第11話 不幸

 風が妙に冷たい。海を巻き上げて低温を纏って空気全体を大海原の好みの色に染め上げて行く。キールは現実を受け入れるしかなかった。季節を信じる事が出来ない、暑いはずのこの季節、日差しが厳しいはずのこの時期の中で肌寒いという言葉を思い浮かべる日が来てしまうとは思ってもみなかった。

 夜中の道、闇の中の世界。昨日のユユの歪んだ瞳を思い出しては心に縄が巻き付いていく、縛り上げられて行く。彼女は狩りを終えた次の日に気が付いてキールに相談を持ち掛けていくのだった。

「ペン、失くしたかも」

 いつから手元を離れてしまったのだろうか、訊ねても不明、思い出そうにも細かな行動の記憶など荒波の中に消え去ってしまった事だろう。

 暗闇の中を探すわけにも行かなくて、明かりを灯そうにも疲れが溜まっていたキールの頭には次の日の仕事という重りが乗っかっていた。

 今は気にしても仕方がないと一旦頭の中に仕舞い込んで歩き続ける。何も見えない闇、空気を冷やす雨もそこにはいないにもかかわらず肌を切るような寒気が襲い掛かって来る。我慢することでしか対処できないのだと諦めて更に寒くなっている事が予想される海へと向かう。

 続いて釣り竿を構えて餌を海へと放り投げ、いつも通りの仕事をこなそうと心がける。

 それからあまりにも静かな時間が流れて行った。

 キールの竿は大人しく、キールの動きはあまりにも小さい。周りの男たち、仕事仲間も出来る限り静まり返ろうとするも、静寂の中ではちょっとした声すら大きな波紋となる。周りの人々が無事に釣り上げた事を物音で知っては焦りが積もってしまう。竿を強く握り締め、居ても立っても居られない心情を無理やり押さえつける。

 それでも虚しい闇の水平線は乱れることなく漂い続けているようで。

 更に一人、もう一人と歓声を上げる。釣り上げては物音が変わり、雇い主はそれでどれだけの数の魚を釣り上げたのか頭の中に居座りし過去の目印を覚える空間の中に記しているようだった。

 暗闇は緩み、濃く深い青が空を覆い始めてそれについて行くように海の色も青づき始める。今の今までキールの釣り竿には何もかからず時だけが溶けて行ってしまう。明るみが世界を包み始めても今日のキールの結果には明るみは訪れない。

 そんな中でも頭の隅でチラついている事があった。

 ユユのペンは何処に行ってしまったのだろう。煌めく鳥や粉のように散りばめられた宝石といった装飾が施された金属の棒。インクに浸すことで紙や布といったものに人々の交流のために扱われてきた記号の塊を綴るための道具。あれは船で働いた時に買ってもらったもので、二人にとっての宝物。キールが与えられた炎を思わせる加工がなされたペンは勉強の時は当然の事、試験の際にまで身を現してキールの助けとなったものだった。

 あのペンが失われる事は思い出をなくすことと同じように思えてしまって息が詰まる。

 ユユのためにも自分のためにも探さなければならないと寒さに気持ちを引き締めて、今は仕事をこなし続けていた。そんな仕事も上手くこなせずに周りから置いて行かれる感覚を味わい、苦みに溢れた感情を噛み締め続けていた。

 そうして結局は何も出来ないまま釣りの終幕の時が来た。雇い主が成果を数えて市場に売りに行くまでの道、やり取りされる魚、社会の中に自分がいないような錯覚を得てしまう程だった。一人だけ遠くの世界に迷い込み、幻想の中で現実を見つめ続けているような足の浮つく最悪の夢み心地。

 周囲の仲間が続々と賃金を受け取る中で、自分の存在はないかのように感じられる。この金の中に自分が上げた成果は含まれていない、渡される銅貨もないのだから。

 キールの様子を見つめ、次の木材の仕事でも世話になる男が肩を優しく叩く。

「落ち込むな、そういう日もある」

 納得のいかない表情をしっかりと目にしてそれでも男は己の意見を届ける事を止めない。

「釣りなんてほぼ運だからな」

 どう足掻いても釣れない日は釣れないものだと伝えられ、無理やりにでも元気を出す。夜中の内に無理やり齧ったパンの香りは未だに弱々しく揺らめく影の感情を引きずっていた。

