第二章 袖を切り落とす

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 稲葉と葵は、その後育成プログラムが保有してるビルに戻り、夕食を共にした。他のプログラム員に葵に関しての情報を共有し、身辺の世話の申請も進めた。こういった事例は少なくないため、即日入居できる環境が整えられている。この場所で働いている人も、子供の対応には慣れている人ばかりだ。

 葵を施設に預け、稲葉はその日は自分の家へと帰宅した。

 そこから数日間、稲葉は仕事の対応に追われる毎日だった。西山葵の現在の状況確認、プログラムへの参加申請書類提出、居住地や諸々の情報変更登録など。こればっかりはいつもの事なのだが、事務作業を何日も缶詰でし続けなければいけないというのは稲葉にとっては苦痛だった。もちろんこれも仕事の一部なのだが、面倒ごとであることに変わりはない。数日間モニターをにらみ続けて、稲葉はようやく必要な手続きの大半を終わらせた。

 その間、葵の様子は施設から何度か定期連絡が入ってきていた。が、その連絡というのも特筆すべき内容ではなく、ただ普通の生活をしているというだけのものだった。


 書類仕事を片付けた次の日、稲葉は葵を預けている施設へと赴いた。葵を正式にプログラムへ参加させるためである。今葵がいるのは一時的な保護施設のため、プログラム参加者が生活をしている施設は別にある。本人が必要な手続きをするのも兼ねて、稲葉は葵に会いに行く必要があった。

 稲葉が昼前に施設に行くと、既に葵と用務員の制服を着た中年の女性が玄関前に立って待っていた。

「こんにちは」

 稲葉があいさつすると、葵はぺこりと頭を下げる。来ている服は学生服からTシャツにカーディガン、ズボンといった私服に変わっている。手には小さなトートバックが握られ、その中にはタブレットとスケッチブックが入っているのが見えた。

「葵さんの様子はどうでしたか?」

 用務員さんは葵をちらりと横目に見て、にこりとほほ笑んだ。

「すごくおとなしい子でしたよ。好き嫌いもなくご飯を食べてました。絵がとっても上手なんですねぇ」

「それはよかったです」

 数日間の間に葵はすこし用務員さんと打ち解けたのか、絵を褒められたことに嬉しそうな様子を見せた。

「今日はプログラムの参加申請と、葵さんがこれから生活する新しい施設を紹介します。既に説明はあったかと思いますが、この施設の利用は今日までになります」

 稲葉が礼をすると、用務員さんも深く礼を返した。葵も稲葉に習って用務員さんに礼をする。

「それでは、お世話になりました」

 稲葉と葵が見えなくなるまで、用務員さんはずっと笑顔で手を振っていた。

 

 少し歩いたところにある、大きな区画の中へと稲葉と葵は入っていく。そこは広い公園のようで、低めの白い建物がいくつか建っていた。

 ここが芸術家育成プログラムの東京支部である。大都会の一角にある、自然あふれた施設が丸ごと、数多の才能を持った少年少女たちを育てるための場所になっている。そして稲葉の仕事場でもある。

 稲葉はタブレットをかざして建物の入り口のロックを解除すると、葵と共に中に入った。中にはスーツを着た大人が歩いていたり、子供が自由に座って何かをしている空間があった。天井は吹き抜けになっていて、太陽の日差しがキラキラと降り注いでいる。

「ここはエントランスロビーですね。この区域の建物は基本的に行き来が自由になっています」

 稲葉は葵の方を向いて、改めてそう言った。稲葉はそのまま、受付のところへと歩いていく。機械を何度か操作した後、葵を連れてエレベーターへと乗り込んだ。その間、葵はロビーの中を見回していた。歩いている大人は皆、葵を見かけると笑顔で手を振る。自由にしている子供たちは、葵の方を気にしている子もいれば、まったく見向きもしていない子もいた。施設の中はどこも綺麗で、明るい空気が漂っていた。

 エレベーターで三階まで上がると、そこは廊下に扉が沢山並んでいるフロアだった。廊下も扉もどこかしこも先ほどのロビーと同じく白で統一されていた。

「ここが居住フロアです。プログラム参加者の中には自宅から通っている子もいますし、君のようにここに住んでいる子もいます。基本一人一部屋が割り当てられていて、部屋の中のプライバシーは完全に守られています」

 稲葉はそう言いながらある扉の前で立ち止まると、扉の横の機械を操作した。

「ここが葵さんの部屋です。扉に君の個人タブレットをかざせば扉が開きますよ」

 葵がトートバックからタブレットを取り出して扉にかざすと、静かに扉が横に開いた。中を見ると、そこにも白を基調とした部屋が広がっている。

「普段は葵さん以外が入ることはありませんが、今回は説明のため私も一緒に入らせていただきますね」

 稲葉がそういうと、葵は頷いた。玄関で靴を脱いで中に入ると、想像していたよりも部屋が広いことに葵は驚いた。あの倉庫や、葵の元居た子供部屋よりも広いかもしれない。

 中には基本の家具が揃えられていた。そのどれもが新品で、奥にはカーテンが開いている窓から光がさしていた。

「以前のお話で、家具はすべて新品でいいということでしたので、こちらからの支給品になります」

 稲葉はタブレット片手に部屋の説明をしていく。結局、元々葵が住んでいた部屋から持ってきたものは使っていたスケッチブックだけだった。このご時世大概のものは個人支給のタブレットに入っているし、それ以外のものは必要ないと葵が判断した。なのでこの部屋の物は備え付けの新品だ。色や柄の好みなど様々なことを数日前に葵は質問を受けたが、正直葵にはあまりこだわりがなかったのでほとんど初期設定のままになっている。

 ベッド、テーブル、椅子、クローゼットといった生活空間であるリビングから、トイレやバスルームといった水回りまで、生活のあらゆることがこの部屋で完結できるようになっている。それらの案内を稲葉から受けながら、葵は自分の新しい部屋にほんの少し心が弾んでいるのを感じていた。

 稲葉が一点注意したのは、食事についてだった。部屋の中にはいわゆるキッチンがない形になっている。シンクや作業台はあるが、コンロや包丁といったものがない。要は子供を一人で住まわせるため、危険なものを置かないようになっているのだ。葵は既に十歳だったので中程度の居室になっているが、もっと幼い子の場合はさらに怪我の要因になるものがないように配慮されていたりする。様々な配慮がされているのだなあと葵はなんとなく感じ取った。

