第3話 二人の仕事
ピザ一枚で黒いキューブ三個、黒いキューブ一個分の値段のカクテル一杯ずつで合計は黒いキューブ五個分。
銅貨を五枚支払い、酒場を後にする。まだまだ昼は過ぎ去ってくれないようで輝きと熱が身を焦がそうと迫りくる。内側で火照っているものは酒だろうか、昂揚する自分自身なのだろうか。理解もしないまま、かといって思考を巡らせようにもくるくると回る意識は理解を運んでなどくれない。持ち込まれることのない平静、周りの声がいっぱいに詰まっているはずの心にまで反響していた。
空の回転と景色の震え、視界に色づく多種多様の残像たちから逃れようと二人歩くものの、たどり着いた家の中で幾度となく繰り返すものは先ほどの喧騒、最悪のリフレイン。あの短時間に取り入れた感覚の全てが暴れ回ってはキールの意識を突いて掻き混ぜ最悪の心地を作り上げる。
たったの一杯の酒がこれ程までの不調を呼び起こすという事、そこでようやく日頃の疲れが底に溜まってこびりついては身体中を蒸し焼きにしているのだと気が付いた。引っ越し疲れ、慣れない環境を歩くことで奪われる体力と人知れず積み上げられて行ったストレス。今日はしっかりと休みを取って次の朝には元気を取り戻さなければならない、回らない頭でもしっかりと表面に浮かべ、心に焼き付けていられる事だった。
ユユの方も疲れを感じているようで、藁を敷き詰めて作っただけの簡素な寝床で丸くなっていた。
「明日働けるだろうか」
「働かなきゃダメ」
キールの言葉にしっかりと噛み付く様は酔いなどには揺られない強い意志を感じさせられた。この生活が終わったとしてもキールの進む道の先に待っている事は学問、気合いと知性の必要な道だった。新しい人生が幕を開けるまでの空白の二ヶ月間をただ遊んですごすことなど彼女は許してくれなかった。確かに故郷の心構えを忘れずに生きるのであれば食事と睡眠以外は常に働いていることが当然ではあったものの、数年にも渡る別の町での勉強生活はあの日々を忘却へと追いやってしまったよう。
当たり前が当たり前ではなくなってしまった、そんな感覚を今この場、疲労と酩酊によって地に押さえつけられて冷静でいられない状態で知ってしまった。
微かに差し込んでくる陽光は何処へと向かっているのだろう。この場所に染み渡っては消えてその後は何処へと行ってしまうのか。
陽光の明るみを遮る影のような様を見せる棚は窓に掛かることもなくただそこに立っているだけ。木をつぎはぎして作られた箱は触れるものと触れないものに分けて置かれている。部屋が狭く感じられる原因ではあるものの、都市に住むより遥かに安く済むという意見があった為に我慢をしながら全て納めていた。
勉強から引っ越しまで、数年もの間世話になり続けていた夫婦によれば学校に入学した後は都市で借りた家は公の方からの支援にて支払われる。その代わり税金が高く、旅や入学程度で入って来た人物には給与はあまり入って来ない上に生活費も必然的に上がってしまう。人間よりも文明を優先した都市では切り詰め続けなければならないようだった。
「でもギリギリの国跨ぎの引っ越しは良くないって言ってたな」
人々の往来が激しくなる時期、移動料金は高く付いてしまうそう。ただそれだけで済むなら中間層や下層の者でも貯蓄や労働で補えばどうにかなるかも知れない。しかしそれだけでは解決出来ない問題があった。どれだけ自分の条件を整えたところで馬車を操る業者の数は有限な上に往来を繰り返すにも馬の状態などによって上手く行かない事がある。つまるところ、貴族のように多めの金を積みでもしない限りは予約を取ったところで入学まで間に合う保証がなかった。
「金は一応あるか」
ポシェットの中身を確かめて回らない頭を回しながら軽く指で弄びながら数えていく。すぐさま数を見失ってしまったものの、贅沢などをしない限りは働かずとも生きていく事は出来るだろう。しかしながらキールの入学後の生活まで見据えているユユにとっては不満だそうで、貯金に努めるよう促されたのだった。
ユユのポシェットにも同じ程度の銅貨は入っているものの、無いものとして考えるようにと告げられていた。
