第2話 昼飲み
乾いたパンは喉の潤いを奪い去ってしまう。固くて小麦の香りと味わいが凝縮されたパンは塩の味すら感じさせない。塩などという高級品を扱う事など許されていないという事だった。
「鉱山からの採掘部隊が帰ってきた時に行なうセールの時に買おう」
キールはそう述べていたものの、二人がこの街に住んでいる間にその時は訪れるものだろうか。彼らが帰って来るのは三十日を四回繰り返して一度のみ。その頻度では会えない可能性も十分あった。都市の学校の入学式という大事な時に合わせて帰って来る可能性が最も高く感じられる。だとするとこの街に滞在している間に塩が手に入る可能性は非常に低いだろう。
キールは木の枠に収められた扉を思わせる窓を開いた。夜には潜んでしまい、失われた輝きが嘘のように甦っていた。こうした日々が当たり前であるのは実にありがたいもの。
ユユは朝日のヴェールがかかる台の上で小麦粉に水の代わりの牛乳をかけてこねていた。つなぎとして利用できるものといえば牛乳や果汁、ラード等の動物油といった辺りだろう。
小麦が舞って朝日に照らされて微かな輝きを散らして部屋の飾りとなる。固められた小麦の塊はこれから外へと持ち出される。
「今日はパンを焼くからかまどを借りに行くよ」
「俺は水汲みだな」
キールは木を張り付け金属の輪で締め付けたような姿の桶を二つ提げていた。両手はあれども塞がれた。桶を一旦地面において家のドアを開いて外に持ち出す。
「あとは仕事探しとかかな」
今のユユはどうやらやりたいことよりもやるべき事、やらなければならない事を優先しているよう。楽しみは後に取っておくと言えば聞こえはいいかもしれないが詰まるところは社会の操り人形となっているだけ。それが大人になるという事の一端なのだとキールが気付く日まであとどれだけの年月を必要とするだろう。
ユユはパンを木の板に乗せて動き出す。キールはドアを開いてユユの姿が朝日の下に露わになる瞬間をしっかりと見届けてドアを閉じる。アパートには鍵という最先端の安全策が備えられているという噂を耳にして、噂の主は空き巣なのだろうと悟りつつもキールは自分たちの家は狙いの候補にすら入っていないという様子を窺い安堵する。酸性紙で作られているとはいえ書物の類いは非常に貴重なもの。羊皮紙製であれば貴族や王族、図書館などでしか見られない。羊皮紙に文字を綴る仕事も芸術家や研究、公の書類程度のものだろう。キールの手が触れる日など永遠に訪れないかもしれない。
しかしながら酸性紙の束を保管している一般家庭ともあれば十分に忍び込む価値が生まれてしまう。裏の市場で取引されて悪用する者が現れてしまうかもしれない。キールとしては避けたい事ではあるものの、鍵など掛けられない、掛けたところで木材の壁をくり抜き事ですぐにでも突破されてしまうような家には必要ない。
そんな気を付けようもない状態で仕方なく放置して二人はパンを焼くためのかまどを借りに行ったのだ。
貸出業者は賃金を先に払うよう各客に告げていた。かまどの戸を開けると共に大きな音が響いていった。そんな周囲のしとやかな音をも掻き消してしまう騒がしさは紛れもなく目の前の光景。毎日が祭りのような気配に色づいていてキールは疲れを覚えてしまっていた。どのような毎日を積んでいけばこの空気感に慣れることだろう。かまどのなかで揺らめく炎は熱気を放ち、キールの手を拒絶しているように思えてくる。
ユユはそんな熱の波を堪えながらパンをかまどに入れ、そのまま熱い扉を閉じていく。近付くだけでも大きな熱量を誇るそれに閉じ込められたパンは逃げ場すらなく、ただただ身を力強い炎に傷つけられて行く。囲まれては熱を、形の不確かな体の余韻を注ぎ込まれて身も心も一つの方向へと染め上げられて行く。
耳をも叩く熱の音、上がり続け空をも染め上げようと遊ぶ煙、地を叩く靴の音はテンポを忘れ、人々が口から奏でる雑談の重なりは調和を取らず絶え間なく。何もかもが自由なこの街の中でかまどの持ち主は毎朝が稼ぎ時だと想いを躍らせていた。
「キールは水汲んで来て」
