第8話 昼の海

 夜闇は世界を閉じ、それでも降り注ぐ雨を誤魔化す事など出来ない。壁に何度でも当たって響く音、屋根に着地しては気分だけでも晴らしてくれる雨たちはきっと今もなおそうした建物を伝って地面へと零れ落ちる事だろう。

 すっかりと濡れてしまったキールとユユの二人は夕飯を建物の中で済ませるわけにも行かず、屋台で買って帰った。新聞紙で包まれたそれを布で包んでかごに乗せて。それから家の外に伸びる屋根の下でキールは脱いで家から二人の衣服を持ち出しそこで着替えた。汚れが見られない服は屋根の下、柱と壁に結び付けたロープを張ってそこに木製ハンガーに掛けた服を干し、濡れた靴は履き替えて木の台の上に置く。桶に溜めていた水を覗いてキールは訊ねる。

「明日には飲み干して新しく買おう」

 残りが僅か。あまりにも長い期間そのまま置き続けていると水の中に生き物が忍び込んでしまうという問題を抱えていた。そうした生き物たちが中に入る事そのものはもちろんの事、死骸に化けてみせる事や糞尿を残してしまう事で衛生状態は劣悪という言葉を当てはめる他ない状態へと陥ってしまう。

「そうだね、明日」

 ユユは頷いて家の中へと入り夕飯の時間を迎えるといった生活を経て今この場。

 キールは最近水浴びすら出来ていなかった事に気が付き明日の予定に加える。雨音が刻むリズムに魅了されながら眠りを貪り次の夜中。

 キールは今までと特に変わりのない動きでパンを半分だけ持ち出して家を出る。一度の睡眠を挟んだだけで雨は退場してしまったという事に驚きを隠せない。きっと今浮かべている表情は誰にも見せてはならないだろう。人類が夜闇を見通すことが出来ない事に初めて感謝した瞬間だった。

 世間は休日だという噂は耳にしていたものの、それでも休むことの出来ない職業がある。料理人と野菜や魚を拵える者、市場を開く者に街で主食として広がっている小麦を練ったものを焼くだけという簡単な調理で作られるパンを焼くための窯を貸し出すための施設。

 キールもユユもきっと今日の午前は働き続ける事だろう。

 いつも通りに釣りを行ない薄暗い空の顔色から晴れを知って市場に持って行ったその時、市場の者からそれぞれに石の箱が手渡された。

「休日までお疲れ」

 箱を開いたキールの視界に入り込んだものはほぐされた魚の塩漬けだった。感謝の言葉を告げて持ち帰り、仕事の後に控えている予定を実行に移す。

 綺麗な水を買って桶を持ち帰り、昨日の雨と土によって汚されたズボンや靴を傍の泉で洗って水浴びをすることで午後の準備を済ませた。



 ユユの午前の仕事は今日も同じように訪れる。パンを焼くために窯を使いに来る客を並ばせ導くという業務は間違いなく重要な事。安全を提供するという事のいかに難しい事か、しっかりと理解しているつもりだった。当然のように思われている事を当然に作る事の大切さは理解しているつもりだった。

 作業着とフリルの付いたエプロンはしっかりと目立ち、かつ統一感を見せつけている。それ故に誰もがユユ達の事を従業員だと気が付くものだ。

 そんな仕事がいつもより早めに終わる。その時間の訪れと共にユユは一度パンを持ち帰り、レンガに囲まれた水浴び所に向かって体を洗う。今日はキールと二人で出かける日。心の底では一緒に行きたいという気持ちが躍っているものの、更に隅の方で一人でいたいという気持ちが覗き込んで来る。

