第9話 故郷
海を眺め続けていた二人の中に挟まれた感情の壁、二人を分け隔てる想いの溝は互いに理解できない。実体を見たところで形を把握することはおろか、影すら見透かすことが出来ない。そんな二人の想いに寄り添うように視界を閉ざす闇は近付いていた。
ユユは思い返す。かつての地、故郷の姿を。隣の港町の海も同じ色をしていたはずなのにどこか異なる様を見せていた。香りだろうか。潮風が運んで来る魚の死骸や汚れの混ざった独特な香りは同じもので、しかしながらこの地に立っていると異なる心地が漂って来るのだった。
それはきっと草木が与えた差であったり空気の香りであったり人々の作り上げた文化の差。誰に伝えても理解してもらえない。キールですら耳を傾けはしても首を縦に振る事は無かった。
太陽が完全に沈み込み、夜闇に覆われた街はユユの心を落ち着けてくれる。妙に熱っぽい風が外食店の煙突から吹き出る煙と熱によって巻き上げられて降り注ぐように滲み、香りをまき散らしては辺りに充満させる。落ち着きがはっきりと見せてくれる違いはあまりにも大きいもので、雰囲気が故郷の静けさとも港町の賑わいともどこか違うもの。
休日のない仕事に感謝の思いを込めてキールと足並み揃えていつも通りの店に入って日替わりメニューを頼む。在庫によって変わってくるため正しくは日替わりですらない事もあるとは言われたものの、便宜上の名が上手く通っているという様だった。
今日は小麦を練って細かく千切ったものと野菜とベーコンを炒め、果汁と刻みトウガラシを混ぜたソースを絡めて食べる品が差し出された。
「名も無きメニューもあるもんだよね」
いつも名を付けられることなく出されるそれらは二度と同じ姿を見せる事や同じ味を宿すことがないかも知れない。そんな気まぐれのメニューを口へと運びゆっくりと噛み締めて味わいを楽しむ。酸味と辛みの混ざったソースが小麦の粒にしっかりと纏わりつき、ベーコンのしょっぱさと野菜の歯ごたえが入り乱れて味わいのバランスを取っていた。
「名前なんてなくてもいいんじゃないか」
キールの言葉がしっかりと響く。喧噪の中、対して大きな声で話しているわけでもない彼の声がしっかりと通るのは聞き慣れた声だからだろうか。
ユユの中の意識がある一つの事実にたどり着いた途端、その頬に浮かぶ熱っぽい赤が感情の洒落を乗せる。気が付きたかったようで気が付きたくなかった心情は一度意識してしまえば止まらない。
そんな情を隠すべく関係のない話題を引っ張り込むのだった。
「服作りの仕事は順調なんだよ」
突然放り込んでしまった話題を恨む。この時間の中で最悪の選択をしてしまっていた。仕事の話など今は全くもってしたくなかった。
「そっか。俺の勤めてる材木関係も大丈夫だ」
誤った話題に勢いよく食らい付いてくるキールを今にも恨んでしまいそう。彼は何も悪くないというのにも拘わらず、心情の暴れ馬は上手く収められない。
「ああそう、良かったね」
声の尖りに刺されて目を見開くキール。理不尽は可哀想で、しかしながら謝る気分にもなれなくて。
結局楽しくない夕飯を過ごす羽目になってしまった。
周りの人々がウイスキーを頼む度に樽ジョッキに注がれるウイスキーがもともと収められていた瓶。透明な身体に詰められた琥珀色の液体はまさに別の世界の海のようで美しい。開けられた窓の向こうは暗闇で、室内を照らすものはテーブルに置かれた容器に注がれたクジラ油を燃やす照明と壁に掛けられた松明。そうした明かりがガラスや金属に当たって跳ね返り、この食堂という一つの世界観を作り上げていた。
そうした事の魅力や二人で歩む明るい未来といった話がしたかったはずが気が付けば今の態度。このままではいけないと思いつつも開ける道が見えなかった。
「キールが入学してからも仕事だね」
そんな言葉を受けてか一つの大きな声が隣のテーブルから響いて来る。
「都会が隣だが辺りは荒野、栄える度に何もかもが値上げ」
荒々しい声は明らかに日頃から貯めてきたものであろう不満をつらつらと述べていた。
「そのくせ俺らは我慢しろってんだ」
言葉と共にウイスキーの注がれた樽ジョッキを太い手でつかみ持ち上げる。そのまま手は口へと近付いていく。
