第4話 生活
やがて暗闇は濃い青の空へと色を薄め、キールは海水と収穫を詰めた樽に目を向ける。そこに収まる魚たちはこれまでどのように生きてきたものか、誰も彼もが必死で、常にもがき苦しむように突き進んで、果てには人間という知恵と創造の生き物の手によって捕らえられて終わり。目も当てられないような生命の果てだがこれも人が生きるために必要な事だった。
「どれだけ獲れたのか」
薄明るい空の下で彼は樽の中を覗き込む。
「なかなかだな」
空の青に染まった顔は険しくも感情は柔らかな曲線を描いている。
男は従業員の収穫を数え終えると共に竿を片付け始めた。
「これだけ獲れば充分だ」
「海に残しておかなければ我々が食い尽くしてしまう」
冗談めかした言葉の裏に撤収の文字以外のものは見受けられない。儲けを上げようと思えば幾らでも足すことは出来るだろう。しかしながらそのような真似はしない。
「これが終われば他の仕事が待っているのだろう」
朝の仕事の次、誰も彼もが二つ目の仕事を持っているという事はやはり釣りだけでは収入が足りないのだろう。これまで一人で生きた事がなかったキールが実情を学んだ瞬間だった。
樽に蓋をして紐で縛り上げて背負う。街へと足を進めて更に更に更に先へ、やがて見えてきた赤茶色のレンガが特徴的な屋根を作り上げている建物の中へと入る。そこに待ち構えていた人物は樽の中身を箱へと移して品定めを始める。
「これだけか」
「これだけだ」
どうやら魚の取引所のようだ。市場を開く手前の段階だろう。市場もまた太陽の動きを見ないもので、人気はそこまでないものの必要な職業。この街に住まう民間人の殆どは料理をしないものの市場がなければ料理人が直接釣り人たちと交渉する形へと変わってしまう。キールにはもしもの光景があまりにも苦しく見えてしまう。贔屓や虐めといった関係性によって大きく左右される仕事など足を踏み入れる気になれない。
「では、賃金を」
支払われたのは数百の銅貨。それを一旦ポシェットにつめて男は人々を外へと連れだす。
石の敷き詰められた地面の中、ベンチに腰掛けて銅貨を数えてそれぞれに配り始める。キールはそこで気が付いた。この仕事には経験や個人の収穫量の差による賃金の格差がないのだという事。総員で得た収入をそのまま等分していく様を見つめるキールの目は疑問の風に波を立てていたのか男は答える。
「運によって収穫量が変わるからな」
つまり、偶然数人だけがほぼ釣れなかった時の保障なのだろう。その日の収入が運に左右される中で給料が変わるのは公平か残酷か。
「ゼロでない限りはこうする」
成果を取るか安定を取るか。飽くまでも副業として扱われるだけの釣りは趣味が半分といった様をしていた。
空に散りばめられた雲はそれぞれの進む道の違いを示しているようだった。太陽は低い位置で輝いているものの、手が届かない程の高さにあるのだという。キールの目には手が届かない程に遠い場所にあるようにしか見えなかった。
別の道を進む仲間の姿が消えていく一方でキールの向かう先と同じ道を進む者もいた。それもやがて地面を同じように踏み鳴らす音も三つ二つと数を減らしていく。祭りの後の寂しさにも似た静けさはあったものの、それもまた人生では避けられない流れ。終わらない祭りは疲れを呼ぶだけだった。
街を出て、たどり着いたその場所でキールは一度ため息をつく。辺りは森林に覆われていて人間の姿一つ見当たらない。ただ一人、ずっとついてきた釣り仲間を除いては。
「キールも森林伐採と運搬か」
恐らく同じ職業なのだろう。この偶然は案外容易く起こり得るのだと暇潰しという役割を背負った会話の中で知った。高尚なものや、難度の高いものと呼ばれている仕事に就くことの出来る人物など街の中でもほんの一握り。そうでない仕事でも管理や金を動かす立場に居座るにはある程度の実績と公の試験に合格し得る成績が必要。偉い者から顎で使われる労働者となるしかない人物では職業の選択肢などある程度限られている。特に男は力仕事をしてこそという風潮がある為洗濯業者や裁縫は選ぶことも出来ず、物の運搬や漁に農業といった業務しか与えられない。
「しかも農家は意外と合格もらえないんだよな」
