第5話 ユユの生活

 ユユが目を覚ましたそこは真っ暗闇の真っただ中。きっとキールは開けずに立ち去った事だろう。感覚と記憶の照合を用いて壁のある一か所を見つめる。黒い空間の中に細かな輝きが零れている様を瞳の潤いに描きながらその一点を押す。それと共に開かれた窓は空間を切り開き大きな輝きを生んだ。空は朝の模様となってはいないものの薄青い顔をしていた。

 パンを頬張って想いが一定の方向を見つめる。キールは昼ごはんの用意は出来たのだろうか。空が一日の幕開けの色に染まる前から開いている市場は無いだろう。

 このような生活を続けて行けば間違いなくキールの身体は細くなっていくだけだろう。動くために必要な力も気持ちも失った後の人間の姿は悲惨なものだと分かっていた。

 外へと出て桶で水を掬う。水に映る自分の顔を見つめては幼少の頃とは変わり果てた形を眺め、樽に張られた水の量を確かめていく。

「やっぱり少し減るんだね」

 蒸留酒を作る際に蒸発した分を天使の分け前、樽に沁み込んだ分を悪魔の取り分と呼ぶそう。まさか水に対しても同じ言葉を当てはめる機会が訪れるとは思ってもいなかった。騙し騙し告げているだけでしかなかった。

 続いて小麦を練り始める。桶に溜まった水を掬っては落としてしっかりと練り込んで。貴重な水分というものがこうした用途に消費される事を考えるとやはり日用品なのだと強く思い知らされる。

 生地に力を加える毎に腕に痛みが走り始める。腕中を走り始める警告が取れるだけの暇など取れなくて何度も練る。その度に強くなる痛みは血を連想させ、骨を思わせる。こうした懸命な動きが身体に熱を生み、より一層心を刺激して追い込んでいく。生地がまとまりパンの形を成して行こうとしている間にもユユの中の感情にも変化が訪れ苦しみを口走ってしまいたくなるものの抑え込んだまま。しかし隠し通す事が出来ないのか、無暗な力と鬱憤を込めて生地を台に叩き付けていた。それが何度も続き、ようやく充分な固さを持ち始める。

「窯に持って行けばいいんだっけ」

 口にする言葉は疑問形だったものの、頭の中では分かり切った話だった。どうやらこの街の周辺に住まう若い女の就職の近道は表で物を売る役目から場所や企画の案内を行なうといった接客の仕事を探す事のよう。ギルドの役人の話によれば女の顔は安心感を与えるためにそうした役割が与えられやすいという。

 ユユがつかみ取った仕事、それはまさに窯でパンを焼く人々の列の整理や案内といったもの。それだけでは午前の鐘の音が響くと共に仕事が終わってしまうためもう一つ職を手にしていたもののそれについての考えは後に回してしまう。

 窓を閉じ、ドアも閉じて打掛錠を回して引っ掛けパンの原型を持って窯職人の工房へと向かう。

 空気は熱を持ち始める手前といったところだろうか。ユユの身体に溜まった熱は抜け落ちてすっかり平常を取り戻していた。

 やがて彼女の中に生まれたキールに対する不満が過る。自分の感情にそぐわない行動から特に何かをされたわけでもないがちょっとした動きに対する嫌悪。きっと疲れているから、そう信じながら昔の自分を思い出しながらため息をつく。

「こんな人じゃなかったのに」

 自他問わず訪れる嫌悪は止まることを知らず、しかしそれを隠し通さなければならないという事を頭に置いて深呼吸をした。

 窯職人の工房へとたどり着くと共に目にした姿は少々脂ぎった大きな男。皴の寄った顔からはそれなりの年齢を感じ、そんな面が動く度に嫌悪感の渦巻きを抑え込まなければならなかった。

「来てくれたね」

 時期が悪かった。感情に振り回されるユユに伸ばされた手に対して反応を起こすまでに空白の時間を作ってしまった。

 パンを焼きたいため汗にまみれた手は握れない事を告げて窯と向かい合う。これから雇われの身が持つ特権を行使するのだ。

 熱を発している窯。扉を開くと共に激しく揺れる炎は果たしてどれだけの薪を飲み込んだ成果なのだろう。パンを台に載せてしっかりと成長した炎の中へと送り込む。取っ手として使ったトングは熱を伝える前に引き抜かれ、再び扉は閉じられる。

