第7話 雨

 昨日までの晴天は何処へと逃げてしまったのだろう。夜の闇の中、キールは見えないものに包まれていた。ぽつぽつと降り注ぐ冷たい感触は肌に少しずつ触れているようで心地悪い。濡れ続け、そんな天候の中でも釣りは出来るものだとキールは見えざる荒波に向かう。パンを頬張って、濡れて噛み心地の良さを失ったその生地を何度も噛んでようやく飲み込んで、気合いを入れて釣り竿を振る。

 そんな様子を見つめて雇い主は微かに笑う。

「荒波に向かう勇敢な男たち」

 キールの中では自分たちがそこまで立派な存在には思えなかった。しかし、顔を背けたくなってしまうこの気候の中で我慢しながら働く姿だけは誇らしく思えて仕方がない。

「魚の三尾でも四尾でも捕えてやる」

 この宣言が如何に愚かなものかと笑っているのだろう。周りで上がる声が言葉にするまでもなく理解へと昇華している。

「今に見てるがいい」

 そんな宣言が上手く果たされることなく二尾で終わる事を知らない無垢な男の姿がそこにあった。



 夜が明ける。魚が最も食らいつく時間が過ぎ去り気が付けば辺りにははっきりと雲が映し出されていた。キールの収穫が二尾であるのに対して最も多く釣り上げた人物の樽桶に収まる魚は五つの尾を覗かせていた。

「俺の勝ちだ」

 キールに向けて得意げな表情を浮かべる男はキールの収穫を目の端で捉えてはただただ鼻で笑って地面を二度踏み鳴らす。

「とはいえこの地に慣れてない割には頑張ったようだな」

 偉そうな態度を脳の髄にまで染み込ませ、溢れ出る熱を抑え込みながら目の温度を平常にまで下げて見つめる。

「次は負けない」

 空に広がる雲は太陽の輝きを覆い隠し、心の光をすり潰してしまう。空から降り注ぐ雨は身体に宿る希望の火を消してしまう。妙に増した空気の厚みが頭に重々しくのしかかり、どうにも元気が湧いてこないという状態の中、雇い主は何事もないかのように動き始める。

 魚の取引は今まで通りの流れで進み、仕事は終わりを告げる。キールの手に渡った銅貨の重みは雨の重さで誤魔化されたような様。

 寂しい収入を仕舞い込み、キールは様々な想像を膨らませながら街へと向かう。このような空の表情の中では外に出ない者も大勢現れるのではないだろうか。そうなれば町全体が休みを取ろうといった方向性を取るのではないだろうか。

 希望を胸に市場へと足を運ぶ。しかし、キールが目にした大通りの光景はそんな期待を裏切る人の波。釣りの時に見た大荒れと変わりのない活気に肩を落とす。

 当然のように稼ぎ時だと様々な色のテントが張られ、屋台が開かれる。

 キールは昨日の安価なパンサンドの店を探していた。

 景色の形は変わらないはずなのに顔色はもはや別物と言って差し支えない。人の心は気まぐれ、天気の想いもまた気まぐれなのだろうか。

 異なる姿のように思える中、人の進む速度と雨の粒によって更に異なる姿へと変わる街をしばらく歩いてようやく見つけた安物サンドの店。若い男は少し声に張りがなく、天気は音の響きまで変えてしまうものだと悲観に浸っていた。

「魚サンドを」

「あいよ」

 市場で拵えたものだろう。野菜と焼き魚が挟まれたパンを見つめてキールはしばらく立ち止まる。もしかすると自分が釣った魚かも知れないそれが使われた料理を手にした感触はいつになく重たく感じられてしまう。

「どうした」

 男の声掛けによってキールは顔を上げて心に置いている別の疑問を取り出した。

「太陽が見えないが時間はどう見る」

「さあな」

 この時点で露呈してしまったこの街のぞんざいな体制は男の言葉によって更にその印象を強固なものへと仕立て上げる。

「太陽の光が零れたら自己判断」

 公の仕事は果たしてどの程度の様だろうか、少なくとも時報は緩い仕事にしか見えなかった。

「鐘なんか鳴らないさ」

 つまり民間の仕事においては雇い主の気まぐれによってどこまでも労働時間に変えられてしまうという事。昼の休憩がなくなってしまうかも知れない、夜が来ても働かされてしまうかも知れない。時間が分からないという言い訳はそれ程までに強力な言葉となって立ちはだかる。