 この晴れた空の中を泳がないなど勿体無い事この上ない。どこからかそんな感情まで飛んで来てそれぞれ染み込み合って不思議な模様の感情を描いていた。



 やがて二人が家にて揃い、ユユの言葉を聞いて昼の鐘が鳴るまで休憩した上で改めて外へと向かう。

「行こう、西の海へ」

「うん、行くよ」

 家の外では相変わらず太陽が笑い、誰も彼も何もかもを見つめては祝福の輝きを与えてくれる。

 昨日の雨は初めから無かったかのような天気の色に二人足並み揃えて歩き続ける。

 街を出て、西の海へと踏み込んだ。

 キールは仕事で向き合う空との違いに目を輝かせているのか、それとも太陽の激しい光が降り注いで照らされているだけなのか。

「いつも見る空と色が違う」

 それはきっと間違いなく違う色をしているのだろう。ユユは麦わら帽子を深く被り、キールと腕を絡め合って身体を半ば預ける形でゆっくりと歩いていた。

「私の目にも違って映ってるよ」

 砂浜には本来の住民以外の姿、人間という生き物の姿が幾つも見られた。

 そんな中に混ざる人々の組み合わせにユユは声を上げずにいられなかった。

「男同士で腕絡め合ってる」

 日焼けした二人の男が筋肉という装備によって美しく仕上がった腕を絡め合って歩く姿を見てユユは思わず手で目を覆ってしまう。

「そういう文化というか想いもあるんだろうな」

 キールにとってはどのように映っているのか理解出来ない。少なくとも恥ずかしいという感情は持ち込んでいないように思えた。

「彼らにも彼らなりの未来がある」

 キールは否定することも無ければ歓迎することも無い。それはある意味で救いだっただろうか。この砂浜の中では男同士で暴れて遊んでいたり仲良く昼食を平らげている様がちらほら見られた。

 女同士で仲良くしている光景も所々に混ざっている辺り、関係という形は無限大の組み合わせがあるという事なのだろう。

「その関係に名前は付けられるか」

「分からない」

 友情と恋情に愛情、尊敬や主従、真のものか嘘のものか見分けがつかない。

「分かる事は恋だけが普通じゃないってことだね、これだけ」

 海に沿ってしばらく歩き続ける。砂浜に下りることなく海を遠目に眺めながらゆったりと足を踏み出して行って。そこに広がる海と空、船と雲。雲の箱舟と漁船に大きな船。それぞれが自分のペースで呼吸を繰り返す。

「あの大きな船は何処に向かってるの」

 キールはしばらく静寂を貫き見通した後、両手を緩やかに開きながら首を傾けて答え始めた。

「旅行用の客船かもな」

 本当にそうなのだろうか、ユユの眼差しからはあからさまな疑惑の色が見て取れた。

「引っ越しの船の可能性もあるな」

 キールが繋いだ言葉に何度か頷きながらユユはキールの頬に顔を近付ける。

「つまり分からないんだね」

「すまない」

 キールの中で夏の暑さを超えた熱が広がり心情を侵食していく。

「無理に答えようとしなくていいんだよ」

 キールは期待していた。心臓の鼓動は早まり内側でうるさく響き続ける。何を叩いているのか想像も付かない音で何かを打っているよう。

「キス、期待してるのかな」

「あ、ああ」

 ユユの質問に目を回しながら絞り出した答えに続きを提げる。

「もしかしてしてくれるのか」

 若い男の期待に応える事が正解なのか、ユユの中では既に考えは終わっていた。

 キールの頬から顔を離し、目尻に悪戯な笑みを浮かべてみせた。

「キスは別の機会に」

 そう言って先延ばし。それが良い対応でない事は分かり切っていたものの、やめられなかった。

「そうか」

 無表情を貫くキール。しかし、落ち込んだ様子は背中越しに伝わって来て、語るまでも無く明白だった。

「いつかそういう日が来るよ」

 未来へと向かって歩むこと。それは西の海と向かい合って仕事を消化すること。

「仕事だけと向かい合っていてもいいなんてことないからね」

 それはどのような表情で言ったことか、キールが意識をユユの表情に集中させた時、既に手遅れだった。異なる表情の痕跡はあるものの、そこにあるものは平常通りの表情で結局のところ見る事は叶わない、見抜くことは許されない禁断の檻に閉じ込められたものとなってしまった。

 海の広がる世界は自由な世界を体現している。波に混ざり遊んでしまいたい。流れに任せて空を舞う様を休日だけでも味わいたい。そんな欲を飼い慣らすことが出来ず、キールの身は震え、今にも海に吸い込まれてしまいそう。

「綺麗な海だね」

 神がデザインした自然の恵みの世界観にユユの言葉は今更捧げられた。

「いつも思ってるさ」

 キールの声が響くと共にユユはその肩を軽く叩きながら軽い笑いを零す。

「仕事でいつも見てるだけだよね」

 そんな言葉を受けてキールは顔を動かさないまま海を見つめ、立ち止まる。

「俺が見てる海は違う色だな、空も寝起きみたいな色さ」

「海は海」

 彼女の目にはどのように映っているのだろう。あくまでも綺麗なだけだろうか。キールには散りばめられた輝きが跳ね返って魚の身体の一部のようにすら見えてしまう。空の色に色付こうと下手な物真似をする大きな魚。