 それから体感だけの時間で上手く計って扉を開けてパンを取り出し置かれていた新聞紙で包んでかごに入れて荷物置き場に不自然な優しさを持った仕草で置く。

 雇い主が改めてその手を伸ばしたところ、ようやく受け入れたていで握手を返しては裏で手を洗う。

「強要なんて最悪」

 本来は仕事前の手洗い用として用意されているのだろう。貴重な水を躊躇い一つ抱くことなく使用しては雇い主を睨み付けて作業着に着替えた上からエプロンを身に着けて仕事の準備を完了とした。同じような女が数人見受けられ、如何にこの窯の数と必要としている人物が多い事か、今この目で確かめては大きなため息をつく。


 結局はあの男が多額の儲けを出すだけの事だから。


 周りにちらほらと利用客の姿が現れ始める。その瞬間エプロンとフリルの付いた帽子で可愛らしく纏まった姿に明るい笑顔を縫い付け太陽を作り始める。

 少し待って、もう少し待って、更に少し待って、まだ待って、まだまだ待ち続けて。

 鳴り響いた鐘の音が沈黙の空間にひびを入れると共に誰もが我先にと窯を借りに申し出る。

 この街ではやはり調理器具に手の届く一般人という立場は希少なのだろう。熱を帯び始めた空気を燃やす情の塊が、必死のひしめき合いがそこにはあった。

「上手く焼けずに焦げと生が混ざるのはもういやだ」

 悲鳴にも似た嘆き、心の底からの声がどよめきにのしかかって。それでも順番を守らない事など許されない。ユユは一人一人から銅貨をいただいてポシェットへと仕舞い込む。客が窯へとパンを入れた事を確認して窯のすぐ後ろのテーブルに置かれた仕切りが幾つか挟まれた木の枠に黒く塗られた木の立方体を一つ嵌め込む。こうして利用客の人数を把握して薪や窯の代えのパーツであるレンガを仕入れる数を決めるのだという。極端に利用客が増える事があれば窯の数を増やすことも検討されるとのことだがこれまで二台増える事で計四台での営業が最も効率がいいと結論が出ており、街の住民が短期間で大幅に増えでもしない限りはこれ以上増やすことも無いのだという。

 雇われの女たちにとっては長い行列と熱をも叩き波紋に変えて延ばし続ける喧噪は大きな疲れを招いてしまうものだが、雇い主は自分が大儲けできる方法としか向き合わないため諦めるしかないのだとユユは彼女たちから告げられた。

 行列は捌けていくものの無尽蔵の注ぎ足しがあるため中々休むことが出来ない。

 そんな中、大きな木の箱に幾つもの生地を積み込んだ男が現れた。

「パン屋の者だ」

 パン屋を営む際には自前の窯を用意することが基本とされているものの、資金の持ち合わせがない上に借金をしようにも保証人がいない新人には簡単には用意できない。そんな大量のパンを焼く人物の為にも貸し出す窯はあるのだろうか。

 窯職人は彼の訪れと共に表情に丸みを出して大きな収入に想いを焦がしていた。

「貸し切り用の窯は裏口で」

 慣れた手つきで巾着袋から銅貨を数十枚取り出して奥の方へと向かって行く。貧乏なパン屋を営んでいる以上はこの工房の常連であることは想像に難くなかった。

 そんな男の背を見つめながら気味の悪い笑顔を浮かべる丸々と太った男は怪しさ以外何も持っていない。銅貨を持っていると言われたところでユユの想いの中での持っているという言葉の意味からはあまりにも遠すぎて。

 貸し切り客はこのまましばらく顔すら見せない事だろう。

 よそ見している事を気付かれてしまったようで職人は声を上げる。

「気にするな、そんな事に気を取られるな」

 ユユは正面に並ぶ客の相手を始める。一般客の傾向としては若い女性の姿が多めに見受けられるだろうか。男は何処へ行ってしまったのだろう。きっと仕事中なのだろう。一生独身のまま命の火を吹き消す立場でなければ妻に任せ続けるという手段に手を染めるのだろう。いつでも女任せの風習に嫌気はささないのだろうか。常識なのだろうか。

 気になっていては仕事も手に着かない。隣の女に訊ねてみると共に帰ってきた答えに思わず感心を得てしまった。

 曰く、結婚にまで行き着いた男の半分近くが高給取りである。つまるところ妻の仕事は家庭や生活の事。

 ユユは現状を想い、キールとの関係がどのようなものかと考え続けていた。貴族でもなければ研究者でもない。中々金がたまらない者。街の風習や考え方とはあまりにもかけ離れた現状がユユの事を異端者と笑っている。

