第10話 狩り
太陽が五つ沈んだ夜を経て次の太陽が顔を出す。この前の休みは海を歩き、夜には頭痛に悩まされた。次の朝には寝不足でおぼつかない足取りを、風に乗って暴れる波のように揺れる身体を見ては心配を支えに手を差し出す仲間たちに助けられつつ昼の鐘が鳴った時には力が抜けてへたり込んでしまっていた。
それから少しの睡眠と仲間に起こしてもらって向かった昼食を経て服屋の仕事。それも終わって夕飯を済ませ、キールに甘い目を向けて倒れるように寝込んだという一日を過ごした事を思い出し、ユユの頭は茹で上がってしまいそうだった。
それから今日に至るまではそれといって苦しいことも無く楽なことも無い労働生活を過ごして休日手前の服屋の仕事の際、一つの欲望を打ち明ける事にした。
「ふるさとでは狩りをしてたんだけどここでは出来ないかな」
途端に周りの女たちは目を輝かせながら集まり始める。そこに明るい色以外は無い事を見てユユの顔は赤く色付いていた。注目というものを受けたのは初めてかも知れない。
「今まで狩りやってたんだ」
「かっこいいね」
「惚れちゃいそう」
口々にユユに対する甘い声を発している彼女たちには恋人はいないのだろうか。彼がいればきっと彼の方がかっこいいに決まっている。ユユの顔は尖りが感じられず狩りという本来こなす事さえ出来れば先程のようにかっこいいと言われるような事でも実際に目にすればどうにも決まらないという有り様だった。
「狩りは、貴族か冒険者がやることかな」
「隣の都市は出入り激しいから冒険者や魔法使い多いもんね」
彼女たちが差し出した情報はユユにも狩りが出来そうだと確信を与えてくれる。
「冒険者のつもりでやればいいね」
アドバイスを注ぐ女たちは今この場では実に頼れる存在。言葉の一つ一つに感謝の表情を込めて声を捧げる。瞳は柔らかなカーブを描き、まつ毛はそんな顔に艶やかな雰囲気を加える。
「ありがとうね、彼に相談して拵えてみる」
ユユの中に生まれた目標は確かな姿を持って未来に現れた。瞳でしっかりと捉えてそこへと向かって進み、つかみ取るのだ。
夕飯の時間、キールと共にいつも通りの食堂で日替わりメニューを頼みパンと野菜とベーコンのスープパスタを味わう。卵をつなぎにしたパスタはちょっとしたコクを出したもちもち食感。ユユの想いは充たされそうになっていたものの、満足する前に例の相談を持ち掛ける。
「私さ、昔みたいに狩りがしたいよ」
キールは目を丸くして真剣な眼差しを見つめていた。
「休日だけでもいいから」
途端にキールは微笑みを浮かべながら同意を示した。ユユの中に色付いたものはもう語るまでも無い。跳び上がり落ち着きを失った身体で感情の表現の方法を探しながらしばらく経った後、結局落ち着くことも無く明日の狩りの準備に取り掛かり始めた。
ユユが引っ越しの際に持ち込んだ狩りの道具、弓矢とナイフ、更には火打石やほぐした麻紐を持って罠一式を取り出し外へと出ようとした。
「明日じゃないのか」
振り返るユユの瞳は輝きに満ち溢れていた。揺れるガラス玉のようなそれが訴えかける感情の昂ぶりを抑え込むことの出来る人物などこの世界のどこにもいない。
「今夜の内から罠だけ張っておくよ」
キールはユユの父と三人で狩りに出かけた日の事を思い出した。何年前の事だろう。霞のかかった記憶は一部だけ頭を出して残りは埋もれたまま表面にまで浮かび上がっては来ない。
「すぐ帰るからキールは待ってて」
ついて行こうと提案を出したものの断られるという結末を付けられ終わってしまった。信用が既に失われているのかも知れない。
暗闇の中、ユユの動きは数年の内で最も冴えたものとなっていた。様々な罠を持って街の外へと踏み出して、荒れ地や海に入らないよう動いていた。
たどり着いた森は暗く、伸ばされた木々の腕は星々の明かりすら隠してしまう。猛獣に襲われたその時が命の尽き。それは狩りという行動の中では常に付き纏うもので常識と呼んで差支えない。
様々な場所に罠を仕掛けていく中で不安が大きくなっていく。木々よりも太く豊かに育った恐怖感は一寸先の光景すら見えない事に加えていつ脅威が襲って来るかも分からないという事が騒ぎ立てたもの。必要な感情とはいえ今のユユにとっては行動を鈍らせる余計なものでしかなかった。