頼まれるままに桶を揺らしながら歩いていく。水を売っている商人は何処にいる事だろう。慣れない土地は分からない事に塗れている。どこに行っても幾つの経験を持っていてもある程度重複していたとしても、その土地に初めて足を踏み入れた人物はその土地の初心者なのだから。
しばらく歩き回る。太陽が少し高い位置にまで飛んで行っただろうか。今この場所で紡いでいる時間、場所の総てが初めてのもの。陽光に戸惑いが砕け散って頭の中で漂う感覚を覚え、ふらつく感覚を覚えて足取りも怪しくなっていく。
「くらくらする」
そんな体験もまた雑踏の中の破片に過ぎない。人々が歩き動き作り上げられる不規則な波が更に不思議な感覚を、浮つくような足取りを誘っていた。そうして歩くこと更に時間は過ぎ、水を買って桶に注ぎ込み帰った頃には昼の手前といったところだろうか。家の外、四本の丸太の柱に支えられるのみの簡素な屋根の下に桶を置いて蓋をして。待っていたユユと目を合わせて再びどこかへと向かって行く。
ユユに引っ張られて向かう先は何処なのだろう。心をときめかせながら歩いた先に待っていた場所には大きな木の看板が立てられており、そこには薄っぺらな黄ばんだ紙が大量に貼られていた。仕事を探し、生活の柱を固める。そこまで今の内にやってしまおうという事だった。
いくつもの紙を、そこに連ねられた記号の塊を見つめ、職種毎に分けられている事に気が付くまでに要した時間は農地で歌われる民謡に添える拍を三十一回刻めるくらいだろうか。
書類整理や会計といった仕事は公私を問わずある程度の勉学を収めた実績を要求してくるため真っ先に視界から取り除き、肉体労働の類いに目を移す。その中にキールの人生の流れに相応しい仕事を見つけた。
「よし、俺はこれに決めた」
紙を一枚剥がし、職業掲示板の管理人に提出した。
「朝釣りか、恐らくすぐに通るな」
曰く、外食が基本となるこの街では料理人に対して魚売りの仕事をする人物の下で働く仕事となるそうだ。街の住民が総員で回している事が最も実感できる立ち位置は作業員の上に立つ会計だろう。料理人からは認知されない仕事、しかしながら彼らにとっては最も大切な立場であるという自覚を持って然るべき成果を上げなければならないという。
「明日の朝現場で一度働いて合否判定が下りるから気合い入れろよ」
そんな声を掻き消す響きが空いっぱいに広がり始めた。鈍い金属の音は太陽が頂上に来た時の知らせなのだという。
「昼になったな、話は通すからあとはお前次第だ」
公の仕事に携わる人物にとっては街のシンボルである塔の鐘の音がさぞかし待ち遠しいことだろう。
「次に鳴るのは日が沈む頃だっけ」
太陽が顔を半分隠した頃、おおよそでしかないもののそうした時間の管理がこの街では当たり前。太陽の位置や高さによって時間を把握しているという習性。文明をある程度進めて整えつつも飽くまでも人間という動物として過ごしているのがこの街の住民たちだった。
「俺たちも休むか」
土を掘っていた作業員たちは夏でも関係なく長袖の服を着ていた。汗を拭い、パンを齧って果汁を水に溶いて口へと運んでいた。このような働きざまが一般的なものなのかと確認してキールはつい言葉を零していた。
「鐘が鳴らなかったらどうするんだよ」
太陽が見えないような空の顔をしている日、どこにいるのか分からない彼を見つける術など持ち合わせていないだろう。労働スケジュールの全てを太陽に任せる事はそのような弱みを持つ。キールの故郷では雨が降れば休憩という言葉の意味は流れ落ち、辺りが暗闇に包まれるまで働かされていた。つまり、食事は一日三回から二回へと減少する。そのような恐ろしい事実を思い出しながらこの街でも同じことを想像していた。
黙り込んだまま思いに耽るキールの肩を軽い感触が跳ねる。ユユも手をそこに見てキールは大きく頷いた。
「酒だろう」
「私も仕事の候補見つけたから」
せっかくの休日も働かなければならないという事に落胆しつつもユユの言葉に頷き今を楽しむ方向へと切り替えていく。
「じゃあ、飲みに行こう」