「食事は食堂か、この部屋で好きに食べてもらって大丈夫です。食堂、というよりほかの施設も説明しないといけませんが、先に事務仕事だけ終わらせてしまいましょうか」

 稲葉はそう言うと、リビングの椅子を引いて、葵に座るように勧めた。葵が椅子に座ると、稲葉は机の上に自分のタブレットを置いた。

「改めて、こちらが契約書類になります。説明はこれまでした通りです。君はここで暮らして、自由にやりたいことをしてください。この四角の部分に右手の人差し指を置けば、君の新しい生活が始まります」

 稲葉がタブレットの画面の光っている部分を指さす。葵は躊躇いなく、そこに人差し指を置いた。数秒後、電子音が鳴り、画面が明るく切り替わる。稲葉はしゃがんで葵に目線を合わせると、口を開いた。

「改めて、今日からよろしくお願いします。ようこそ、芸術家育成プログラムへ」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 ここに来てから緊張している様子だった葵が返事をしたことに、稲葉は嬉しくなって微笑みを返した。

 

2-2

 稲葉は立ち上がってタブレットを回収する。

「部屋は今日から自由に使ってください。それでは他の施設も案内しましょう」

 稲葉に連れられて、葵は建物の主要な施設を回り、利用方法について説明を受けた。食堂や購買、カフェや交流スペースなど様々な設備が整っていた。

 葵はまるで、この建物の中が小さな街のようだと思った。街と違う部分は、そのどの場所でも利用しているのは大半が子供たちで、そして普通はいるはずの従業員にあたる大人がいないという事だった。食堂も、購買も、全て自動化がされている。

 その中で、子供たちは一人で黙々と食事をとっている子もいれば、交流スペースでお互いに何かを教えあっている様子が見える。建物をいくつか渡り歩いたが、どの場所も温かい空気に満ちている。どこからか音楽が聞こえてきたり、絵を描いていたり、何かを作っていたり、そんな子供たちもいる。自由に伸び伸びと動いている沢山の子供たちを、スーツの大人たちが見守っている。

 稲葉にとっては当たり前の仕事場の風景が、葵にとってはとても物珍しく感じた。

 しかし、稲葉が最後に紹介すると言って入った建物だけはこれまでの施設とは雰囲気が違っていた。葵はその違和感が何かよく理解できなかったが、さきほどまでの場所よりもずっと静かだと感じた。

「ここは制作棟になります。居室と同じで、一人一部屋が与えられています。葵さんは五階ですね」

 並んでエレベーターに乗り、五階まで上がる。確かに居室のフロアと同じような形をしていて、扉がたくさん並んでいた。

「皆さんがそれぞれの創作活動に集中できるように、自由に使っていい部屋と考えてください。もちろんここ以外、例えば自室や、これまで見てきたロビーで制作活動をしても大丈夫です。ただそういった場所では集中できないという子もいるので、こういう部屋が用意されています」

 稲葉が居室の時と同じように扉横の機械を操作すると、扉が開いた。

「この場所も一応プライバシーの保護はされていますが、業務のために葵さんの担当である私は入らせていただくことがあります。そのあたりは理解していただけると」

 そこは何もない部屋だった。白い壁に白い床。規則的に並んだ窓。目につくものといえば、手洗い場くらいだった。

「一応お手洗いと水道は完備してあります。ただ湿気を嫌うものを扱う場合もありますので、きっちりと扉で区画が分かれています」

 稲葉と葵は中に入る。本当に何もない場所に、二人の人間がぽつんと立っているだけだった。

「この場所は好きに使ってください。どれだけ散らかしても汚しても大丈夫です。防音にもなっていますので、音楽を流してもいいですね」

「こんなに、いいの?」

 稲葉の顔を見上げ、そう言った葵の表情はどこか心配そうだった。

 葵にとって、こんな感情は初めてだった。稲葉と出会って自分でこのプログラムに参加すると決めた時は、嬉しく思った。施設を回り始めた時は、ここで新しい生活が始まるのだと心が楽しさを感じ始めていた。

 だが、葵はよく知らなかったのだ。言葉や資料では説明を受けていても、どこか実感がなかった。この施設を回って、この中で生活している子供たちを見て、自分もあの子たちと同じようにここで生活をするのだと段々と気付き始めた。それに伴って、葵にとって説明のできない感情が膨れ上がっていった。それは新しい生活への不安ではない。

「本当に、こんなにしてもらっていいの?」

 与えられたものへの戸惑いだ。葵自身はまだ原因を理解できない感情を、稲葉はその表情や声色から理解できた。どうすれば葵自身にそれを理解してもらえるか。そしてその戸惑いを払拭することができるのか、稲葉はほんの少し考え込んだ。

 考えるために黙ってしまった稲葉を、葵はさらに不安そうに見上げる。だがすぐに、稲葉は表情を明るくした。

「今日この後、一緒にお出かけしませんか?」

「お出かけ、ですか?」

 稲葉の提案に、葵は不思議そうな顔をした。稲葉にとっては何度も行ってきた対象者向けの導入オリエンテーションだが、そんな項目はない。普段であれば子供に施設の案内はここで終了し、その後は今後の予定などを話す時間を設けている。だが稲葉にとって葵は、これまで見てきたどんな子供とも違うものを持っていると感じる子供だった。そして葵のサポートのためならば、できる限りのことはなんだってしたいと思うようになっていた。

 決してこれまで担当していた子や、今も請け負っている子供の対応に手を抜いているというわけではない。どんな仕事も一生懸命やるのが稲葉の流儀である。稲葉にとっては、葵に対しての最大限のサポートになるのがこの方法だと感じているだけだった。

「街の中を歩きながら、ちょっとお話しましょう」

 稲葉がちょうどそういった時、チャイムが鳴った。この施設では健康管理のため、夜中以外の六時間おきに三回チャイムが鳴るようになっている。先ほどのは正午を知らせるチャイムだった。


2-3

 案内を兼ねて稲葉と葵は食堂で昼食をとった。稲葉はいつもの和定食を、葵は悩んだ結果オムライスを頼んだ。稲葉にとってはもう何年も食べている慣れ親しんだ味だが、葵はその味に大層感動していた。

