きが織り成すハーモニーに心を昂らせ続け、ユユの頬に手を添えて見つめる。

「ユユと同じくらい綺麗、ユユもあのくらい輝いてる」

 そんな言葉を受けたユユの顔に影が射し込んでいるという事に気が付かないまま、キールはユユを言葉で飾り続ける。

「最大の最愛で至高の至宝で」

 余計な言葉、必要以上の装飾はまさにいまのキールの心情を端的に表していた。

「まるで世界の全てがアクセサリーに過ぎないようだ、俺含めて」

 そんな言葉を真に受けてはユユという人物は孤独となってしまう。何もかもがアクセサリー、道具でしかない世界を想像して首を左右に振る。

「私はキールの特別なだけで、人々と手を取り合っていきたい」

 有頂天の彼が真っ逆さまな想いに捕らわれ何処までも落ちるように沈むさまを捉える事しか出来ない。掛ける言葉の正解が見えない。それ程までに今のキールが分からなかった。

「あまり恥ずかしい事しないで、嫌いになりそうだよ」

 それは二人の想いの丈の違い、色が合わない、最悪の組み合わせ。休日という思い出が音を立てて崩れてしまう。ユユは塔の煌めきの気高さなど自分には求めていなかった。

 キールが眉間にしわを寄せながら頭を抱える様を見つめてユユは大きなため息をついた。

「それがあなたが有頂天だった間の私の気持ち」

 言葉はあまりにも鋭利な刃物。幾度となく刺されたような気分に陥るものの、同じように刺し続けていたのだと反省を浮かべなければならないという事を自分に突きつける。

「やっと分かったんだね」

 キールは俯いたまま、ユユから少しだけ距離を置いて口を開いた。

「ごめん」

 塔に登っていたのは二人だけではない。ここに立つ人物は両手の指だけでは収まらない、それどころか二人の手の指全てを折って数えたところで余りが出てしまう程。

 そんな大人数に囲まれた環境の中で行なわれた見苦しいやり取り。その中で一人の男が声を上げる。

「お嬢、そこまでにしてやりな、さすがに可哀想だ」

 そんな余計な一言を加えて来る男に向けるものなどこの上なく鋭い視線と尖った声の他になかった。

「この人数の中で恥ずかしいこと言われたのは私だよ」

 咎める。男という生き物の中でも愚かなる道を行く二人に真実を教えて差し上げる。彼らの立場でしか考えることの出来ない人物、ある種の出来損ないたち。

 しかしそれは群衆の中でみっともなく喚くユユも同じことだった。

「人前でそこまで言うのはなあ」

 周囲の反応が言葉にせずに語る。形をはっきりと見せないままお互い様という結果を告げていた。

 つまり、この場所で恥をかかせたキールに過剰な責め立てを人前で披露したユユにただ無知を振って加わった男と口々にそれぞれの意見を述べる人々、その全てが罪だった。

 太陽は沈もうとしていた。公の仕事人が現れて人々に下りるように告げ始めた時、周囲が放つ澱んだ空気は濃厚で。圧倒されつつもどうにか声を振り絞る役人に従って降りる人々の暗い顔を見つめて役人はぽつりと呟いた。

「何があったんだ」

 その答えは何処にも残されていなかった。

 結局のところ全員が反省しながら歩く中でユユはキールの手をしっかりと握り締める。

「色々言ってごめんね」

「いいんだ、俺の方こそごめん」

 それでも結局は好きだから、そんな言葉を口にするユユと顔を夕焼け模様に染めるキールを背にして鐘の音は心なしかいつもより寂しい響きを持って街中を駆け巡っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る