第一章 誰が為の言葉

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 規定通りの報告書を書き終え、送信ボタンを押す。一仕事終わった安心感に、稲葉はほっと息をついた。しかし息をついたのもつかの間、画面にメッセージの到着を知らせる通知が現れる。

 先ほどの報告書の確認にしては早すぎる。そう疑問に思いながら閉じたばかりのメッセージソフトを立ち上げると、そこには新しい仕事に関するメッセージが来ていた。

 さっきのさっきで新しい仕事をよこしてくるとは、と嫌になるが仕事時間内なのでメッセージを見て見ぬふりするわけにもいかない。届いたメッセージを開くと、そこには予想通り「新規仕事依頼のお知らせ」と書かれていた。

 それも仕事内容は「新規担当者の割り当て」ではなく、「担当候補者の確認と選別」とある。これはまた、面倒な仕事をよこされてしまった。しばらくメッセージの内容を読み込んでいたが、どれだけ画面をにらんだところでこの仕事は無くならないし仕事内容が変わってくれるわけでもない。

「仕方ない、行くか」

 幸いメッセージに記されていた住所はここから遠くない。ならば今のうちに行動してしまった方が効率がいい。そう自分に言い聞かせて、稲葉は荷物をまとめて席を立つ。

 周りの席の人に会釈しながら部屋を出ると、気の抜けたような音が腹から鳴った。

「先にお昼かな……」

 座りっぱなしでしわになったスーツを直しながら、稲葉は呟いた。途中トイレに立ち寄って、一応鏡を見て身だしなみを整える。ゆるみかけているネクタイを締め、耳元で切りそろえられた黒い髪の跳ねている部分を手で直す。少しくるりとした前髪は、何度引っ張っても戻らなかった。

 仕事場であるビルを後にして、整備された街並みをタブレット片手に歩く。途中で通い慣れたチェーン店のカフェに入り、昼食を済ませることにした。サーモンとポテトのサンドイッチを平らげて、コーヒーをすすりながらタブレットを開いて先ほどの仕事のメッセージを読み直す。

 

 稲葉史人は二十六歳、男性の国家公務員である。この社会において国家公務員として働いている人間はそう多くなく、今や国のシステムの運営の大半は機械によって賄われている。そんな数少ない国家公務員の中でも珍しい業務に稲葉は就いている。それが芸術家育成プログラムのサポート員としての仕事だ。

 芸術家育成プログラムとは、あらゆる芸術において才能のある子供を集め、その才能を伸ばし育てるプログラムだ。プログラムに入った子供には手厚い補助が当てられ、その才能を伸ばすためのありとあらゆるサポートが受けられる。そのプログラムにおいて、子供の担当につき、成長の補助を行うのが稲葉のようなサポート員だ。稲葉はちょうど先日担当していた子供がプログラムから卒業したので、その報告書を書きあげ一仕事終えたところだった。

 仕事のメッセージを読んでいると、ふとカフェに流れる放送から聞き覚えのある音楽が流れていることに気が付いた。

「昨日デビューした新出気鋭の音楽家の曲を早速流させていただきました。いかがでしたか?」

「いや~、発表されてからもう何度も聞いているんですけどね、この新しいサウンド!これは絶対に流行りますよ!」

 そう紹介された音楽は、稲葉にとってもう何年も聞き続けてきた曲だった。自然と先日プログラムから卒業したばかりの少年の顔が浮かぶ。長年成長を見守ってきた才能や作品が、世に出て認められているところを見るほど嬉しいことはない。ふ、と自然に口元に笑みを浮かべる。稲葉にとって、この時間が最も仕事にやりがいを感じる時だった。

 決して表に見える仕事ではない。国民の大半がこのプログラムを知っていて、その卒業生の事を知っていても、そこで働いている人たちのことは知らない。しかし、国家公務員自体がそういう仕事であることは確かだった。いや、意外とどんな仕事であってもそうなのだろう。見えない人たちの働きでこの世界は回っている。

