第6話 不満

 立ち上がって家の中の闇から空の闇へと身を移す。星々の輝きはユユの事をしっかりと受け入れていた。

 大好きな彼女の手を引きながらキールはくっきりとした笑顔を浮かべる。今日という日の中で一度たりとも食事を取る事が出来なかった人物が浮かべている物とは思えないきらびやかな表情。きっとこれから始まる夕飯という時間が楽しみで仕方がないのだろう。

 朝食を皆無という形で済ませようなどと考えているのならばしっかりと叱り付けなければならないと思っていた。それだけでは間違いなく元気を失って仕事まで手から落としてしまう事だろう。人生を壊してしまったところで良い事など一つもなかった。

「今日ちゃんとご飯食べたの」

 質問に対してキールは振り返る。表情までは見えてこないものの、弾んだ声が分かりやすい答えを言葉という形にした。

「今日初めてのごはんだ」

「飢えるよ」

 痩せようとでもしているのだろうか。曲芸師やモデルといった仕事にでも就いていない限り体型を意図的に変える必要などなかった。

 付き合っている人物がそのような不健康な生活を送っているという事実を耳にしてユユは不満を抱いていた。

「パンはちゃんとあるから朝は食べて」

「昼休憩がないなんて思わなくてな」

 そんな会話で星々を繋ぎながら向かった店で今日の一品と名付けられたメニューを頼んだ。何が出てくるのかはその日の仕入れと在庫に左右されるという事だが、黒の立方体が二つ分の計算。他のメニューが立方体四つ分であることを確認して半額は助かると呟きながら料理の到着を待った。

 やがて二人の元に運ばれてきた皿を覆うように盛り付けられた野菜とベーコンの細切れを目にしてユユは明るい笑顔を見せた。

「美味しそう」

「気分に合わせて注文したいな」

 キールの不満はユユに不満を抱かせる。

「もっと稼げるようになったらね」

 ユユは知っていた。昼の仕事の中で聞いていた。この街の経済事情と雇い主たちの方針によって賃金の上昇はほぼ起こり得ないという事。その上あくまでもキールの入学までの繋ぎ。次の日に仕事が待ち構えているような晩の食事にキールの要望はついて来れないという事だった。

 不満を述べつつも野菜と下に詰められたパスタを口にした途端キールは顔を輝かせる。空腹は常識外れのスパイス。どれだけ明るく振る舞っていたところで、元気を装っていたところでキールの身体はエネルギーを欲していたのだろう。

「美味しいな」

 永遠に単純であるようにとユユは祈り続けていた。軽い言葉だけで無難な方向性へと上手く誘導できる程度、その程度が丁度良いと考えてしまう。相手の幸せよりも相手をすることが楽な人を求めてしまう事は罪なのだろうか。

 笑顔を必死に抑え込みながら食事を愉しむ彼、表情を殺す事が美徳とされているものの、不自然な固さが見受けられ、綺麗には決まらない。

「パスタ美味しいな」

 そう語るキールに拘りは無いのだろう。実に助かっていた。

 食事を終えて果汁を飲み干し会計を済ませる。二人の今日の儲けの中から五分の一近くが外へと出て行ってしまう様を見つめ、開いた口が塞がらなかった。

「これは金が飛ぶな」

「遊ぶ暇があったら働くのはどこでもどの立場でも同じだね」

 ユユの指摘を受けてただ頷くだけ。ただそれだけの反応を返すことで精いっぱい。

「もっと栄えた都市だともっとお金が必要らしいからね」

 食事の後で行なう会話ではない、そう思いつつも聞き続ける事しか出来ないキールと分かっていてもやめられないユユが歩く暗闇景色。散りばめられている星に生命は宿っているだろうか。そこで生きているはずの心は本当に生きているのだろうか。

 家屋の全てが闇に閉ざされて何も見えてこない。影が人の目にとって都合の悪い形で表れている。

 似た姿をした建物の群衆の中から自分の家をどうにか見つけて打掛錠を上げる。それから過ごす夜はあまりにも味気ない。ユユの身体に触れようとするも許されない。寂しさを埋めることの出来ないキールに対してユユは満足しているのだろうか。キールにとっては彼女と甘い夜を過ごす事すら遠い世界の出来事のように感じられた。