 一息ついた後、稲葉と葵は施設の敷地を出て、街の歩道を並んで歩き始めた。

 葵は街並みを見上げる。どこもかしこも高層ビルが建っていて、その間を移動車が走っている。昔は人が運転していたと聞いたことがある、と話半分に聞いていた歴史の授業を葵は思い出した。

「葵さんは、義務教育で習った内容をどのあたりまで覚えていますか?」

 まるで葵がちょうど考えていた内容を当てるように、稲葉は話を切り出した。とても真面目な生徒だとは言えなかった自分の学校での生活を思い出して、葵はうつむいた。

「じゃあ、復習がてら少しお話をしましょう。といっても、私は先生ではないので話は上手ではないんですけどね」

 葵を元気付けるように、稲葉は明るい声で話し始めた。

「まず義務教育が何歳までかは覚えていますか?」

「十歳です」

「さすがに簡単すぎましたか。丁度葵さんは今年義務教育課程を卒業する予定でしたね」

 昔は異なっていたらしいが、今現在日本では出生後から十歳までに基本的な教科の義務教育を一貫して受ける決まりになっている。文字の読み書きから社会の基本ルールなど、生活に必要不可欠な知識を学ぶ期間だ。この期間、子供たちが通う施設を学校と呼び、共通の授業を受ける。それぞれの子供に合わせた勉学のサポートなどはあるが、学ぶ内容は統一されている。

「では義務教育課程を卒業した後に通う過程は知っていますか?」

「就業プログラム、ですよね」

「正解です」

 義務教育課程を卒業した子供は、その後就業プログラムに移行する。これも義務教育と同様、全ての国民が受ける決まりだ。最初は義務教育課程時の学力や判断力を元に応用学力を育てる期間が入る。その後、様々な工程を通して、子供たちはそれぞれ自分が就きたい職業を探して目指すことになる。十年かけて、子供たちは様々な職業を体験したり、それに必要な勉学に励んだりする。子供一人ずつにサポートが入り、学ぶ内容や生活も異なってくる。その過程の中で、自分の能力を見つめなおし、その能力の範囲で最も自分が就きたいと思った職業に就業する。

 二十歳の時に就業プログラムを卒業すると同時に、それぞれの仕事に就き、働きはじめる。就業プログラムを卒業するまでは「子供」と呼ばれ、それ以降は皆「大人」になる。

「では少し応用を。かつて日本ではこのような二つの過程を通過する形ではなく、個人で異なる学習を行い、社会に出るという形式でした。現在のような二過程式になった理由は知っていますか?」

 稲葉の質問に、葵はすこし考え込む。確か歴史の授業で習ったはずだった。なんとなくぼんやりとした答えを、記憶の中から引っ張り出す。

「えっと、人口がすっごく少なくなったから……?」

「よく覚えていましたね、正解です」

 稲葉は笑顔で拍手をする。これは学校でもテストに出ていたような気がする、と葵はなんとなく思い出した。

「では少しこの辺りの歴史の説明をしましょう。日本は長年人口減少に悩まされてきました。大きなきっかけがあったわけではありませんが、約八十年前、日本は大々的な国内のシステム変更を行いました。要は社会の仕組みをがらりと変えてしまったんですね。その大きな目的は、労働力の確保と国内の居住地区の縮小でした」

 稲葉は身振り手振りで伝えるが、果たしてこの説明が葵にしっかりと伝わっているのかは自信がなかった。ただ、葵が稲葉の顔を見上げて頷きながら聞いていることに安心して、話を続けた。

「居住地区の縮小には大きな反対がありましたが、度重なる自然災害の影響もあり、人々は大都市に集まって暮らすという手段をとることにしました。日本は大きな十個の都市とその周辺郊外のみに人が住む場所を再整備し、そこに固まって生活するようになりました」

 かつての人口から考えればこんなことは不可能だっただろうが、今やこの数の都市のみで十分に人が収まっている。日本は特殊な地形をしているため十都市に分かれているが、同様の政策を取った他の国では一つの都市でのみ生活しているところもある。それほどに人口減少は世界規模の問題だった。

 稲葉はさらに話を続ける。

「もう一つの問題、労働力の確保には技術の進歩がかなりの手助けになりました。街を整備したついでに、全ての公共交通機関は自動化、つまり人は徒歩以外の移動を自分で行うことは無くなりました。昔はあの移動車も人が運転していたらしいですが、私たちからすると考えられませんよね」

 稲葉が道を走る移動車を指さしながらそう言う。その言葉に葵も頷いた。あんな大きな機械を自分で操作するなど、葵には全く魅力的には思えなかった。

「自動化できるものは機械が行い、国のシステム運営も機械に任せる部分がほとんどになりました。いわゆる国家公務員がとても少ないのはこれが理由です。事務手続きや街の管理などは人間が行うよりもずっと早くて正確ですから。さて、日本は国を作り替えるにあたって、もう一つ長年続いていた問題を解決しようとしました。二つありますが、これは何かわかりますか?」

 稲葉は再び質問形式にして葵に聞いてみる。だが今度は葵に思い当たる節が全くなかったのか、すぐに首を横に振った。

「貧富の格差と、それによる幸福度の低下です。かつては職業によって賃金が異なっており、それによって貧富の差が大きくなりました。また、幸福度の低下は原因追及が難しいため、長年手を付けられていなかった問題でもありました。この問題を解決するために、政府は全ての人を『国家雇用』とすることにしたんです」

 その言葉はなんとなく聞き覚えがある、と葵は頷いた。葵の両親や祖父もそれぞれ仕事をしているが、お給料は国からもらっているのだと社会の授業で習った覚えがあった。

「かつては嫌悪されていた社会システムでしたが、人口の減少に伴いこういった形を取らざるを得なくなりました。また、賃金を完全一律ではなく、労働や社会貢献に応じて基本賃金から増加するシステムを組み込みました。これにより、日本全体で『社会を支える一因という自覚をもって、より皆で幸せな生活を送る』という意識が共有されるようになったんですね」

 つまり、葵の両親や祖父も、生活に十分なお金は貰っていたという事だ。その事を考えると、葵の頭の中にある疑問が浮かんだ。

「じゃあ、なんでお父さんとお母さんは私に絵を売るように言ったんだろう」


2-4

 葵の口からその質問が出てきたとき、一瞬稲葉の思考が止まった。ここまで込み入った話をするべきではなかったか、と少し後悔もした。だが、いつかは葵自身がこの疑問を抱く日が来ると思っていた。それが少し早まっただけだと、稲葉は自分に言い聞かせながら口を開いた。