 そう考えると、仕事に文句など言ってられないと稲葉は思いなおした。新しい案件が面倒であることは変わりないが、稲葉がやらなくても誰か別の人がやるだけだ。ならば自分でやった方がいい、と稲葉はそう思った。仕事のシステムに案件受理と業務開始の入力をして、タブレットを閉じた。鞄にタブレットを入れ、机の上のものを片付ける。

「ごちそうさまでした」

 店員に礼を言って、店の扉を開く。少年が作り上げたポップなサウンドに背中を押されながら、稲葉はカフェを後にした。



1-2

 芸術家育成プログラムのサポート員としての仕事は、プログラムにやってきた子供を支えることだけではない。決して数は多くはないが、稀にこういった珍しい仕事が回ってくることもある。メッセージに記載されていた場所に向かうと、そこはビルの裏手の細い路地だった。

 その場所に、数人の大人が並んでいるのが見える。その大人たちは稲葉が来たことに一瞬こちらを振り返ったが、稲葉が何も言わないところを見るとまた前へ向き直った。大人たちの一番後ろに並ぶと、この列が大通りから見えないようになっていることに気が付く。なるほど、これでは政府の発見が遅れるのも無理はない。おそらくこの周辺の住人も黙認しているのだろう。名前も知らない情報提供者に稲葉は心の中で感謝した。

 しばらく並んでいると、一人、また一人と先頭に立っている大人たちが帰っていく。皆が紙を一枚、大事そうに抱えて、あるいはそれを懐にしまって足早に去っていく。その時にちらりと稲葉の方を向く人もいたが、稲葉は気に留めなかった。そのうち稲葉の前に立っている人が何かお礼を言いながら去っていく。開けた目の前には、椅子に座る少女と小さな机があった。

 肩口で雑に切りそろえられた黒い髪に黒い瞳、年齢は十歳前後といったところだろうか。この少女が、芸術家育成プログラムに参加するに値する実力を持っているという情報提供があった子供だった。この少女の実力を判断し、プログラム参加の意思の有無を確認するのが稲葉の仕事だった。

 稲葉はまず少女の周りを確認する。服装は学校の制服のようだった。机の上には何枚かの紙と鉛筆、消しゴム、小さなタブレットが置かれている。今ではあまり使っている人も見ないが、よほど使い込まれているのか鉛筆も消しゴムも随分小さかった。机の上をじっと見つめていると、少女が口を開いた。

「お兄さんは、何を描いて欲しいんですか?」

 机を鉛筆で叩いてコツコツと暇そうにしながら少女はそう質問する。やはりメッセージに描かれていた情報は当たりだったようだ。

「私は仕事ではなくて、君に聞きたいことがあって来ました。少しお話してもいいですか?」

 稲葉の言葉に少女は一瞬警戒したような表情を浮かべる。そのまま机の上のタブレットを手にすると、何かを打ち込み始めた。しばらくした後、少女はタブレットを置いて立ち上がった。

「今日はもうお客さんいないから大丈夫です。でも、ここはだめだって」

「じゃあ、どこでならお話してもいいかな?」

「こっちです」

 少女は机の上のものを引き出しにしまうと、机と椅子を道の脇に寄せた。タブレットだけを持ち、少女は建物の裏口のような扉へと向かう。稲葉は少女の後ろをついて歩く。少女が開けた扉の先は薄暗い倉庫のようなところだった。奥にはもう一つ扉がある。

 倉庫の中には大小いくつかのキャンバスが立てかけられており、床には紙や画材が乱雑に散らばっている。しかしそれは使われているというより、ただ放っておかれているという印象だった。キャンバスはどれも白紙で、絵具や筆も使用した形跡はない。倉庫の隅に毛布が置いてあり、その周辺だけ人が普段から生活している気配がある。毛布の周りには鉛筆の削りカスとモノクロの絵が描かれた紙が何枚か積みあがっている。

 稲葉が倉庫の中を見て回っていると、いつの間にか少女の姿を見失ってしまった。まぁそのうちどこかから出てくるだろうと、毛布のあたりを詳しく見てみる。床の上に散らばった紙にはどれにも人の姿が描かれている。どの人も見目麗しい姿をしていて、中にはどこかで見たことのあるような姿形の人物もいる。何枚かめくってみていると、扉が閉じる音がして、少女が背後から声をかけてきた。