「欲望とかより先に生活の安定から」

 ユユが常々語る言葉が示す理想はどこにあるのだろう。今日の稼ぎが今の生活スタイルを維持する限り変化しないのであればその日は来ないのではないだろうか。キールの中に不安が募り始める。

 ユユの中ではキールという人物の正体が霧に覆われていた。やはり女というものを前にしてしまえば欲は抑えられないものだろうか。最低限この環境の中で余裕を持つことが出来るまではと思っているものの、先にキールの想いが弾けてしまうのではないだろうかと思うだけで不安の触手は更に伸びてユユの身体をも包み込んで震わせる。

 二人の意見のすれ違いは互いに不信を蔓延らせ、根を伸ばしては関係を断つ大樹へと育ち始める。このまま放っておけば互いに離れてただ傍にいるだけの他人になってしまいそうで、不安を止める事の出来ない夜はどこまでも深まるだけ。

 暑い夜の中で冷え切った関係の始まりを錯覚して温度差に頭を抱えながら夢へと落ちて行った。



 キールの目覚めはあまりにも早く、家の中はおろか外にまで暗闇は広がっている光景は紛れもない夜中。そんな時間から外へと出なければならない。しかしそれもまた自分で選んだ道だった。

「行って来る」

 台に置かれていたパンを半分に切って持って行く。この街に来て二度目の出勤。未だに星の広がる夜闇を見つめながらパンを齧って歩き続ける。職場へと足を進める中で思考も進めていく。釣りをして取引が終わったその後に昼食を買わなければならない。生きるための出費が最優先。欲望を振り回す事などきっと出来ない。休息など名ばかりの労働三昧で、キールが望んだ時間からは程遠い。しかしながら昨夜の食費を数えて同じ程度の食費がかかる昼を想い、住居所持税というこの街というより隣の都市を中心として施行されている税の徴収を考えると思い描いていた夢物語が如何に幼稚な幻想だったことか思い知らされた。

 ユユの言う事が正しい、そんな実感に握り締めた拳の震えが止まらない。

 それから空が顔色を変えない内に始まった業務。釣り竿を構えてひたすら待ち続けるこの仕事が今のキールの中では最大の楽しみとなっていた。

 風に乗せられて運ばれて来る潮の香りと冷たい温度が頬を撫でる。時たま釣り竿を揺らし、時に引き揚げながら再び投下。そうしたことを繰り返している内に大きな当たりを引き、そのまま竿を思いきり引いて魚を釣り上げる。それを海水と共に樽桶に入れて釣り針に餌を仕掛けて再び釣竿を振って針を飛ばす。

 こうした作業や釣り上げまでの空白を打ち続ける波の音が心を静め、夜闇に沈む。今頃ユユはどのように過ごしているだろう。夢の中だろうか。出来る限り優しい夢や元気の出る夢を眺め続けていて欲しかった。悪夢などというものは現実だけで充分だ。不満を内側にまで持ち込んで欲しくなかった。

 しかしながらそれは叶わない話。今の彼女がどのような夢を見ているのかは分からないものの、夢の内容を選ぶことなど出来ない。

 再び竿が大きく揺れる。それと共に引き揚げて得た魚を先程と同じように桶に入れる。

 この仕事がどれだけ続いた事だろう。気が付けば空が深い青に色付いていた。

 そこで辺りを見渡して気が付いた事。キールと同じ木材の業務にも勤めている彼は今ここでパンを食べていた。もしかすると昼食が食べられないのは毎度のことかも知れなかった。

 空を染め上げるのは太陽だろうか。世界の中心を駆け巡るそれは誰が仕掛けた明かりだろうか。人々の技術では到底追いつけそうにもない。

 夜闇をも照らすことが出来るようになったらどれだけ移動の安全性が強化される事だろう。隣の都会ではガスを電気に変える技術が街中に張り巡らされているのだという。この街では隣の余りを高額で使用するアパートはあったものの、キールのような庶民からすれば電気など手が届かない程の高みで弾け続ける文明。きっと休みが明ければ触れられるはずの先端技術がいつまでも見えて来ないような、そんな錯覚に触れてしまう。潮風が慰めてくれているのだろうか。吹いて来ては冷たい手で頬を撫でてくれる。今は気にしている場合ではない、これまでの人生の形を包んで届けてくれる。