 次の仕事が訪れる前に昼食を取る。いつも通りの行動、しかしながら人々の波がいつも以上に激しく感じられた。

 そんな荒波模様を作り上げる人々は口々にこう告げていた。

「演劇が来るぞ」

 異なる声、異なる言葉で同じように楽しみにしているのだと語る彼らの目は輝きに満ちていた。キールは演劇など観に行っている場合ではないのだといつも通りの屋台に並ぼうとするもその列のごった返しの激しさを恐れて別の場所を目指す事とした。

 いつも以上に安物で、生の野菜を切って炙った魚をほぐして乗せて軽く辛みを付けた料理。主食がないのは苦しみを呼ぶものの、そうでなければ値段に苦しむこととなる。どう足掻いても苦しみは訪れてしまうのだった。

 昼食を無理やり噛み締めて、無理やり飲み込む。せっかくの美味も仕事の直前であるがために楽しむことが出来なかった。

 歩き出そうとしたその時、人の流れに乗り遅れて身をぶつけてしまう。

「すまない」

 頭を軽く下げてみせるものの、許しなどないまま口を閉ざしてキールを睨み付けたまま立ち去って行く。平民特有の薄っぺらな緑がかったベージュの服を纏った男の大きな背は遠ざかり、ただそれだけで終わり。口の中に残された後味の意味合いが崩れて悪質な余韻を心臓の脈と共に刻み込む。印象に残りやすい速度で絶え間なく打ち出されるそれは身を蝕み己の中で勝手に不幸を作り上げて行った。

 振り返り、太陽の輝きを見つめて注がれる日差しを吸い込むように息を吸い、勢いよく吐き出す。

 続いて歩き出し、次の仕事場へと戻って行く。緑の世界が待ち受けるそこは人々の生活に欠かせない木材の材料によって構成された地。森林の中へと入ろうとしたキールは思わず足を滑らせた。地にへたり込み、突如として襲い来る痛みに歯を食いしばりながら葉に覆われた土に手を着いて立ち上がり体勢を整える。痺れにも似た感覚で痛みが走る。最悪の余韻が掛かって来る。膝や脛に軽い痛みを残し心に重い苦しみを与える。その想いの味わいはまさに苦み。

「今日はなんて日だ」

 ちょっとした不運が重なり続ける事で大きな厄日を作り上げる。そんな陰なる心の建築は森の薄暗さに怪物が隠れているような錯覚を与えてくる。

 木を一本切り倒すだけでもいつも以上の負担が足を襲う。一つ一つの行ないに付随する痛みは後を付け回しているようで憎悪が湧いては煮え立ってくる。

「痛いんだ」

 口から吐息と共に零れてしまう弱音は次の行動への心構え。いつも通りに二人で木を持ち上げて運び出す。

 森を抜けて荒れ地の固い感覚が足を伝う。この感覚に恨みを向けた事など人生で初めてだった。

 一歩ずつ確実に進んでいるようだが目的地が見えて来ない。いつもなら思いもしない事。痛みが時間の経過を確実に遅らせている。人の感覚の不思議が自ら牙をむいているようだった。そんな中で心の底から拳を突き出すような勢いで湧いて来る熱い感情が身を焦がす。破竹の勢いで心情の天井を突き破って目を伝って天井へと昇って行く。辺りで転がり続ける雑草の球もぽつぽつと立つように生えているサボテンも何もかもがキールの怒りを揺らしてしまう。

 貴族が馬に乗って弓を放って遊ぶ様はまさにキールの欲望の化身。

 しかし今は仕事の途中で放り出すことは許されない。人である限りはやめることが出来ない。身分の差という変えようのないもの、何を考えてもひっくり返る事のなさそうなものに苛立ちを抱えながら街へと一度戻り、仮置き場に置いて再び森へと向かう。何度でも訴えかけてくる痛みは慣れをもたらしつつも再び木を切るときには突発的な痛みを放ち、持ち上げる時には断続的な痛みに化けて行く。これに限っては我慢する他なかった。

 脚の動きに違和感を抱いたのだろうか、釣りの仕事仲間が同じように木を運びながら口を動かす。

「痛むか、医者は」

「どういう冗談だ」

 この国、というより人伝に耳から取り入れた情報によればこの世界のほとんどの地域で医者は貴族の病気やケガを治療する程度の場所でしかない。公の学校を出て国が運営する組織に所属する彼らであったものの、診察料や手術といった救いの一手を求めるには平民程度の手は届かない。金を積むことが彼らにとっての正義だった。