「もうちょっとここで待ってほしいって」

「わかりました」

 返答を聞く気もないのか、稲葉の横を素通りして少女は毛布がある場所に座り込んだ。少女は稲葉が勝手に絵を見ていることにも言及せず、床に転がっていた鉛筆を手に取る。

「じゃあここで絵を描いているのを見ていてもいいですか?」

 稲葉が少女の顔を覗き込むように聞くと、少女は視線を動かさず、ただ頷いた。少女は部屋の隅に置かれていた箱からスケッチブックを取り出すと、壁を背に両ひざを立てて絵を描き始めた。お許しは出たものの、この位置からでは絵が見えない。稲葉は先に床に落ちた紙を拾って詳しく見ることにした。

 絵を見たところ、どうやら少女の実力は本物のようだ。人物画も風景画もどれも鉛筆のみで描かれているため色彩感覚がどの程度なのかわからないが、これだけの実力であればモノクロ画一本で伸ばす手もあるだろう。線は荒く絵柄も安定していないが、この点もこれからというところだろう。プログラムに参加するには申し分ない。いや、むしろ参加前でこのポテンシャルであれば、今後の成長に期待できるだろう。

 ただし、結局のところ育成プログラムへの参加は本人の希望が第一になる。どんなに才能があっても稲葉にできるのは勧誘だけで、参加の強制はできない。そういう決まりになっている。反対に、どんなにやる気に満ちていようとも、実力や成長の芽がなければプログラムからの脱落が言い渡される。もちろんその後のサポートはあるが、芸術家として生計を立てることはできなくなる。果たしてこの少女が稲葉の勧める道を選択してくれるのか、そしてその後どうなるのかはまだわからない。

 散らばっていた絵をあらかた見て自分の中でそう結論を出した稲葉は、立ち上がって少女の横へと腰を下ろした。少女は先ほどと変わらない姿勢で、スケッチブックに向かっている。どのように描いているのかが気になり、ゆっくりと少女の横に並ぶように腰を下ろす。少女の邪魔にならないように横目でスケッチブックを覗いた稲葉は、先ほどまでの自分の見通しが酷く甘いものであったことを思い知らされた。

 

1-3

 少女のスケッチブックに描かれていたのは、人の後ろ姿だった。いや、稲葉はそれを見た時、人物画と純粋に呼んでいいのかわからない異質さすら感じた。その姿は人物の形をしている。頭部があり、背中があり、腕を下に垂らしている。全身が描かれているわけではないが、構成しているパーツは人間のそれだ。しかしそれを描いている線から、何かを訴えるような執念が色濃く見える。先ほど見た人物画とは全く違う描き方に、こういった才能もあるのかと稲葉は少女の持つ技術に対しても再度心の中で感嘆した。

 しかしその描き方の能力以上に、この絵が何を示しているのかを稲葉は知りたかった。少女の筆を止めるのははばかられたが、それよりもこの才能と異質さを目の前にして黙っていることの方が稲葉にはできなかった。

「それは、何を描いているの?」

 普段のプログラム参加者にこんな質問をすることはまずない。抽象画ならばいざ知らず、人体を描いておいてこのような質問をされればまず怒られるか、目がおかしくなったかと疑われるのが先だろう。しかし稲葉の質問に、少女はただ淡々と答えを返した。

「神様」

 少女から返って来たその答えに、稲葉は疑問よりも先に納得の感情を抱いた。散らばっていた絵に描かれていた人々。それらの絵と今少女が描いている絵の間にある差異。そしてその絵を、前者の絵を大事そうに抱えていく人々。

 つまりはそういうことなのだろう、と稲葉の中で様々な情報がパズルのように組み合わさった。

「これが君にとっての神様なんですね」

 稲葉が確認するように発した言葉に、少女は頷いた。どうやら全く意思疎通の望みがないわけでもないようだ。少女が持つ鉛筆の先が紙の上を移動するのを眺めながら、稲葉は言葉を続けた。