キールはため息をつきながらユユの背中を見つめる。母を思い出してしまうような変化、夢のない生活、これからもユユと一緒に過ごしていく事は出来るだろうか。確かにユユはユユだと酒場では語ったものの、その態度を貫き続けるだけの強さ、勉強や仕事とは異なる強さが宿っているものか、自信がなかった。好きな人の苦手な一面、それが強く滲み出る環境を受け入れることの難しさはどのような難問を解き明かせたところで容易には成り得ない、そう実感させられた。
力の抜けた動きでふらつきながら身体を起こし、両開きの扉の造りをした窓を閉めて打掛錠を回して引っ掛ける。太陽の輝きを遮って訪れた暗闇の中、次に空を瞳に入れた時には夕暮れか蒼い闇であるようにと願いながら瞼の戸締りを行なった。
微かな音が外から流れて来る。キールとユユの姿など目も当てずに空気を叩き、地を踏み、そのまま家の壁をすり抜けて耳へと届いて。そんな感覚との添い寝、宿泊施設や都会に見られるようなベッドすら用意できないこの場所でキールとユユは各自柔らかな藁をベッドの代わりに、薄いタオルを身体にかけて眠るだけ。
酔いの力とは実に強力なもので、壁の向こうで幾つもの騒がしい言葉が飛び交っているにもかかわらず、意識を沈めてしまうだけの力が見られた。頭をふらつかせる揺れは不思議の塊。様々な国で大まかに統一されている法にて大人でなければ呑んではならないとされている。大人でなければ知らないはずのそれがどうにも懐かしく感じられていた。ゆりかごだろうか、遠く、遥か遠く、彼方の更に向こう側、記憶にないはずなのに覚えている、そんな優しい見守りの視線と心地よい動き。あの感覚とは関係もないはずの記憶が呼び起こされる。なにもかもが愛おしかったあの頃、幼い頃から畑仕事の手伝いをして自由など許されなかったあの頃を。
働かなければ、ふいに蘇った感情は手を動かそうと力を込めていたものの、引き攣ったまま力など入る事なく意識は完全に闇へと落ちて行った。
意識は潮の満ち引きのような静けさ、意識の波が軽い音を引きずりながらこの世界に戻ってきた。重たい体の心地は最悪なもので、水分を欲しがる身体と水は貴重なのだと理解している脳が無益な争いを繰り広げて動く気力を奪い去っていた。あまり良い睡眠ではなかったのだろう。気怠さが襲い掛かって来ては心を削って食べてしまう。ここまで考えようやく空腹に包まれている事を自覚する。このままでは飢えに負けてしまう。
慌てて立ち上がりドアを開いてユユの身体を揺すり起こし、ゆったりとした仕草で目を擦りながらゆっくりと開く姿を見届けそのまま夕食へと向かう事とした。
妙に人の少ない夕暮れ。二人で歩いている途中に差し込まれた時間の隙間に入り込む大きく鈍い鐘の音は間もなく夜が訪れるのだと報せを入れる。
「そろそろ人が増える時間か」
ぽつりと零れたキールの言葉に同意を重ねてユユは今日も働かなかった事を悔やむように固い声でキールに言の葉を撒いて夕飯を食べに向かう。
トウモロコシと小麦を混ぜて伸ばした生地に野菜やハムを包み込み焼いたパンの一種だろうか。それが今日の二人の晩ごはんとなった。
「もう飲みたくないね」
ユユにとっては初めての酒だったのかも知れない。それで心地悪さが強くねじ込まれたのだから否定から入るのは仕方がない事だろう。
「疲れてなきゃもう少し楽しかっただろう」
その言葉にどれ程の説得力があったのかは知ることが出来ない。理解などしてもらえない事も充分にあり得るだろう。
「今度はしっかり休んでから飲もう」
「水が欲しくならなきゃいいけど」
ユユも同じように貴重な飲み水を欲してしまったのかも知れない。口にすることの出来ない水であれば川にでも流れているものの、新鮮で多少の安全が保障された水はあまりにも高級。しかしながら必要なものとして買い続けるため抑えられない出費の一つだった。
「キュウリかスイカがあればそれで凌げるけど」
ウリ科やトマトといった瑞々しい野菜にリンゴなどは調理をしない一般人でも珍しく日用品として購入されるもの。安全性には疑問は残るものの水よりも遥かに安価である。
しかしそれでも出来る事ならば貯蓄を増やす上で良くない事はしたくない、そんな感情が力のこもった頬、少し膨らんで見えるそこから感じ取れる。