「実際の詳しい理由はわかりません。本人に聞くまでは……。でも、現在通報される違法行為の大半が金銭目的だという報告があります。それでも、八十年前では考えられないほどの犯罪件数の少なさです。ですから、葵さんのご家庭がああいった形であったのは、とても少ない確率の偶然と言ってもいいと私は考えています」

 稲葉の言葉を聞いて、葵はなるほど、と頷いた。稲葉にとっては、偶然の不幸としか考えられなかった。偶然、そういった考えに走ってしまう人の元に生まれ、それを叶える才能を葵が持っていた。ただそれだけの事なのだと。決して葵のせいではないと、稲葉は伝えたかったのだが、果たしてその思いが葵に伝わっているのかはよくわからなかった。

「では、少し話を移動させましょう。先ほど説明した就業プログラムでは成れない職業があります。それが、葵さんが今後目指すことになる、『芸術家』です」

 葵の過去を暗いと稲葉が断言していいものではないかもしれない。だが、今は過去よりも未来の話をした方がいいだろうと稲葉は話題を切り替えた。

「八十年前の大改革の際、労働力不足解消のために人間が就く職業の選別が必要不可欠という判断になりました。今では機械に置き換えられいる職業や、消滅してしまった職業もあります。その中で特殊な立ち位置になったのが芸術家です」

「昔は芸術家も沢山いたんですか?」

 葵の質問に稲葉は少し首を傾ける。頭の中で言葉を探しながら、葵の質問に対する正しい回答は何かを思い出していた。

「沢山いた、というのは少し違うかもしれません。昔は芸術家であると宣言するために資格も何も必要でなかったため、誰でもなることができたと言った方が正しいですね」

 なるほど、と葵は頷いた。稲葉も知識のみでしか知らない時代なので、当時の事を正しく伝えることは不可能だ。ただ、教科書に書いてある文献や当時の資料を参照して、なるべく正確な情報をかいつまんで説明を続ける。

「単純に社会を動かすための労働力として芸術家は不必要であるという論もありました。しかし、人間の伝統的な文化として培われてきた芸術を生産性のために消してしまうことは、人間性の損失につながるという考えが強かったんです。さらに、人間の幸福度向上に芸術が必要不可欠であるという研究結果なども後押しになりました」

「それで、芸術家は生き残れることになったんですね」

「そうです。そこで、芸術家にも他の職業と同じように資格が必要だということになりました。そこで作られたのが芸術家育成プログラムです」

 稲葉は一呼吸置くと、あたりを見回した。気づけば長い間話し込んでいたようで、かなり街の端の方まで来てしまっている。施設への帰り道を頭の中で考えながら、交差点を曲がった。

「芸術家用のプログラムはどうして別なんですか?」

「いい質問ですね」

 葵から質問されると、稲葉は嬉しそうに返答した。

「芸術家以外、つまり通常の就業プログラムでは機械によってその人がある職業に対する適正があるか、どの程度の結果を出せるかを数値化して判断できます。しかし、芸術家の場合はこの部分が異なります。能力値の判断はその活動によって人間がどう感じるか、が基準となるので、機械による自動化はできなかったんです。長年試行錯誤されたそうなのですが、結局のところ人員を割いた方が効率として良いという結果になりました」

 過去の社会や大人たちは最も効率的で最も幸福な社会を作ろうと必死に考えたのだろう。教科書には簡単な過程と結果しか書かれていない時代にも、確かに自分と同じような人間がいて、今の社会を作り上げるという大仕事を成し遂げたのだろう。しかし、稲葉にはその実感がなかった。何度教科書や資料を読み込んでも、当時の映像を見ても、それが今と地続きの過去だとは思えなかった。

「芸術家育成プログラムの特異性は数点あります」

 稲葉は指を立てながらプログラムの注意点を説明する。才能が認められた子供は義務教育機関であってもプログラムへの参加が認められるため、十歳未満の子供もいること。反対にプログラムの期限は十八歳までで、それまでに卒業できなければ特別就業プログラムへ編入し、通常の職業に就く必要があること。それ以外にも、個人の自由意思で芸術家育成プログラムから就業プログラムへの移行が可能であること。

 基本的に覚えておかなければいけない注意はこの程度だった。授業の真似事をしながら話をしていたら、思っていたより時間がかかってしまったなと稲葉は反省した。

「まぁ、しないといけない話はこのくらいですね」

 稲葉が長話をしているうちに、街をぐるりと回って再び施設の前まで戻ってきていた。稲葉と葵は施設のおさらいをしながら、作業棟へ向かう。作業棟に割り当てられた葵の部屋へ戻ると、稲葉は葵に自分のタブレットを出すように言った。

「おそらくプログラム申請が通っているので、色々な機能が追加されていると思います」

 稲葉はしゃがみこんで、葵の持つタブレットの画面を指さしながら、基本操作の説明を行う。これからは、葵自身がやりたいことを選択していく必要がある。もちろん稲葉はプログラムのサポートを行う立場だが、あくまで葵の自主性が重視される。葵が一人でも自分で選択ができるように、そのサポートを行うのが稲葉の最初の仕事だ。

「このように、欲しいものや受けたいサポートなど、全てここから申請できます。もしわからなければ、私か、この施設にいる大人に聞けば誰でも答えてくれますよ」

「ありがとうございます」

 葵はぺこりと頭を下げる。その姿に、稲葉はにこりとほほ笑んだ。

「その気持ちを、忘れないでください」

 稲葉の言葉に葵は首をかしげる。稲葉は立ち上がって、カーテンが開かれたままの窓際へ歩いて行った。葵もついて行くと、そこからは施設内に作られた中庭の緑と、中心街の高層ビルが綺麗に見えた。

「この街も今の社会も、昔の人たちが工夫して作った社会です。その人たちの努力のおかげで、今の私たちの幸せな生活があります。そしてその幸せを保っているのは、この街の中で働いている大人たちです」