「とはいえ夜が来れば仕事は終わるだろう」

 ほっと胸を撫で下ろし、感情を顔に出したその瞬間、男は言葉を加える。

「良心的な仕事ならな」

「嫌な言葉のトッピングだ」

 そう告げずにはいられなかった。



 彼の宣言通りなのだろう。この仕事の様はどのようなものだろう。釣りの仕事仲間に訊ねたところ、分からないとだけ返ってきた。

 労働者が集まった事を確認して雇い主は声を上げた。

「今日は柱の材料運びだ」

 言われるままに木々を切り、数人で街へと運び込む。その際にキールは気が付いてしまった。濡れてしまえば重みが増して一本の木を運ぶだけでも随分と苦労が増えてしまうという事を。

 今まで考えが及んでいなかった自分を恨む。今朝にでも考えられなかったものだろうか。

 落ちた葉や水を吸って膨らんだ土が足を滑らせる。今日という日は本気で転職を考えてしまう程に苦しくて、キールの息苦しさは増して行く。体の様々な部位が思いもよらない力に振り回されて伸びたり勢いに負けて痛みは増えていく。

 昨日までの作業で多少は息を合わせる事を覚えたつもりが互いの予想外のズレが、環境の力による傾きが更なる痛みや体力に気力までをも奪い去る。そんな様子を降り注ぎ地を濡らす雨たちはただ見守っているだけで救ってはくれない。

「暑い方がまだいい」

 キールが口にした言葉は雨の音に掻き消されて運んでいる木の反対の端を抱える男には届かない。孤独のようだが全くもって孤独を感じさせないそれは安心感へと成ることも無くより一層大きなストレスに変換されてしまう。

 作業的に運び続けようと土を踏みしめるキールの油断が事を起こしてしまった。足を滑らせ木を手放して。どうにか体勢を整えようと揺れ足掻き足を何度も上げては地を再びつかみ、ようやく元通り。

 振り返って今回の相方の男に向けて謝罪を述べて再び木を持ち上げる。声は正しく言葉を伝えることが出来ただろうか。分からないものの、分かってくれたという事にして進み始める。

 連携は無事に取れただろうか。晴れた日、視界がはっきりとしている日には見えずとも伝わる何かがあったものの、それを消してしまうのは空気を染める雨そのものか雨が地に届いて打ち鳴らす音楽だろうか。

 ただ転ばないように慎重に動く事しか出来なかった。

 そうして仕事を続けている内に木から伝わり始める相手の息遣いや癖が心の内へと落ちていくものだから不思議なもの。

 雨の中での仕事に慣れた次に待ち受ける濡れた衣服という重みは我慢するしかなく、運命の動きに従う事しか出来なかった。



 それは一人の女が迎えた静かな朝。屋根を叩く雨の音があまりにも優しくて心地よい。ドアを開いては湿気が家に無断で上がり込む事だろう。意思も無く機会を窺い続ける現象というものが鬱陶しくて仕方がなかった。

 この家からカビが湧いて来る事など許せるはずも無く、ユユはパンを頬張って最低限度の時間、速い拍子を三度程度の時間だけドアを開き、身を滑らせ外へと出て仕事場へと向かう。

 窯職人は年中無休なのだろうか。いつでも貸し出すことが出来るようにと準備を整えていた。

 ユユは濡れた衣服を木のハンガーに掛けて干し、作業着を纏う。エプロンを着た後急いで木の枠と黒と赤の立方体を用意する。

 まずは従業員たちが熱を放つ窯でパンを焼く。温度の確認と自分たちの明日の朝食の用意を兼ねたそれが終わると共に新聞紙でパンを包んで客を迎え入れ始める。

 空の涙、岩のブロックで構成された街を濡らして滑りやすい環境を作る雨は人々の往来を妨げる術には成り得ない。

「今日は恵みが降って来る日か」

 世間話がしたいのか、天気の話を持ち掛けてくる人物に笑顔を返しながら利用客の数だけ黒の立方体を木の枠に入れ、十個に到達すると共に黒の立方体は枠から取り除かれて代わりに赤の立方体が嵌め込まれる。売り上げの確認のために必要な事だと分かっていたものの、面倒に思えてしまうのは仕方のない事だろうか。

 客の内の何割とも語ることの出来る程の人数が雨を恵みと呼んで喜びに打ち震えていた。

 そうした声に対して軽く相槌を打ってみる他、心すら込めない言葉で感心を装っていく。このような反応がどれ程の人々に対する失礼に当たるものか覚えていられなかったものの、客の機嫌を取る事もまた仕事の一つだと己を納得させる他なかった。