ニンジンとキャベツに生ハムを巻いた生地を口に入れ、瞳を緩める。微かに伸びるまつ毛が今にもキールの心を攫ってしまいそうで、見つめているだけでも震えてしまう。
「どうしたの」
素直に言葉に出すこともなく、キールは目を伏せ、料理を口へと運ぶ。噛み締める事で分かった事、農家の息子として野菜の鮮度が感じ取れてしまう。新鮮とは言い難く、萎びた葉や湿った根菜はどうにかならなかったものだろうかと訊ねたくなったものの、贅沢をしたければもっと大量の貨幣を持って然るべき店に行くべきだと心を抑える。
「なんでもない」
ユユは生ハムの味は気にならないのだろうか。これまでいくつもの肉を扱い食事にも取り入れてきた狩人とはいえ加工肉なら気にする必要もないのだろうか。
ユユはキールの不満が滲み出た視線を指に絡めて弄ぶように次の日の夕飯の提案を持ち込む。
「次来た時は野菜のニンニクトウガラシ炒めでも頼もうよ」
スパイスこそが正義、鮮度や質を誤魔化すための絶好の味付けだった。
「そうだな」
明日から労働が始まる。二人共に二つの職を持ってどうにか稼ぎを増やそうとしていた。
「早くから出かけるから」
「やっぱりあれ」
「そう、あれ」
具体的な業種を告げなくても伝わる程に根深いのは二人の共通の思い出だからだろう。休日を休日として認めてくれない今の中で少しでも好きなことをしようと決意を固めた男の姿がそこにはあった。
暗闇が明ける前に集う。夏は夜闇の踊る時間が短いとは言うものの、それでもキールが歩く世界には暗闇が蔓延っていた。この時間だけはきっと太陽でも照らす事が叶わない。隣の都市に倣って人の手によって明かりを作ろうにもこの時間の人通りの気配と軌跡は必要性を否定していた。電気の力を使おうにも莫大なエネルギーと費用が掛かってしまう。
キールは油で湿らせた布を木に巻き付けて作った松明にマッチを擦って点けた火を移していく。勢い良く燃え上がる松明は頼りない灯り。しかしながらそれに縋って行かなければ目的地には到底たどり着けないような気がした。暗闇は深く、どこまで行っても闇は闇。飲み込まれては何処にも行けないような錯覚を抱えながら進む。気のせいでしかない事は分かっていたものの、どうしてか不安は誘われ、震えとなって笑っているように感じられた。
街を西に進み続けてたどり着いた海岸、街からは外れているとは言うが隣接しているため凶悪犯や盗賊はあまり現れないそうだ。
「基本安全だ」
それなら安心できる、などと思えるキールではなかった。
「だが気を抜くな」
表情は松明と闇の中で上手く見えないのだろう。分かり切ったことを告げられる心情も見抜かれなかった表情と共に仕舞い込む。
「動物が来るのか」
キールの問いに対して大きく首を左右に振る。暗闇の中の作法というものだ。
「俺たちの賊は鳥だ」
鳥が魚を奪いに来ることがあるそう。目ではなく耳と鼻で追ってくるため暗闇のカーテンは微塵たりとも意味を成さない。
「それは苦労するな」
それから釣りの幕開け。仲間は十人程度。太陽の高さと鐘の音に従って仕事を進める文化があるなかで暗闇に覆われた時間を職場にしている釣りは人気がないのだと語られた。
「質問なのだが」
松明を木のスタンドに立て、釣り針に餌を付ける。
「なぜ仕事を探していた」
男は勢いよく釣り竿を振り、遠くにまで釣り糸を飛ばす。
「隣の都市の学校に入るまでの繋ぎ」
キールもまた釣り針にミミズを刺して引っ掛け立ち上がる。
「昔から一年に一度漁に出てたからここを選んだ」
言葉と共に釣り竿を振る。出来る限り力いっぱい、しかしながら前へと釣り針が飛んでいくように加減を加えながら。キールの意思をしっかりと聞き取った針は空を舞うように飛ぶ。釣り糸は針の進みをそのまま表す軌跡となる。
そのまま海へと飲み込まれたミミズは果たして無事に魚を持ち帰って来てはくれるだろうか。
それからすぐに掛かったようでキールの竿は大きくしなる。それから慣れた手つきで釣り上げた魚を見つめて男は告げた。
「上出来だ」
キールにとってはこれが生きた瞬間だった。
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