 隣に立った葵に目線を合わせるように、稲葉はしゃがみこむ。稲葉は一瞬言葉を探しながら、ゆっくり口を開いた。

「子供は様々なものを与えられます。勉学の機会や自由な時間、どんなに高価なものだって。必要なものは何でも与えられる環境が揃っています。それは、その子供たちもまた、大人になって社会を支える人間になるからです。この社会で、子供に与えられるものは全て未来の社会と、子供の未来のための投資なんです」

 稲葉は自分の鞄から、一つのファイルを取り出す。それを稲葉が差し出すと、葵は受け取ってファイルを開いた。その中には、葵があの倉庫に置いていっていた絵が全て入っていた。さらにその絵は、稲葉によってしっかりと種類分けされファイリングされていた。

「この部屋を、君の好きなものや欲しいと思ったものでいっぱいにしてください。この部屋で作りたいものを作って、好きなだけ汚してください」

 沢山の大人たちはこの絵に価値を見出した。しかし、葵にとってその絵の価値はよくわからなかった。稲葉もこの絵に価値を見出した大人の一人だ。だが稲葉はこの絵の価値をお金に換算しない。稲葉はその絵自体ではなく、その絵を描いた葵に価値を見出したのだから。

「与えられることを怖がらないでください。貪欲になってください。君が欲しいと思ったものが、全て君を構成するものになり、やがて作り出すものになるんですから」

 稲葉はそう言って立ち上がる。葵の表情に、もう最初にこの部屋に来た時の様な不安の色は見られなかった。それどころか、稲葉を見上げる葵の瞳にはきらきらしたものが感じられた。

「では今日はこの辺りにしましょう。疲れたでしょうし、お部屋でゆっくりしてください。明日からまた、少しづついろんなことをやっていきましょうね」

「はい」

 葵から飛び出た元気な返事に、稲葉はふっと自然に笑顔になった。

 稲葉と葵は作業部屋を後にする。ふと、葵は閉まりかける扉の隙間から作業部屋の中を振り返った。まだ何もない白い部屋の中に、窓から光がきらきらと差し込んでいた。白の輪郭を光が描く様子を目に焼き付けるように、葵は扉が閉まりきるまで部屋を見ていた。


2-5

 次の日から本格的に、葵の芸術家育成施設での生活が始まった。自室だけでなく施設内はどこも便利で過ごしやすく、葵にとって快適な毎日だった。最初は部屋にいる時間が多かったが、段々と施設の色々なところを回ったり、稲葉以外の職員やほかの子供たちとも交流をするようになった。やりたいことや欲しいものも少しずつ自分で言い出すことができるようになっていった。初めは絵を描くための道具もあまり知らなかったので、稲葉がそのあたりはサポートをしつつ、最初に必要なものを一通りそろえた。また義務教育内容をもう一度やり直したいとの葵からの希望もあり、専門教師を付けてもらうことになった。

 一週間もすると、葵はすっかり施設になじんだ生活をするようになった。朝食は自室でゆっくり取り、午前中に義務教育のおさらいをする。昼食は天気がいい日は外で食べ、そのまましばらくそこでスケッチをする。おやつの時間になるとお菓子を持ち込んで、作業部屋で新しい画材を手探りで試して絵を描く。本を読んで画法を勉強することもあれば、稲葉に教えてもらうこともある。夜になれば食堂で夕食を取り、仲良くなった子供たちとお話しする。部屋に戻って、寝る前に少しインターネットで何か面白いものがないか探してみたりもする。自分の感覚を刺激してくれるものが見つかると、それに関する資料を取り寄せ希望しておく。そうして、一日あった事や明日何をするかを考えながら、眠りにつく。

 葵にとってこの施設での生活は、あまりにも楽しく、そして目新しいことばかりだった。初めは葵が世間知らずなのかと思ったが、稲葉に聞くと施設に始めてきた子供は外の社会との差に皆驚くのだと教えてくれた。この場所には葵が勉強していて怒る人はいない。知らないことを聞いた時にあきれる人もいない。子供たちは皆個性豊かだが、それぞれの距離を保って生活している。人懐っこい人もいれば、いつも一人でいる人やほとんど部屋から出てこない人もいる。葵はどちらかというと自分から話しかけるタイプではなかったので、積極的に関わってくる子と話をする程度だった。

 今のところ、葵が自分から積極的に話しかけることができるのは稲葉だけだった。稲葉は葵以外にも数人の子供の担当をしているため、葵にかかりっきりになることはできなかった。しかし、時間を見つけては葵の作業部屋に顔を出したり、会えない日が数日続くと近況を聞くメッセージが稲葉から届いたりした。最近は稲葉も忙しいのか、メッセージでのやり取りがほとんどだ。

 だが、葵は積極的に稲葉へ近況報告をするようにしていた。今日学んだこと、仲良くなった子供の話、今日描いた絵の進捗。寝る前にそういった内容を稲葉に送ると、翌朝には必ず返信が返ってきている。葵にとっての楽しみが、一つずつ日常に増えていった。


 葵が新しい生活に慣れ始め、施設で問題なく過ごせるようになった頃。世間では梅雨の時期になっていた。稲葉は元々じめじめとした空気が好きではないのだが、それ以外の要因で頭を抱えていた。丁度抱えていた仕事が面倒な局面を迎えていたのだ。自宅で仕事に向かう準備をしながら、ため息をつく。ふとテーブルの上に置いたタブレットを開き、メッセージアプリを起動させる。

 葵から毎夜送られてくる「今日あった事報告書」のメッセージを見ながら、稲葉は微笑んだ。葵は施設での生活や様々な体験を通して、少しずつではあるが確実にいい方向に変化してきている。そのことを思うと、この今の面倒な仕事をやる意味も見出せるものだと稲葉は思い込むことにした。

 スーツを着て政府当局の本部へと向かう。指定された会議室に入ると、既にそこには椅子に座っている私服の二人の男女とその後ろに立っている警備員の姿があった。

「お待たせいたしました。担当の稲葉と申します」

 稲葉は男女の向かいに座ると、鞄からタブレットを取り出し、名刺を見せる。

「では、調査へのご協力をよろしくお願いいたします。西山様」

 稲葉がそう言うと、目の前の男は苦虫をかみつぶしたような顔をした。男はどちらかというと線が細く、四角い眼鏡をしている。女の方は栗色の長髪を下したまま、うつむいていて机を見つめていた。稲葉が男女の姿を見ていると、男の方が口を開いた。