 やがて客は打ち止められ、残された客もパンを焼き終えて去って行った。休憩の鐘が響くことも無ければ光の射し込み方での時間の特定も難しい今、始業も終業も窯職人の自己判断で行なわれる。

 彼は売り上げを数えて周りに高らかな声で告げる。

「今日もいつもと変わらない利益だ」

 そうして配られる賃金はいつもより少なめだろうか。

「窯を温めるために、火を安定させるために費用が掛かった」

 つまるところ、売り上げではなく準備の段階が原因で給与が削減してしまうという事。

「申し訳ないが我慢してくれ」

 その一言で全てを丸く収めるつもりだろう。環境が変われば様々なことに影響が及ぶ。自然現象ならば仕方がないとまで言ってしまう彼の言葉に納得できるわけがなかった。

「ええ、ありがとう」

 それでも建て前の返事だけは欠かさない。大きな噓を塗り付け波風を立てずに生きる仕事という関係。

「それから今日は窯の掃除も頼んだ」

 火を消した後の窯には幾つもの墨がこびりついていて、灰が溜まっていて。それを掃除するために費やす時間は計り知れない。

 ボロボロの布や箒を使って始められた掃除。ユユはあとどれ程の時間を費やしてしまうのかと心配を浮かべていた。賃金にすらならない労働が今日はあまりにも重たく感じられてしまう。きっと雨や空気の重みだけではない、何かがやる気を沈めて代わりに堂々と人の情のように顔を出す無気力というものがあまりにも大きく力強く感じられてしまう。



 大変長い時間を経たような錯覚をもたらす掃除を終えて続くは服屋。雨が降り注ぐ中で足音を愉快な音に沈めて歩く。

 ユユの中に芽生えるそれは不愉快の極みに立った心情。頭の内へと脳が縮み上がってしまうような頭痛を抑えながら歩き続ける。

 仕事をしている間に乾いた服は再び濡れてしまっていた。市場で売り出そうとしている傘はあまりにも高価で手など出ない。辺りは水浸し、ユユも溶け込んでしまいそうな程に濡れ、目に映る光景は今もなお降り注ぐ水によって幾つにも千切れていた。

 途中で昼食を購入してそのまま目的地へと向かって歩いて。

 服を作るそこでは今日も同じように女の姿が幾つも見受けられ、若い女全体にねっとりとした視線を向ける雇い主の姿があった。

 この場所ではもっとも余計な存在、己の欲望のために女を集めている彼はまさにそういった目的のために女を雇っているようにしか見えない。更に深堀していけば服屋という生活に必要な事業に手を出したきっかけすら許されざる目的ではないのだろうかと錯覚を受けてしまう。そんな彼の事を許すことが出来るはずもない。いつでも憎悪は胸の中。

 制服に着替えて服を作り始める。ユユはこの時初めてこの職場にも制服というものが用意されているのだと、天候やプライベートでの争い等による濡れや汚れが仕事の妨げにならないようにと備えてあるという事を知った。作業を行っている間に雨は何度もリズムに緩急を、音量の変更を行ないながら屋根を叩いていた。耳に届く音の一つ一つが心地よくありながらも軽い頭痛を呼び起こす事と帰りも濡れなければならないという事実が鬱陶しくて。

 ユユの表情の中に捻じり込まれた感情を見て取ったのだろうか。先輩はユユと向かい合って肩をつかむ。

「もしかして体調悪い」

 空間に生み落とされた空白の時間、虚無だけが流れ漂う遅めの六拍を経てユユは無理やり微笑みを作り出す。

「ええ、雨は苦手」

「そう、だったら無理しないで」

 声掛けを受けて改めて無事を主張して止まっていた手を再び動かす。きっと苦しそうにでも見えたのだろう。

 それから手際よく針は動き糸を伸ばして次から次へと布に纏わりついて形を整えていく。

 出来上がった服を掲げる。細かな部分まで見つめてほつれは無いか、縫うべき部分を間違えていないかしっかりと確認した上で雇い主へと提出して。

 彼は非常に複雑な模様に顔をゆがめつつ受け取り早く次の作業へと移るように指示を出して別の女たちを眺めていた。きっとあの男にはユユの魅力は通じないのだろう。

 その事実に喜びを感じながら作業を続けた。

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