「神なんてのがいるとしたら世界中の人間がひっくり返るような意地悪だな」
それから勢いよくウイスキーを口へと流し込み、喉を鳴らして豪快に息を吐いては天井を睨み付ける。
「神なんてクソ喰らえだ」
汚い言葉を吐き捨てながら樽ジョッキを勢いよくテーブルに叩き付ける。たったそれだけの事でテーブルは揺れ、振動はそのまま床へと流れて行く。大きな音は人々を飛び上がらせて注目を集めていた。
そんな飲んだくれの男の隣に座っているという状況が嫌で、すぐにでも店を出たくて仕方がなかった。
そんな想いを視線や顔の傾きから感じたのだろう。キールはすぐさま小麦と野菜を口へと放り込んでオレンジの絞り汁を流し込んだ。
帰りの道には帰りの流れがある。人々が入り乱れる中で一定の人数が同じ流れを作っていた。
「居住区に帰る流れに乗ろう」
考える事を放棄して流されるように。潮風は形を失ってもなお流れているものだ、などと身を包む風に想いを馳せながら、居住区を目指していた。火が揺らめく夜闇の中では人通りの闇がはっきりと黒を主張している。見えない足元、時折そこにいる目に映らない人物は感触で気が付く程のもので、迷惑をかけ続けてしまう。
ユユが頭を押さえている姿が目に入って思わず急いでは人々にぶつかってしまう。心臓の鼓動とユユの闇にぼやける表情が急かして来る。
「失礼、そちらも失礼」
声をかけながら通ろうとするも毎日が賑わい、喧噪が流れ出る事が当たり前のこの風景の中では音の一部にしかならずキールが発した言葉の意味は意味を持たない。
「ユユ、もうすぐ着くから」
丁寧な声掛けがユユを無事に頷かせ、人の塊から離れようと狭い路地へと足を踏み入れるものの、動きを揃えるように同じ道へと踏み込む集団があり平穏は得られない。木々で組まれた家の質感もワインレッドで統一された屋根に現れた生活感や経年による色の違いも見て取ることが出来ない。
「もうちょっと」
しっかりと見えない景色が震える。空に散りばめられた星々が揺れている。慌てるキールが揺らしている脳の衝動と同じ動きを取って、ユユの背に丁寧に置いたつもりの手がユユの肩を大きく揺らしてしまう。
「ごめん」
「いいの」
元気のない声が澄んだ空気に向かうも細かに溶け入ることも無く喧噪に削られる。毎晩がこの調子で初めての休日で想いを様々な色に塗り替えていたユユはいつもの疲れと異なるものを積もらせていたよう。
進むにつれて人だかりは減って行き、立派で異質なアパートと呼ばれる建物を通り過ぎる頃には足音は四つにまで減った。
「もうすぐだ」
それから少し歩いた先に見えた闇。ぽつぽつと灯る火、幾つかの木を組んで作り上げたスタンドの上で浮かぶように灯る明かりが頼りなく揺れながら道を示す。所々既に消えてしまっていたものの、新しく灯すための燃料も見当たらずそのまま先へと進む。
家にたどり着いた頃にはキールの息は上がり、肩は上下に揺れる。内側で舞う熱はいつまでも収まる事も出て行くことも無く、気温よりも熱く感じられる。滲む汗が強い不快感を呼び起こしてしまう。
打掛錠を上げてドアを開き、二人は遂に身を床に転がすに至った。
動く気力さえ起きない。それは二人とも同じ事だろう。
「最後で凄く疲れた」
「ただでさえ疲れてたのに」
キールの声に同意を示す言葉が塗り重ねられた。
それから流れ出る静寂は先ほどまでの喧騒も自分の内で騒いでいた心をも過去のものに変えて心地よい時間を与えてくれる。
「故郷近くの港町の騒がしさとは違うね」
ユユの言葉は家中に響き渡る。それ程大きな声を出したつもりがなくてもしっかりと響くのはユユの身体と感覚の差か静けさがもたらした錯覚か。
「私は故郷が大好きだったよ」
ユユの瞳には何が映されているのだろう。今のキールには想像すらつかない。それどころか意識すら目の前から立ち去ってしまいそうだった。
ユユは思い返す。キールと父の農作業を手伝ったあの日を、ユユの一家の本業で狩った獲物の余りを、骨や肉を細かく切って焼いて肥料に変えて撒いて共に手伝った時の事。あれは十歳程の事だったか。
他にも漁船へとキールが手伝いに行った時に本来招かれていなかったユユも人目を盗んで忍び込んで仕事に加わった事。