「手続きなら先月したはずでしょう。調査というのは何ですか?我々は罪に問われないんじゃあなかったんですか?」

 あからさまにいらだった様子を見せる男の声は、一ヶ月前にあの画材屋で聞いたものと同じだった。彼らが、西山葵の両親であり書面上の保護者だ。稲葉はそんな男の様子を全く気にすることなく淡々と言葉を返す。

「当局とあなた方の間に交わされた様々な契約については全て作業が終了しています。また、あの違法行為について正式に起訴や賠償命令を行うことはありません。しかし、今後の事件防止のために聞き取りの実施を行っています。本日一日で終わりますので、どうかご協力のほどよろしくお願いいたします」

 稲葉の言葉に父親は、ぐ、と言葉を詰まらせる。抵抗することを諦めたのか、背もたれに深く体を預けると、好きにしろ、というように視線をよこした。母親の方は相変わらずうつむいて机を見つめている。稲葉はそんな正反対な二人を見ながら、言葉を続けた。

「基本的な調査については終了しています。本日は主に葵さんのこれまでの事などを中心に質問させていただきますね」

 この二人がどのような手段を使って違法に金銭を受け取っていたのかなどは、既に別の部門が調査を終わらせている。稲葉が行わなければならない仕事は捜査というより聞き取りのようなものだった。

「葵さんがあのような絵を描き始められたのはいつ頃ですか?」

「……小さいときはほかの子もするような子供のお絵かき程度だったんです。でもその絵を見て祖父が、あの子は才能があると……。五歳くらいの時でした」

 口を開いたのは母親の方だった。その声は静かで低かった。しかし視線はうつむいたままで、あたりをうろうろとしている。稲葉はメモを取りながら質問した。

「絵の指導はお祖父さんがなされたんですね?」

「最初は、葵も楽しんでたんです。でも、段々葵の絵がうまくなっていくうちに、旦那がお金になるんじゃないかって……」

「俺だけが悪いみたいな言い方をするな!お前も一緒にやってたことだろう!」

 母親の言葉に、父親が体を起こして声を荒げる。しかし母親が言ったことは事実だったのか、父親もそれ以上の反論をすることはなかった。

「葵さんの絵を、宗教画に限定したのもそのためですね?」

「なんだ、そこまで調べ切ってるのかよ」

 父親は呆れたように再び体を背もたれに預けた。母親は静かに頷いた。稲葉は調査資料を見ながら、余計なことを言わないように気を付ける。母親の方はまだ物静かで良いが、父親の方は何かにつけて反論しようとしたり突っかかってくる傾向がある。面倒な仕事を早く終わらせるために努力が必要だなと稲葉は心のなかでため息をついた。

「顧客だった方々にも箝口令を敷いていますから」

 西山葵があの場所で売っていたのはどれも宗教画だった。それぞれの顧客が信仰している宗教や、大昔の資料、また顧客の言葉を元に葵は様々な宗教の神様や聖典のワンシーンを描いていた。決して宗教や信仰が禁止されているわけではない。どちらかというと日本の都市はどこも様々な宗教を信仰している人が住んでおり、個人の信仰に関しては全くの制限がない。しかしその反面、宗教画が新しく生産されることはほとんどない。大昔に描かれた宗教画をデータ上で見ることはできるが、実際に手にすることは難しい。それを叶えたのが、西山葵とその両親だった。

 それぞれの宗教において描かれている神様や聖人、物語の特徴などをしっかりと再現しつつも、まったく新しく描かれた宗教画。それは多くの人たちを魅了した。箝口令を敷かれた大人たちが皆、口をそろえてあの絵が見られなくなることを惜しんでいたという報告を受けるくらいには。

 稲葉はもう何点か質問した。葵のこれまでの様子であったり、お祖父さんとの関係など、これまでの調査では調べ切っていない部分を質問していく。質問に対しては、大体母親が答えていた。父親の方はもう面倒になったのか、ズボンのポケットに手を突っ込んで部屋の壁を見たり手をいじったりしていた。予定していた聞き取りをすべて終えて、稲葉はタブレットを仕舞った。

「それでは当局からの聞き取りは以上になります。あとの処理については、ほかの担当のものが伺いますのでこの部屋でお待ちください」

 稲葉が立ち上がって部屋を出ようとすると、突然後ろから腕を掴まれた。驚いて振り向くと、崩れるように椅子から立ち上がっている母親が、稲葉の腕を掴んでいた。

「あの、あの子は……葵は今、どんな暮らしをしているんですか?」

 母親と目線が合ったのは初めてだった。その瞳は揺れ動きながらも、すがるように稲葉の方を向いていた。稲葉は振り返りながら、腕を掴んでいる母親の手をゆっくりと解いて放した。

「安全と自由がきっちりと保証されている環境で生活しています。施設や設備、サポートなどについては調べれば出てきますよ」

「そうではなくて……あの子がどんな状況なのか知りたいんです。担当をしているのはあなただと聞きました。あの子の様子を聞かせてくれませんか」

 そう言いながら、母親はじっと稲葉の方を見つめた。その母親の表情に稲葉は嫌な思い当たりを感じながら、ため息をわざとらしくつく。

「勉強したり絵を描いたりしていますよ。毎日が楽しそうです」

 稲葉がそう伝えると、母親はぱっと顔を明るくさせた。先ほどまで机を見つめたりうつむいていた表情はどこかへ吹き飛んだように、その表情に陰りは無くなっていた。

「そうですか!あぁ……それはよかった。これからも葵の事を、卒業まで何卒よろしくお願いします」

 母親はそう言って、席へ戻る。その顔はもう下を向いておらず、ただ誰も座っていない向こう側をまっすぐ見つめている。傍から見れば、真摯でまっすぐな女性の姿を横目に、稲葉は会議室を後にした。


2-6(報告書~他の人からの葵の絵への反応)

 本部を出て、育成プログラムの施設へと向かう。自分のデスクへ座り、これまでの調査分もまとめて報告書を書きあげる作業をしなければならなかった。しかし、報告書を書くためにこれまでの関係者の発言を見ていると、稲葉は段々不機嫌になっていった。気分転換でもしようと、途中で作業を中断して立ち上がった。散歩も兼ねて、稲葉は施設内の担当の見回りへと向かうことにした。

 