「そうだよな」

 朝日は顔を出し、空はすっかり明るく色付いて淡い絵画となって海面の青は空にとっての深海だと主張を始めた。

 魚がかかりやすい時間は終わりを告げたようで雇い主は市場へと向かい始めた。それについて行く事、与えられた択はそれだけだと砂浜に残された足跡が告げる。

 街へと戻り市場に引き取ってもらい、賃金を分け合う。今日の収穫は昨日と比べて少なかっただろうか。収入は全て海の気まぐれと魚の息遣い、そして人間の姿勢によって決まる。そんな現実を目の当たりにして銅貨をポシェットに仕舞い込んで昼ごはんを求め始める。

 朝の光景はあまりにも賑やかで起きて間もない人物にとっては賑やかが過ぎることだろう。

 キールは周りと比べて値段の表示が安いベーコンレタスサンドを買って勢いよく頬張り始めた。口に広がるベーコンの香りと塩気を纏め上げるように舌の上でピリピリとした味わいを主張するそれはコショウだろうか。レタスの瑞々しさが加わる事でその全てが控えめに抑え込まれてまさに働く前に負担をかけないための味付けと呼べた。

 肉と野菜によってこの料理を提供したテント屋台を褒めたいところだったが、一つだけ気がかりなことがあった。小麦の香りを広げるパンの食感がどうにも受け入れがたいものだった。噛み締める度に砕けるようにちぎれて舌の上に残り続ける。乾いているように思えるそれは水が足りない、こねる回数が足りない、そういった原因が思い浮かんだ。

「それで安いのか」

 一人で考え一人で納得してパンを飲み込み、次に寄った屋台で買ったオレンジジュースを飲み干して森の方へと向かう。

「また買おうかな」

 パン以外に不満は見当たらず、低賃金が基本の身分としてはありがたい味、キールの中で書き留められた評価はそのようなものだった。

 それから入った森では既に殆どの作業員がくつろいで始業の時を待っていた。

「また一人、やっと来た」

 作業開始の時間は知らされていないため作業員が揃い次第といったところだろう。

 雇い主の男はキールに勢いよく顔を近付けしっかりと開かれたその目でキールの目を覗き込む。

「昼の食事は終わったな」

 キールはしっかりと気圧されていた。口が上手く開かない、上手く言葉が出て来ない。表情や動き、感情や声といったものを使って己の世界を作り上げたこの男の姿勢がどこまでも恐ろしかった。

「食ったのかと訊いている」

「ああ」

 弱々しい声だった。どうにか言葉で返してみせる。この手の男は表情や動きで分かったところで言葉を求めてくる。仲間を仲間だと思っていないような振る舞い。働かせておいて金を払いたくないといった本音が他の仲間たちとのやり取りを通して透けて見えた。

 それ以前の話、彼は日々溜まり続ける苛立ちを今この場で部下にぶつけるという情けない存在でもある。そう認識していた。

「お前らも飯は食ったな、それならいい」

 そうした言葉の幕引きと共に訪れた最後の一人の作業員が言葉も無く斧を手に取り振り回しながら先頭を歩き始める。

 キールは男の姿を一瞥して釣りの仲間に視線を向ける。一度湧いて出た疑問を抑えることが出来ず、そのまま仲間に声をかける。訊ねずにはいられなかった。

「いつもあんな斧振り回してるのか」

 昨日は確実に見ていなかったその姿が今はっきりと映った。初日は道や仕事を覚える事で手いっぱいで気にしていなかった。

「記憶が正しければ」

 危険は常に隣り合わせだという事が明らかになった瞬間だった。まさか仲間に気を付けなければならないなどという事。キールは想像もしていなかった。

「危なすぎるぞ」

「あれは叱り付けてもやめないんだ」

 問題児はそこにあり。きっとこれからも悩み続ける事だろう。頭を抱える他なかった。



 それから行われた仕事は木を運ぶこと。今日は建築物の修理用であったり木像の材料であったりベンチの部品といった様々な用途を持った材料として納品するようだった。

 つまるところ大きく曲がった木は切ってはならない、下手に細かく切ってはならない、落としてはならない。といった制約が付いてくるという事。

 それらを意識しながら見つめる光景は最悪と呼ぶに相応しく、流れる汗が気持ち悪さを際立てていた。

 そんな一日の業務が終わる頃には昨日以上の疲れを貯め込み表情を殺した若者の集団が出来上がっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る