「時間によって変わる海の顔、天気によって変わる表情」

 それは全てが気まぐれでキールの仕事をこなす上ではその気まぐれと付き合う事が必要な事だった。

「海とは毎日睨めっこしてるさ」

「それが仕事だもの、海と向かい合う事」

 キールは声の乗り方から言葉の節々まで、様々な部分から違和感を見て取った。見えていたのは間違いないものの、実際にどのようにズレているものか、見分けるのは容易ではない。愛情が理解を拒否していた意味と共に過ごす一つの時間の焼き付きが海に溶け込んで行った。

「それより砂浜も歩こうよ」

 そんな言葉と共に手は引かれ、草木が自然の絨毯となっている岩肌から細かくて柔らかな砂が撒かれた景色へと足は移る。

 砂浜へと踏み込んだ二人を待ち受ける光景は砂浜を埋めるようにくつろぐ人物たち。男も女も裸に近い恰好をしていてそれが当然のような顔をしている。

「そんな服持ってないよ」

 ユユの言葉に肯定の返事を提げてキールもまた見渡していく。美しい曲線を描く女たち、ユユが知らなかった水着という文化を名も知らぬまま満喫しようとしていた。

「他の人ばっかり見ないで」

 隣を歩く彼女には出せない色気の漂う世界の中、それを日光の力で遮ってしまえというのだ、男という生き物の中でも特に盛んな時期にあるキールにとっては残酷な制限だった。

 そんな感情が零れ落ちる様を、いやらしい想いが滲み出る様を目にしたユユはキールの顔を手で挟み、寄せて抱きしめた。

「私ってそんなに魅力ないかな」

 キールの心をチクリと刺す一言、その声色は明らかに暗い感情と激しい怒りにぼやけて揺れていた。滲む声は更に言葉を紡ぎ出した。

「もっと綺麗で大人っぽくなりたかった」

 まだ大人になってそれ程経ったわけではない、しかし、既に大人になってしまってこの体付き。これからの成長など見込めない事は確かだった。

 細い身体、故郷での仕事を引き続きこなせそうな芯の固さと女性の柔らかさを持ち合わせた彼女に自身との違いを思い知らされる。

「大丈夫、ユユは充分女って感じがする」

 見つめる。背を曲げていたキールが見上げたそこにユユのあどけなさが跡形程度にまですり減ってしまった顔があった。

 もう、後戻りは出来ない。否、初めから戻る事など出来ない。それを今になって思い知らされた。幼きあの日の彼女は帰って来ない。顔すら見る事のなかったあの日々は色を付けて返って来る事など無い。

「しばらく見ない内に大人になったんだな」

 改めてキールの知るユユとは別人のようだと思い知らされた。

「キールは育っても変わらないみたい」

 いつまでも幼く責任感や生きるための知を感じられない、そう言われているような気分に海の輝きが眩しく跳ね返る。



 ユユから見たキールはあまりにも子どものよう。一緒にこの街に来た時にも思った事が蘇ってきたような気がした。あの時この休みの間ひたすら楽しもうとしていた彼を思い出してはため息が零れてきそうだった。まるで息子を得たような錯覚。

 そんなある種の落胆は彼に伝わってしまったのだろうか。キールは砂浜で他の女の姿を眺め始めたのだ。魅力がないからなのか、もう愛情など残っていないのか、息苦しい想像しか出来ない状態で苦し紛れに抱きしめた。

 そうした結果キールから返ってきたユユの評価は上面だけなのか本心なのか、どちらともつかなくて。何も信じられない。

 海に嫌な思い出など撒きたくない。美しい景色には美しさをもたらしていたかった。しかし、キールの行動はそんな想いさえ気づかない顔で踏み潰してしまうところだったようで。

 キールは未だに子どものような目をしている。人間として成長するべき歳に勉強ばかりと向き合った男の姿だというのなら、頭の良さを得る事が如何に自分の生活と合っていないか、文化の違いの溝を感じさせられる。

 何があっても好きでいられるなどと鋼の宣言が出来ない。自信がなくなってしまう。ユユにはキールの単純な精神が理解できなくなってしまったようだった。


 そんな違いに悩み続ける彼女の姿に波の立つ海はどこか寂しい姿をしていた。

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