 稲葉が今担当している子供は葵を含めて三人居る。

 一人は参加して三年目になる男の子で笹垣風馬。歌を歌うのがとても上手く十二歳の時にスカウトされて編入してきた。編入当初から稲葉が担当していて、付き合いもそこそこ長くなっている。歌唱だけであれば既に卒業できる十分な能力を持っているのだが、本人の希望で作曲の勉強も行っている。ギターでの弾き語りが本人の性に合っているらしく、今は必死に曲を試作を繰り返している。

 施設内を探したところ、笹垣は軒下のベンチに座って、ギターを弾きながらなにやら鼻歌を歌っていた。

「あっ、稲葉さん!こんにちは!」

 笹垣は正面から歩いてくる稲葉に気づくと、表情を明るくして礼をした。明るくて元気な好青年である。施設内に友達も多く、幼い子への面倒見もいい。稲葉ともフランクに話してくれるタイプの子だった。

「久しぶり、最近はどう?」

「昨日いいな~って思ったフレーズが思い浮かんだんですけど、メモするのを忘れちゃって。それを今必死に思い出しているところです!」

「それは聞いてみたいなぁ。思い出して作れたらまたデータで送ってよ」

「もちろんです!」

 稲葉はひらりと手を振ってその場を後にした。こうやって子供たちの様子を見ながら、時に相談に乗ったり、方向性の提案をするのが稲葉の仕事だ。つきっきりで指導することはないが、それぞれの子供たちの能力や向いていること、作品の評価などをする必要がある。

 稲葉は笹垣の様子についてタブレットにメモを加える。やる気、ギターの技術向上共に経過良好で問題はない。ただ、作曲の能力はあまり伸びしろが見えないため、稲葉の中では歌唱のみでの活動も視野に入れている状態になっていた。先ほどの様子でも、作曲の能力がどこで頭打ちになるか、本人がそれをどのように自覚するかが問題だ。笹垣が残り三年間で作曲家として爆発的な成長をするか、それともあきらめて歌手としてのみ活動するかは、結局のところいつか本人が決めなくてはならない。次の進路調査会でそれとなく話してみること、と稲葉は自分のタブレットにメモを加えた。

 稲葉の担当のうちもう一人は、参加して六年目の女の子で古川麻里。この子は二年前に他の担当者から稲葉が引き継いだ子で、陶芸を中心に活動している。独特な色や形のオブジェなど作る子で、その感性は現在立体物の制作をしている子供の中でもずば抜けていると言われている。元々は脱落もあり得ると言われていたが、色彩に関する勉強をしているうちに制作物が独創性を増していき、今ではとても評価を受けている子である。

 古川は制作室に籠っていることが多い。前に理由を聞くと、自分が作ったものをなるべく外に出したくないらしい。稲葉が古川の制作室を訪れると、いつも通り物で埋め尽くされた部屋の中で古川は陶器を持って光にかざしていた。

「こんにちは、古川さん」

「あ、稲葉さん。お久しぶりです」

 古川の近くへ寄ると、その手に持っている陶器が見たことのないものであることに稲葉は気が付いた。

「それはこの前作っていた物ですか?本焼きが終わったんですね」

「はい。口の部分は綺麗に作れたんですが、思ったような色が出なくて」

 古川は緑色の細い一輪挿しのようなものをくるくると回しながら唸っている。本焼きとは陶芸で最後に焼く工程だ。その前に色を薬剤で付けて焼くのだが、どうもそれが想定していたようにならなかったらしい。

「釉薬を変えるか、土の配合を変えてみますか?もし何か必要なら取り寄せますが」

「いえ、一旦あるもので再現できないか全て試してみたいと思います。それでも詰まったらまた相談させてもらっていいですか」

「もちろん」

 稲葉が快諾すると、古川はぺこりと頭を下げた。置いてあるものを倒さないように、稲葉は慎重に制作室を出る。古川は物静かで丁寧な子だ。だが、稲葉の質問にはっきりと思ったことを答えてくれるし、何かあったときに自分から報告したり相談することができる子でもあった。その率直さもあり、色彩を勉強してみてはと勧めた時も、すぐに自分のものにし始めた。立体物の造形に関しては長年の努力によって既に能力が形成されていた。そこに色という新しい表現を加えることを知った古川の作品は、さらに評価をされるようになった。稲葉は古川の才能がさらに成長すると考えている。この辺りで一度振り返ってみるのもいいかもしれないと稲葉は考え、これまでの古川の作品をリストアップすることを作業リストに書き加えた。

 見回りをしているうちに、稲葉の中にあった不快感は消えていった。最後の担当、西山葵を探して稲葉は施設の中を歩き回った。葵の制作室を訪問したが誰もいなかったのだ。エントランスロビーを歩いていると、向かいから葵が歩いてくるのが見えた。葵は稲葉に気づくと、小走りで駆け寄ってきた。

「稲葉さん、お久しぶりです」

「お久しぶりです。ここでの生活はもう慣れましたか?」

「はい。毎日すごく楽しいです」

 葵は笑顔で答える。葵がプログラムに参加して既に一ヶ月程経っていた。すっかり施設にも慣れたようで、通りすがった他の子供と手を振りあったりしている。稲葉は葵に、少し話をしよう、とすぐそこのベンチへ誘導した。

「最近楽しかったこと……といっても葵さんは毎日メッセージをくださっていますからね。進捗は聞かなくても大丈夫かもしれません」

 稲葉が冗談交じりにそう言うと、葵は慌てて口を開いた。

「あっ、もしかして迷惑でしたか……?」

「迷惑だなんてとんでもない。私もすごく楽しく読ませていただいているので。でも、葵さんが勉強の中でも数学が得意なのは意外でした」

 メッセージや教務担当からの連絡にも書かれていたのだが、葵が義務教育内容の学びなおしの中で興味を深く持ったのが意外にも数学だった。葵は嬉しそうにタブレットを取り出して開く。

「そうなんです。学校で聞いていた時は全くわからなかったんですけど、数学ってこんなに面白いんですね」

 そう言いながら、葵は授業で使った問題集のどれもに丸がついているのを嬉しそうに稲葉に見せる。稲葉はその指導内容が義務教育の幅を超えていることに気が付いたが、葵には言わなかった。葵が楽しそうに学んでいるのであればそれで良かったし、指導担当の判断であれば間違いないと思ったからだ。