「じゃあ魔女に頼るか」

「信じてもいいのだろうか」

 様々な効能を持つ植物の中から患者の抱える症状に合わせて選び抜き、すり潰して練って作り上げたものや煮詰めた液体といった様々な薬を提供する比較的安価な報酬で受けてくれる集団。重症であればお手上げだというもののキールの患部は精々赤く腫れあがる程度。

「でも魔女ってどこにいる」

「公が目を光らせないところ」

 魔女は陰に隠れるように生きている。正義を名乗る公の騎士団に見つかってしまったその時が命の終焉。

「民間の為になってるのに違法とは」

「不適切な治療を行なう魔女もいるからな」

 つまるところ、信用としての能力を持つ免状羊皮紙に名を連ねている事が相手に治療を施すための条件。

「ひどい時には魔女も薬草売りとなったものだ」

 その様が見たくて仕方がない。そんなキールの眼差しの中に鮮やかな色を差し込む一言を添える。

「調理に魅惑の香りをと言って売ってたな」

 しかし、その魔女たちを探すにも痛みが酷くなる距離を歩き続けなければならない事だろう。そもそも活動範囲にいたところで会えるとも限らないものだ。

「魔女なんて名乗りが怪しいんだ」

 伝える情報をすべて手放してしまったのだろうか。男の語りが魔女の説明から批判へと貌を変えた。

「魔法なんて無いってこの街の平民でも分かってるのにな」

 男は遂に口を閉ざしてしまった。キールの手元には返す言葉がなかった事、キールは痛みに耐えているという事で言葉も浮かばないと思ったのだろう。気を散らさないためにもと気を使っているようにも見受けられた。

 それからも仕事は続く。時たま上がり切れていない足が落ちている枝を通り抜けることが出来ずに躓く。体勢を崩すという当然の流れを手繰り寄せてしまうものの、地に着いている方の足で上手く踏ん張ってはバランスを崩した足は地に着く。無事で済んだかと思えばそうは行かずに大きな痛みを招き、キールの顔は大きく歪んでいた。

 それからも痛みは和らぐどころか立派に育っている。収まるという言葉を知らないのか広く熱く行き渡っている。しかしながら慣れが誤魔化してくれて鐘が鳴るその時まで動く事が叶った。

 夕刻を告げる鐘が仕事の終わりを勧めて来るが終わりそうにも無い。それから少しの時の間に多くの木を割ってどうにか今日の仕事を終わらせたその時の空はくすんだ水色をしていた。

 街を歩き、レンガ造り建物に張られるように取り付けられたガラスのドアを開いて踏み入る。

 入ってすぐ隣のテーブルでまつ毛を伸ばして深海色のドレスを着た金髪の女が物憂げな顔をしながら肘を着いて湯気の立つ飲み物を口にしている。優雅で気品のある様はキールにもユユにも真似は出来ないだろう。

 顔に幾つもの皴が刻まれた小太りの男と向かい合い、コーヒーを頼んだ。

「一番安いので銅貨二十枚」

 釣りの報酬が出る日の平均と木材の仕事の賃金の殆どを失う形。今日は釣りでの報酬は出なかったため、キールの一日の労働を超えた価値を持っているようだ。

「しかしお客よ、熱心なものだな」

 マスターの言葉の意味が見えて来ず、素っ頓狂な様を見せていると彼はそのまま続ける。

「分かってる、あの女優追って来たんだろ」

 コーヒーという高級品を演劇の女優が演じ終わりと共に入るという今日を選んで頼みに来ただけでも疑われてしまうよう。

「今日は悪い日だった」

 キールは今日の出来事を、一日の感情を脳裏で再生しながら今はその地続きなのだと思い知る。

「気楽にな、人生頑張る事だけが全てじゃないから」

 カップに注がれたコーヒーを啜り、自分の中から消え失せたかつての人生への熱と苦みに打ちのめされて、女優の顔を拝むことすらなく出て、いったん家に帰る。

 待っていたのは見慣れた顔、あの美人をはっきりと見なくても整い切れていないのは明らか、それでも愛しい思い出を蘇らせてくれる明るい笑顔。

「ペンは二つの箱の隙間に隠れてたよ」

 つまるところ、ペンはユユが失くした事に気が付く少し前から一度たりとも外に出ていなかったという事だった。

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