辞書には無い言葉・後編


 頬を風が撫でる感触で目を覚ます。どうやら目をつむっている間に眠ってしまっていたようだった。ずいぶん長い、懐かしい夢を見たような気がする。

 窓が少し開いた隙間から、再び風が吹き込む。机の上に置いていた何枚かの紙が、風にさらわれて床へ散らばった。

 少し腰を浮かせて、それを一つずつ拾っていく。一枚だけ白紙の紙を拾い上げて、裏を見る。

 それはある有名な画家に描いてもらった肖像画だった。サインも何も入っていない、自分だけが知っている作品。これを置いていたから懐かしい夢を見たのだろうと、机の上に置きなおした。

 懐かしい夢を見ていたら、ふと写真が撮りたくなった。机の上に置いてあったカメラを手に取る。昔は多くの人が持っていたというカメラも、今では骨董品になっている。

 だからこのカメラを手に入れるのも随分と苦労した。ずっしりと重い塊を両手で支え、小さな窓を覗く。部屋の中をぐるぐると見まわして、ふと目についた構図のところでぴたりと止まる。小さな窓から見える景色が、少しづつ空気や光によって変化するのをじっと見つめている。そうして、ここだと思ったところでシャッターを押す。そうすると、今の風景がカメラに収められる。寝起きで撮った机の上のリンゴは、まるで背景の青い壁に吸い込まれているように写ってしまっている。

 この写真をデータにすることも、画像として取り出すこともできない。どうやらカメラとそれに付随している記憶媒体が古すぎるらしい。だが、それでもいいと思った。このカメラの中に収められる写真の数は決められている。容量がいっぱいになって、それでも新しい写真を撮りたければ、どこかの思い出を消さなければいけない。

 まるで本当の記憶の様だ、と思った。

 記憶は完全ではない。遠くなったものから薄れていくし、消えてしまって二度と思い出せないことだってある。写真は消す記憶を選ぶことができる点で少し違うかもしれないが。

 それでいて、記録のようでもある。そこにあるものをあるように残すことができる。写真は決して完璧ではないが、存在しないものを写すことはない。


 記憶であり、記録でもあるもの。

 その狭間ではなく、その両方であるもの。

 それを一体何と呼ぶのだろうかと考えながら、もう一度小窓を覗く。今度は綺麗に映るように、いや、自分が感じるままに写すことができるように。


 シャッターを押して、まだ世界のどこにもない呼び名を小さく呟いた。

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憶録 ゆか太郎 @yuka_taro

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