「他になにか、楽しいことや新しいことはありましたか?」

「大体のことはメッセージに書いてしまっていたので……あっでも、最近いろんな人が絵を褒めてくれるんです。大人も、子供も。それがすごく嬉しいんですけど、自分の中ではもっと頑張らないとって思うんです」

 葵はそう言いながら、タブレットをぎゅっと握りしめた。稲葉にとって、葵が制作に対する自主性をかなり持っているということは出会った時から思っていた事だった。それに加えて上昇志向もあるとなると、葵はやはり芸術家に向いているのだろうと思った。

「だから、新しい理論本を注文してしまいました。他にも色鉛筆のセットも買ったりして、最近制作室に物が沢山になってきて……」

 そう言いながらタブレットの画面を稲葉に見せる。それは葵の制作室の写真だった。確かにしばらく稲葉が見ないうちに物が増えている。先ほどの古川の制作室の物の多さに比べるとかわいいものだが、それでも葵の最初の性格から考えるとこれだけ色々なものが増えていることが稲葉には嬉しかった。床には相変わらず絵の描かれた紙が散らばっている。だが、それはあの倉庫の時のような無造作な置かれ方でなく、何かに従って分類されているようにも見えた。他にも稲葉が最初に注文したキャンバスやイーゼルなども置かれているが、そちらはまだ使われている様子はない。とりあえず購入しておいたものなので、まだ葵の気が向かないのだろうと稲葉は思った。

「何か箱や本棚など整理するものは要りますか?」

「そうですね、それもお願いします」

 稲葉は頷いて、自分のタブレットから注文リストに本棚とボックスを追加する。葵は新しく購入した理論本を読むのが楽しみなのか、タブレットでしきりにその書籍をめくっていた。

 その横顔を見て、稲葉は口をつぐんだ。本当は葵に話そうか迷っていたことがあったのだが、稲葉の中で今確かに決心がついた。

 施設に鳴り響くチャイムの音に、葵は顔を上げた。それは18時を知らせるチャイムだった。

「西山さん!夕ご飯一緒に食べない?」

 ロビーの端から、女の子が駆け寄ってきて声をかけた。葵は一瞬稲葉の方を見上げたが、稲葉が頷くとすぐにベンチから立ち上がった。

「稲葉さん、また今度お話ししたいです。絵も見てほしいですし」

「もちろん。夕ご飯、お腹いっぱい食べておいで」

 稲葉が手を振ると、葵と女の子は食堂の方へと向かって行った。

 その後ろ姿を見ながら稲葉は立ち上がる。仕事部屋に戻ると、先ほど書きかけで放置していた報告書をもう一度開いて、最後の書き込みをした。


 葵から、両親や祖父の話題が出てきたら報告書の内容を包み隠さず話すつもりにしていた。葵が最初にした、「なぜ両親は葵に絵を売るように言ったのか」という事に対しても、既に本人たちから答えが出ていた。

 自動的にまとめ直された報告書を稲葉は見返す。

 葵の父親は「金のため」と答えた。どんな職業であっても生活に十分な賃金は与えられているはずだが、それ以外で自分がお金を手にしているという優越感から辞められなかったと語った。葵の母親は「絵のため」と答えた。違法販売を通して葵の絵の才能が伸びることが嬉しかったのだと語った。葵の祖父は答えなかった。ただ、実の子可愛さに葵の両親を止められなかったことを悔いていた。

 この報告書と、今日の両親への聞き取りを通じて、稲葉が最も危ういと思ったのは葵の母親だった。初めて画材屋でタブレット越しに会話した時も、今日話した時も、一見気弱で葵の事を気遣う優しい母親のように感じた。しかし、最後のやり取りでその予想は間違っていたと思い知らされた。

 あの母親は、葵の事を気遣っているのではない。ずっと、葵の絵の才能を気にしているのだ。葵の絵の才能が伸びることを望んでいながら、それが自分の手元から離れることは望んでいない。だから芸術家育成プログラムへの参加を良しとせず、未だに娘である葵を自分のものだと思っている。葵がちゃんと通っていたはずの義務教育に遅れを感じていたのも母親が理由だった。母親が、勉強する暇があれば絵の練習をした方がいいと葵に強いていたからだった。それだけの事をしておいて、葵の保護を「卒業まで」と当たり前のように言い放った時の母親の表情を思い出すと、稲葉は苦虫を噛み潰したような顔をした。

「どうしたんですか、稲葉さん。そんな顔して」

 隣のデスクの同僚が、珍しく声をかけてきた。そんなにひどい顔をしていたのだろうか、と顔をさすりながら口を開く。

「いや、担当している西山さんの報告書が何とも言えなくてね……」

「ああ、西山さん!担当が稲葉さんだったんですね。評判ですよ、あんなに絵がうまい新人はここ数年いなかったんじゃないかって」

「もうそんなに評判になってるんですか?」

 しばらくここに顔を出していない間にそんなことになっているとは知らなかった。

「仲良くなった職員には結構絵を見せてくれるんです。ちょっと独特なところもありますけどね。でも稲葉さんが担当するならきっと大成するんだろうなぁ」

 同僚はそう言いながら自分の仕事へと戻っていった。小さく、どうも、と返して稲葉は自分のタブレットに向き直す。

 葵は既に、この施設で新しい人生を歩み始めている。いつまでも娘とその才能にすがっている母親など見向きもせず、ただ葵自身の事と前だけを見据えている。

 葵に家族に会いたいと言われれば、すぐにでもその場を用意する準備はできていた。話をしたいと言われれば、すぐにでも電話をかけてあげようと思っていた。しかし葵は家族の事を何一つ話題に出さなかった。それは遠慮して言い出せないという雰囲気ではない。もう葵はそんな遠慮するような子供ではない。葵の関心が家族に向いていないだけなのだと稲葉は理解した。

 だから、家族の話はしないことに決めた。もちろん、いつか聞かれたならばいつでも答えるつもりではいる。しかし、そんな日はきっと来ないだろうと稲葉は思った。あの母親に、葵は母親よりも数学に興味があると伝えたらどんな表情をするだろうかと考えた。だが、どんなに考えてもあの母親が葵の事を理解するようなそぶりを見せることろが想像できなかった。

 こんなことをしていても無駄なだけだ。さっさと面倒な仕事は終わらせて、明日からは普通の仕事に戻ろう。そう心に決めて、稲葉は報告書の一番下にサインを書き、提出ボタンを押した。

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