 そんな想いを吹き飛ばすように声を張り上げて並ぶ人が支払う銅貨をポシェットに仕舞い込んで案内を続ける。動く度に揺らめくエプロンはきっと男たちの情を茹で上げてしまっていただろう。ある程度の細さを誇る者やわがままな肉付きの身体から絞られた健康の証まで平等に女という生き物の可愛らしさを引き立てる。

「もう少し緩い仕事がしたい」

 衣装は可愛いけど、などと呟いている間にも次の客を捌いていかなければならない。これがプロの仕事というものだろうか。周りのエプロン女たちはそんな激務を器用にこなしている。ユユも早く彼女たちに届くよう振る舞わなければ、心の中で何度も告げるものの、どうにも表情が少し固いらしく、従業員仲間に軽い注意を受けた。

「慣れないからかな、もっと気楽でいいんだよ」

 ユユは気を取り直して接客を再開する。時間すら忘れてしまいそうな忙しさの中、必死に動き回っている内に昼の鐘がなってしまった。それで仕事は終了。それぞれの枠組みの中の木の立方体を数え、ポシェットから銅貨を取り出して数えていく。雇い主はしっかりと木の立方体を数えていたのだろう。銅貨の枚数と照らし合わせて一度頷き銅貨の九割を持ち去ってしまうのだ。

 それからエプロンと作業着のポケットに銅貨が入っていないか、仲間だと思っていた彼女たちの中に裏切り者の泥棒がいないか、しっかりと確認を取って無事に終業を迎えた。

 ユユは昼の食事を外で、野菜を挟んだサンドイッチを頼み、口に入れることなくしばらく見つめる。

 このパンもあのような環境から作られたものだろうか。工房が異なるか個人の窯か。分からなくとも苦労の光景がありありと浮かんで来る。パンに挟まれた野菜顔負けの鮮度で脳裏に流れる映像に苦労が詰まっていた。

 きっとこれからの生活でも似た様な事が起こる事だろう。あまりにも惨めに見えてしまう。一生このまま毎日不満を掲げてはしかしながら吐き出すことの出来る相手を見つけることも叶わずただただ溜め込んで忘れる瞬間を待ち続ける。溶かすことが出来ずに底の方に溜まってしまった砂糖のようにざらざらとした質感を保ったまま。舌の上で転がしたところで苦いだけの感情。



 食事を終えた後の空白の時間があまりにも虚しい。雑踏や喧噪の真ん中に立っていると言っても差し支えない状態でそうしたものが遠く感じられてしまう。どこか他人事で上の空。それでもやるべきことは果たさなければならないユユは市場の外れにある木の平屋に入る。

 そこで待っていた女が真っ先に口を開いた。

「新人のユユさんね」

「そう」

 いくつかの台が並んだそこに置かれている木の芯に巻かれた色とりどりの糸や白く塗られた木の箱、天に掲げられるように飾られた服はどれもこの街で見た事のある地味なデザインの物で、生活のある一面を支えていると主張しているような如何にもというべき光景が広がっていた。

 大衆向けの衣服を縫う仕事、それこそがギルドでユユが選んだ二つ目の仕事。単純な造りと色合いが一般人でも届く値段の目印。

「その目は珍しいね」

 即座に反応を示すべくユユが顔を上げる。それを確認したのか、視線が向くと共に続きの言葉が耳元を訪れた。

「ここは高級志向の店に就けなかった人の行き場みたいなもので」

 つまるところここに働きに来る人物の大半は願望が折れた後の陰に覆われた貌から始まるのだという事。そのような感情を浮かべる人々が癒されるにはどれだけの時間がかかる事だろう。

 それから夕刻の鐘が響く時まで労働を続けて帰宅の時が訪れた。この一日は田舎に住んでいた時と大して変わらず充たされない想いが波を打ち、しかしながら行き場は見つからない。

 先ほどの衣服を縫う中で見たものといえば女たちの不平不満に仕事中に対する不平不満に満ちた光景。半分近くの者が休憩時間に街を歩いていた人々の顔や体型をけなし、己に関係のない人物の振る舞いの悪口を放り込んでストレスを解消していた。

 ユユも将来的にはそのような人物となってしまうのだろうか。未だ分からないと頭の中では反抗してみるものの、どこか否定できない自分がいた。

 家のドアを開き、疲れた体を放り込んでドアを閉じた手と閉じた瞳が感覚の余韻だけを残して睡眠という境地へとたどり着いた。

 次に目を覚ましたのはキールがドアを開いた時、つまり再会の時だったのだという。

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