恐らく土の質や肥料の量、作物の状態を常に知っておかなければならないという重大な責任が労働者全員に降りかかる農家はある程度の信頼を持ち歩いている人物しか雇うことも無いのだろう。
「同じように材木か、合格出来ればいいな」
「もちろん」
キールは緩やかに手を差し出してしっかりと答えていた。
「握手」
男は空よりも明るく太陽よりは暗い、そんな笑顔を見せながらキールの手を握る。
「いい仕事が出来ればいいな」
キールは握られた手に痛みを覚えてしまう。手に走る感覚は熱に似ていて焼かれる様を想像しては心に寒気の風を吹き込ませてしまう。
「もちろん」
しかし抱いた感情はしっかりと隠してただ肯定の意見だけを述べる。そんな態度を気に入らない人物は幾らでもいるそうだが今回はその流れではなかった。
「来たぞ」
男が口を動かす。飛んで行った言葉の先には一人の老いた男の姿が待っていた。こちらへと向かっていた。
男はキールの顔に視線を当てて遅い音楽の三拍程度の時間だけ沈黙を貫き、斧を手渡す。
「それで木を切って持ち帰るのだ」
名を訊ねることも無くただそれだけ。これでいいのだろうか。
「キールだったか」
恐らくギルドの管理役員の口から聞いたことなのだろう。
「分かってる」
分かった事はこの老いた男も金持ちなのだろう。という事一つ。雇い主なのだ、当然賃金の計算や搬入数などは分かっている事だろう。
遅れて先輩の顔が並び始める。それぞれに異なる意志を秘めているものの、手渡される道具は誰もが等しく斧だった。
「行くぞ」
言われるままに従う他なかった。蠢く緑の中を進む彼らの勇気に背中を押されてキールも倣って木々の群衆の中へと、緑の持つ本来の姿の中へと進み続ける。
ある程度奥へと進んだだろうか。そこで斧を構えて一同は木を倒し始めた。
続いて数人がかりで二本を一つに纏めて麻紐で縛って数人掛かりで持ち上げ運び出す。森の呼吸は涼しくてしかしながら不思議と蒸し暑い。そんな中でみんなで協力し合って往復を繰り返して全て街へと運び込む。
重労働はキールの身体を打ち続ける。次の木材を運ぶために戻ったその時、木漏れ日に彩られた空が回っているような気がした。景色の回転は止まらず、仲間もまた疲れを隠せない様子。そんな姿を見ながら雇い主の男は鼻で笑うのみ。
この街の常識によれば労働者など所詮は使い捨ての肉体に過ぎない。働けなくなればただ死を待つだけ。大病を患ってしまったその時には己の財力の限界の壁に頭を擦り付けて己を恨んで苦しみながら死ぬ事しか出来ないのだという。
医者に頼ることが出来る人物などそれこそ貴族のみ。キールのポシェットに詰まった銅貨が何枚あっても医者の職人としての顔など拝むことすら出来ない事だろう。人を救う仕事など綺麗事でしかなかった。世間は貧乏人にはどこまでも冷たかった。
「キール、しっかり」
釣りの仲間の声がしっかり届けられた。朝の時間の中では特に会話も無かったはずなのに、気が付けば距離感が縮まっている。共に働く事で深まる絆もあるのだと仲間意識の存在を強く認識した瞬間だった。
やがて本日必要としている木材の全てを運び終えた。太陽は傾こうと降りようとしているところで鐘の音すら届かない自然の深みを味わい反芻する。
「運び終えたら今日は薪にするんだ」
休憩など無いのだろうか。汗を褐色の服の袖で拭おうとするものの既に何度目の行ないか、上手く汗を吸ってはくれない。中の蒸し暑さは酷くなり行く一方で、外出していても閉じ込められているような感覚が止まらない。すっきりとした太陽の熱が汗と労働によって人間模様に染め上げられて行った。
切り倒した木々を更に細かく切る作業。斧を振る度に汗は飛んで熱は内側へと染み込んで群れた感覚は身を蝕む。
何度も振り上げては下ろす。その作業に休憩時間など存在しない。昼の休憩時間すら取っていない事に対して湧いてくる気持ちには果たしてどのような題名を付ければいいのだろう。
「いいか、終わるまで帰れないからな」
男の言葉は紛れもない真実なのだろう。手早く終わらせる事こそが正義で遅くまで働く人物はただ無能の烙印を押されるだけ。賃金が変わらないのであれば間違いなく手早く終わらせる方が得だった。