やがて全ての罠をかけながら赤い布を木の枝に結び付けて目印とする作業も終わりを告げ、家にふたたび戻ってキールに近寄る。いつもよりも近くで寝転がり、キールの手を緩やかに両手で包み込んで眠りに就いた。
窓は完ぺきではない。しっかりと塞いだところで空が明るく色付けば隙間から光が入り込むものだ。
ユユは目を擦りながら身体を起こし、キールは既に釣りに出かけてしまった事をおぼつかない思考でつかみながらパンをつかんで噛み締める。
地に立っていないような独特な浮遊感と共に過ごす今日の仕事。それを想像するだけでも気分が曇ってしまいそうだった。
気分を日差しの中に染み込ませ、愛用のペンを置いて弓矢とナイフを壁の隅に置いてパンの生地を持って外へと出る。休日など一度も無い。食に関する職の重要性は理解しているつもりだった。賃金を得るためには働き続ける事が大切だという事も分かっていた。
楽しみに揺れるユユの中に宿っていた仕事に対する姿勢への意識が縮み上がっていた。
パンを焼き、いつも通りに仕事を済ませようにも言葉が詰まってしまう。欲望が思わず顔に出てはいつものように振る舞おうと意識を高めて更に不自然な接客をしてしまう。
妙に元気がいい、どこか異なる方向を見ている、身体が少し捻じれている。そんな指摘を受けつつも仕事の終わりの時間までそのまま過ごし、家に戻ってキールの手を引っ張った。
「肉が手に入ったら料理しようかな」
これから始まるのは二人の夕飯の入手、生活を営むという事の重さの再確認だった。
関所には遊びに行くと告げてそのまま勢いよく飛び出した。ユユのいつになく元気な足取りを目にしてキールは思わず訊ねてしまった。
「落ち着きがないな」
言葉に対して言葉を重ねることも無く森の中へと入り、ユユは一度深呼吸をした。
「狩りの始まりだね」
更にもう一度深呼吸をして自然と一体となる。木々の香り、周りと比べて湿った空気は涼しくて心に潤いをもたらしてくれる。
「落ち着かなきゃ」
そんな言葉と共に彼女の中で何かが変わり果てた。手始めに辺りを見回しながら歩き、木々の中に浮かぶ違和感を探る。それは足跡や糞といった生物の痕跡であり不自然に噛み切られた葉や枝といったものかも知れない。
ユユは一つの目的を指した。枝に腕のように伸びた枝に結び付けられた赤い布はユユが森の中に加えた新たな模様だった。
「昨日の罠だよ」
木を半周回ったそこに待ち受ける姿にキールは目を見開いた。言葉を失う衝撃、感情をも奪い去るそれは罠にかかったウサギだった。必死に逃げようとするも引っ掛かった脚は離れることが出来ずに引っ張られ続けていた。
ユユはナイフを取り出し、構えてゆっくりとウサギに近付き呟く。
「命をいただきます」
木漏れ日を受けて鋭い輝きを放つナイフが揺らめいて見えた。ゆっくりと近付くユユの姿が目に入ったのだろう。ウサギは更に慌てているようでキールの心は痛んでしまう。
「可哀想だ」
「見た目で決めちゃうんだ」
狩人なら誰もが抱く疑問だろう。かつては容赦なく狩っていたキールの今を知ってユユは落ち込まずにはいられなかった。
「せめてイノシシとかにしないか」
「そんなこと言ったら何も狩れないよ」
今のキールという人物が分からなくて仕方がなかった。望むままに臨めるはずの趣味が台無しとなってしまう。薄明るいはずの森が薄暗い空気を背負っていた。
「キールは無理に狩りしなくていいよ」
従うままに頷いてただ立ち尽くすのみ。出来る事などただそれだけ。
「気が散るから散歩でもしてたら」
声に操られる。意味という形を与えられた音に従ってキールは歩き出す。木漏れ日を浴びながら、影という彩りに身を浸して。辺りを色付けるひんやりとした感触は身に染みて、生活の中で蓄積してこびりついた疲れを少しずつ剥ぎ落としていく。
緑の力はそれ程までに偉大だった。
薄っぺらな羽を優雅に仰ぎながら飛び回る水色のそれは蝶だろうか。地を這っているミミズや上手く隠れようにも葉を踏む音を響かせて姿を現すまでも無く居場所を示してしまうネズミが孤独ではないのだと示していた。