結局のところ飲みたいだけ。大人になって初めての酒は確か受験の合格祝いだっただろうか。あの日は盛大に祝って心地よく揺れる頭に身を任せて動くことすら忘れてしまう程に酔っていた。先生と共に過ごしていたため、一人で飲んで過ごすという事もなかったという事実に打ち震えていた。これからは一人で飲む日が来るかもしれない。ユユのいない酒場を想像してはそれもなしではない等と思えてしまうのは男のだらしない部分が濃く滲み出てしまったがためだろうか。
今日はユユと一緒、変わり果ててしまってキールの思うような彼女では無くなってしまったあの子と共に飲むのだと想像すると少しだけ気が滅入ってしまう。
昼という時間をすべて捨てる覚悟で酒場に入った。
木の板を幾つも組み合わせて作ったような空間はデザインによる見掛け倒しなのか実際の姿なのか。木のテーブルと丸太の椅子、辺りを満たす人々の声はあまりにも聞き苦しい。カウンターの向こうにはいくつもの樽が並べられていて、店主の会計台には木で出来た何かが置かれていた。席の数と同じ数と思しき溝の入ったそこには黒や赤のキューブが幾つか置かれていた。
これから待ち構えている甘美なる時間を思いながら笑みを浮かべ、キールはブランデーをオレンジの果汁で割ったものを頼み、店員の動きを見つめていた。
まず初めに黒い木で出来たキューブを空の溝に入れ、マスターが小さな樽のジョッキにブランデーを注ぎ込む。続いてオレンジを絞り、果汁を入れる。果肉の破片や種が混ざった完成系が愛おしかった。
オレンジの酸味と甘みの二つが描く爽やかな香りの螺旋がアルコールの鼻を突く香りと絡み合って美しさをひねり出していた。
ユユはリキュールをピーチで割ったものを手にしていた。注文を入れた際にやはり先程と同じように黒いキューブを溝に一つ入れていた。それが彼なりの計算方法なのかもしれない。
観察を続けていると当然の流れに直面した。客はキールたちだけではないという事を今更ながらに思わせるやり取りだった。
「例のをお代わり」
「はい、キューブ四つ分」
恐らくあの男の注文分を数えている枠だろう。黒いキューブを八個取り出して代わりに赤を一つ、上に黒を二つ入れる形で嵌める。それから男から樽のジョッキを受け取ってブランデーを容赦など知らないという勢いで注ぎ、男に手渡した。
男はジョッキを手にして豪快に笑いながら飲んでいく。
ユユは呆れたような顔を浮かべながらキールに目を向ける。
「あんな風にはならないでね」
「なりたくても無理だろうな」
あの程度の酒への耐性は体質によるものだろう。この二人では生まれの国も違えば相手の少々白みのかかった肌とキールの黄みのかかった肌という色の違いも見られた。
「人種が違うからな。俺はそんなに強くない」
酒に強く酒に溺れる人物に対してユユは呆れた視線を向けていた。表の呆れに隠れた裏の感情までもがキールには見えていた。気付かれないように練りこまれた軽蔑の想いはキールの目を誤魔化すことなど出来ない。
「やはりユユは変わったな」
キールの言葉を受けてユユは軽い微笑みを浮かべながらキールの腕に微かな柔らかさを持った腕を絡めてみせる。
「変わらずにはいられなかった」
ピーチのカクテルを口にして、ピザを頬張って訊ねた。
「昔の方が良かったかな」
途端にキールの胸に突き刺さる感情はガラスのような高価なものなのだろうか。値が張るにもかかわらずすぐに割れてしまう貴重なそれが破片になって降り注いで、心の地に落ちては幾つもの破片となって更に痛みを与えながら刺さっていく。
「ユユはユユだ、昔も今も」
そう答える他なかった。どのように変わっていようとも目の前の彼女の事は好きなのだと認めざるを得ない。
「よかった」
答えながら笑顔を見せる彼女は室内に置いておくにはあまりにも眩しすぎて、やはりユユはユユなのだと改めて確かめながらその眩しさが好きなのだと昔から温めていた感覚の懐かしさに溺れ、不思議と一杯の酒だけで心地よい浮遊感を抱き、身体を揺らしていた。
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