分割の作業を終えた後には薪割りの作業が待っていた。木を立てて一直線に割る作業。力の入れ方を間違えるだけで綺麗に割れず修正をかける事もほぼ不可能。今必要なものは自身の集中力と正確性だった。
それから夕日は落ちて鐘が響き始める。時間の経過を知らせるそれは公の施設の仕事の停止を、更には大半の仕事の終礼の訪れを意味していた。いくつの薪を割ったのだろう。残すは二つ。
キールが斧を振り上げると共に腕が悲鳴を上げる。しかしながらそれで諦めるわけには行かない。ここで作業を止めてしまえば給与が大幅に減るのだ。一日予定が遅れる毎に半分に減り、三日遅れると無賃労働と化す。そんな底辺労働者の実情がこの場に息づいていた。
「暗くなる前に終わらせろ、怪我するぞ」
まさにその通り。仮に松明を借りようものならば貸出料金を取られてしまう。次の日に回すよりは随分と安く済むが理想を語るのならば。
想像をも断ち切るようにキールは勢いよく斧を振り下ろした。
仕事を終えると共に薪は運ばれ商人と取引を行った後に賃金が労働者の手に渡る。
「また下がってる」
キールの隣で呟く知り合いの男は項垂れていた。
「労働者は衣食住だけ整えてろってことだろ」
キールの言葉に大きく頷きますます力を失っていく姿はまさに労働の為だけに生かされた人形。夕飯を平らげてすぐさま眠りに就くに違いない。彼の味気ない人生が、永遠に苦しみ続ける一生が見えた気がした。
「俺には女なんて」
「だろうな」
キールには励ましの言葉も希望を飾り付けるための嘘も用意できなかった。勉強を経て随分と頭が固まってしまったものだと思いながら仕方がないという一言で片付ける。実は昔からそうなのだと自覚を持つことすら出来ない哀れな若者の振る舞いを綺麗になぞっていた。
男はキールと並んで家に帰り行く。本人によれば両親共に倒れてしまったという話。
「母は十年も前に流行り病で、父は労働病だろうな」
「労働病って」
キールの訊ねに驚きの表情を隠すことが出来ずに過ごす手早い十一拍分、そこから絞り出した言葉によってこの街での常識が語られた。
「働いたことで出る怪我や病気だ」
つまるところ、貧乏人の行き着く定めというものだった。彼らに出来る事など取り入れる食材の工夫から幾つかの薬草を混ぜ合わせてすり潰し、患部に塗ること。そうして祈る事。ただそれだけ。
「かつて親を救うために借金を背負った人がいた」
キールはただ聞き続けるだけの事。こうした他者の話は一つ一つが役に立つという事を知っていた。
「病気した親を診てもらうためにな」
キールは頷くことで話の続きを促す。救われない者の話は心を暗くしてしまうものの、他人事に思えない限りは聞いておいて損はない。
「一応救われはしたが、家族全員で働いても全額返済とは行かなかった」
それはこの世界においては救いと呼べる代物だったのだろうか。生き地獄の始まりと地獄行きへと続く道なのではないだろうか。
「それからどうなったと思う」
「分からない」
終わりではない事が決まってしまった。不幸はどのように続く事だろう。
「子孫を残さなかった彼には借金を肩代わりする者がいなかった」
まさに今隣にいる人物がそうであるようにこの街では生涯を独身のまま過ごす者も少なくはない。
「結果として彼の職場に勤める人物や家の周りの住民が返す事となった」
責任は周りに及んでしまう。医者に頼ることが如何に難しい事か、改めて思い知らされた。
「この街ではあまりにも有名な民話さ」
迷惑をかけないように動く事。何を始めるにも周囲への影響をしっかりと考える事。そのような意味を添えて親から子へと語り継がれているのだという。
暗闇が建物の壁を黒一色に染め上げようとしている景色の中でどうにか街の姿を捉えながら男はキールが進もうとしている方向とは別の向きに顔を捻る。
「キールも気を付けるようにな」
「そうだな」
それから男は顔を向けた方へと身体を揃え、一言だけ告げる。
「また明日」
「明日また太陽に顔向けできるよう祈る」
そうしてキールは一人、家に一人で待つ大切な人の方へと足を進めた。
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