これまでの思い出と最近のキールを比べてはついため息を零してしまう。
野菜や小麦の香り、自然の中で節度を守って火を灯したあの温もり。川の汚い水は使えないため男の子たちが森の中に入って何往復もかけて水を汲んできた事。毎日が厳しくも楽しく、今となっては降り注ぐ雨が台無しにしてしまった作物たちを見つめながら嘆く大人たちの姿までもが懐かしく思えてしまう。
今すぐそばで寝ている彼は果たしてあの頃のキールなのだろうか。過去を想うだけで今の彼に違和感が出てきてしまう。
ただ変わったわけではなく、一生懸命仕事に打ち込む姿が失われてしまったよう。
「変わってしまったね」
細く消え入りそうな声で呟くも、闇を揺らすほどの声になってしまう。静寂はどこまでも繊細でまるで男の本性のよう。力で全てをねじ伏せ誤魔化したところで内側の弱みは隠し通す事など出来ない。
「キールって怠惰だね」
しっかりと響くも意識を闇に沈めて静かな寝息を立てる彼には届くことのない声、そこに込められた意味がユユの本音。
「ちょっとがっかり」
落胆する自分にすら落胆してしまう。どうしてこのような人物を少しでも好きになってしまったのだろう。分かれてしまえば早いのだろうか。しかし、どうしても完全に嫌いになれない自分がいた。底にひっそりと積もっているのか上澄みとなって浮いているのか。そんな想いが首を絞めて夏の暑さと絡み合っていた。
あの時を思い出すほどに今が苦しく感じられる。それとも小さな頃は大人の時間も世界も知らなかっただけなのだろうか。想いを馳せているあの土地も帰ってみればもしかすると。
そこまで考えたのちに首を左右に振る。きっと好きな場所や居心地のいい場所がそこにはあるはず。
山も空も海も見栄えは変わりないはずなのにあの場所の方が輝かしく見えてしまう。気のせいではないはずだと、気のせいではないと気が付いていた。思い出という塗料はどれだけの金を使い込んで豪華な生活を塗り付けても敵わない。ユユの望みは叶わない。今この場に慣れたところですぐにでもキールが通う学校のある都市へと引っ越してしまう事だろう。今の街に手慣れる事など意識するまでも無い。
ユユは気が付かなかったものの、意識するまでも無く慣れてしまうのが心というものだった。
ユユは暗闇で頭を抱えて丸まって最近の生活を思い出す。狩りや農業とは違った人々との関わりは比較的都会の作法で経験の欠片すら持ち合わせていないユユには人一倍疲れが溜まってしまう。
故郷を思い出しては浸り続ける。星々が揺れながら沈む海で、草木の香りが風に運ばれる大地の上で、人々と自然の香りが直接混ざるそこで過ごす日々が恋しくて仕方がなくて。
明日にでも帰りたくなってしまう。
今日にでも、昨日にでも。
これから眠らなければならない、身体はしっかりと疲れを溜め込みぼやけた思考は夜の空気の中で浮いているようにくっきりと目立つ。
しかしながら目を閉じても意識を閉じようとしても不思議と眠ることが出来ない。一体どのような状態なのだろう。明日を無事に過ごすことが出来ないのではないだろうか。そんな不安が更に眠気を遠ざけてしまう。
故郷に対する想いはますます色付き濃さを増して行って睡眠どころではない。
「どうしてこんなに恋しいの、私のふるさと」
声にしても答えは誰も返してくれない、自分の中で勝手に芽生えることも無い。言葉に表しようもない気持ちが渦を巻いて不思議な心地を生み出してはユユの胸の内を刺し続ける。夜闇の暗さはこれ程までに痛いものだと思い知った瞬間だった。
やがて物音が立ち始め、人の生きた気配が強くなる。キールが目を覚ましたのだろう。パンを半分千切ってドアを開き、ユユに一言、行って来るとだけ告げて立ち去ってしまった。
一人残されたユユに突然眠気が襲って来る。今眠ってしまえば遅刻は確実だろう。防ぐための手段など一つしか知らなかった。起き上がり、立ったまま壁に身を預けて短い仮眠という形の質の悪い休憩を何度も取るだけの事だった。
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