落ち着きをもたらす高くて優しい音が耳を通り抜ける。肌で感じたその声の持ち主の名前は分からない。ただずっと鳴き続けているだけの鳥としか言い表すことも出来ずにもどかしさを生み落としていた。
「デートにすらならなかったな」
胸の中に広がるもやもやとした想いの正体がつかめない。欲望なのか悔しさなのか自分の為の感情なのか他者の為の感情なのか見分ける事すら叶わない。
今キールにできる事などただ歩いて時間を潰してしまう事だけだった。彼女の機嫌を損ねないように距離を取る振る舞い、それが正解でありながら誤りであり過ちとなってしまう事にも気が付かずにただ癒しを求めて溶け込むように森の織り成す光景に張り付きながら過ごすだけだった。
ユユの孤独は気楽。罠にかかった獲物に得物を振り下ろしてそのまま下ろして血抜きを終わらせて。川の水で洗う事に抵抗はあったものの他に取ることの出来る方法など見当たらなかった。
歩き回り、ユユの楽しみを探し続ける。せっかくここまで来たのなら心が充たされるまで目的を果たし続けよう。心に誓って歩く。
心音は内から響き、嬉々とした表情を浮かべてしまう。この充実感は果たしていつの間にか過去に置き去りにしてしまったものだろう。
耳を澄ませば森を駆け抜ける獣が音で軌跡を描いている様を手に取った。共に弓を構えて目を閉じ気持ちを一つに束ねる。どこにいてどこに行ってしまうものか。定めて矢を放ち、その先までユユも走り始める。今までと変わり果てた音が届いてユユは年甲斐も無くはしゃいでしまいそうな自分を抑えながら足を更に速めた。仕留めた獲物は地に横たわり、自然の中に固定された置物となってしまっていた。
上手く狩れた。腕は枯れていなかった。それが分かっただけでもユユの心は遊びを更に求め、空を見上げる。
太陽は沈もうとしている頃、夕方が訪れるまであとどれ程だろう。真ん中から地平線までの距離を目測で計って半分を通り過ぎた頃だろうか。すぐにでも訪れるその時間を恐れて森から引き上げる準備に取り掛かり始めた。狩りそのものは全身の感覚を研ぎ澄ますと言ったところで人間という生き物である限りは視界が安全確認の主成分であることには違いなかった。
罠を回収して獲物と共に束ねて背負い、キールを探して歩き回る。葉が幾つも散らされた絨毯に周囲と比べて湿って柔らかな土、時折聞こえる動物の鳴き声。森という場所を歩くために消耗する精神は荒れ地や街の数倍にも及んだ。使い込まれる時間も多く感じられた。
歩くユユは木の陰に不自然な姿を見た。森と調和を奏でることの出来ない足音や生活リズム。それが人間の見分け方。
駆け寄って確認を取る。重たい緑を薄っすらと纏った灰色の髪とユユと比べるとしっかりとしつつも右に仄かな傾きを見せる背中、間違いなくキールだった。
「キール、帰ろう」
声はどのように響いたのだろう。キールは辺りを見渡し必死に目を凝らしていた。見当違いの方向へと進む瞳。声が木々に当たって乱反射を繰り返し、あらぬ方向から耳に入ってしまったのだろう。実に不思議な現象だった。
歩み寄り、肩に手を置いて引き寄せる。キールが合わせた目は感情の動きに従いしっかりと見開かれていた。
そんなキールの顔を見てユユは顔を傾け優しい目を作り上げる。
「気分転換になったかな」
ユユの口から伝わる感情の波はキールをどこまで揺らしたものだろう。
「今日はごめん、次は一緒に狩りを楽しもう」
素直な言葉を見せたキール本人の顔が驚きに包まれていた。
「いいよ、次はもっと楽しくしようね」
もしかするとリラックス以前に後ろめたい感情に凭れてしまっていたのかも知れない。互いに後味の悪い視線を交えながらも今日の出来事を語り合いながら荒野を歩き、街の関所を無事に通過して街を歩く。暗闇が空の底に溜まり始めている景色の中、薪を買って人一人通らない隅の方に敷く。続いて引っ越しの際に故郷から持ち込んだ鍋にこれまた購入済みの水を注ぎ、肉を煮込み二人の空腹を幸福感と共に埋める食事の時間を招き入れた。
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