「どのあたりが君にとって神様なのか教えてくれますか?」

 少女は稲葉の質問にぴたりと手を止めると、ちらりと稲葉の顔を見た。なにかまずいことを聞いたか、と稲葉は一瞬身構えたが、少女はまた視線をスケッチブックへと戻した。

「神様は、人を救ってくれるものだって聞いたから」

「それはお客さんに聞いたの?」

 少女は再び頷く。だからこそ、この姿が少女にとっての神様なのだろうと納得して、稲葉もただ頷いた。この才能はとんでもないものだ。それどころか、「才能」を持った子供たちを何人も見てきた稲葉にとって、その言葉をこの少女のステータスに書き込むことはもはや陳腐にすら思えた。この少女のこの能力を表すのに適した言葉は、今の稲葉の中にはない。強いて上げるならば、と浮かんだ言葉が無意識に口から零れた。

「神、だな」

 少女が不思議そうな表情で稲葉の顔を見る。その時ようやく稲葉は自分の口から思考が漏れていたことに、なにより自分が呟いたその言葉に驚いた。何か気の利いた言葉でも発することができればよかったのだが、稲葉にできたのはただ取り繕うように微笑みを返すことだけだった。なんと言ったのかは聞き取れなかったようで、少女は稲葉を不思議そうに見ながらスケッチブックへと視線を戻した。

 稲葉は再び思考に意識を戻した。だが、先ほど自分の口から零れた言葉が頭の周りをぼんやりと囲んで消えなかった。あのような単純で純粋な崇拝の言葉でこの少女の絵の魅力を表していいものなのか。しかし思いつく限りの賛美の言葉を片っ端から当てはめたところで、どの言葉もこの絵にはふさわしくないような感じがした。

 少女は手を止めてスケッチブックのページをめくる。先ほどの絵にはもう満足したのか、また白紙のページに向かって鉛筆を滑らせる。まっさらな紙の上に黒い線が引かれていく。たった一本の鉛筆の、たった一つの色から生み出されるその造形の独特さに、そしてなにより少女が無心で描き出す少女の中の「神様」に、稲葉は視線も思考も釘付けになった。

「他の絵を見せてもらうことはできますか?」

 まだ少女が描いているところを見ていたいという自分の渇望をどうにか抑えこみながら稲葉は尋ねた。その言葉には、自分がただの一般人ではなく、この少女に絵を描いてもらうためでもなく、国家公務員としてここにいることを再確認する意味もあった。

 少女は頷きながら、スケッチブックを稲葉に渡す。受け取ったそれを一枚ずつめくる。どのページにも、多種多様な人間の姿が様々な構図やアングルで描かれている。描かれている人の姿は女性であったり男性であったり、中には人から逸脱した造形であることも少なくない。腕や顔が沢山あるもの、翼をもつもの、動物を従えているもの。バリエーションは様々だが、そのどれもが少女の中から生み出されたものではないことが稲葉には一目でわかった。いや、それぐらいはある程度絵画に精通しているものならわかるかもしれない。

 少女が真に描いているのは人体ではない。どの絵も、「こちらを向いていない」姿を少女は描いているのだ。スケッチブックのすべてのページを、素早く、しかししっかりと目を通して稲葉は深く息をついた。そして自分の中で確信を持つ。

「ありがとう」

 少女にスケッチブックを返して、稲葉は姿勢を正す。今度はまっすぐ少女の方を向いて正座した。

「君に大事な話があります」

 返してもらったスケッチブックを開きかけていた少女は手を止め、三角すわりのまま稲葉の顔を見る。稲葉には、未だ少女の表情が読めないでいた。どこか遠くを見つめているような、それでいて純粋に自分を見つめているだけのようなその瞳に訴えるように、稲葉は口を開く。

 今自分がしなければならないのは、少女の絵を褒めるのに最適な言葉を探すことではない。それは数年後の大衆市民が勝手にしてくれることだ。自分がしなければならないのは、その大衆市民にこの才能を目の当たりにさせること。

 それが、稲葉史人としての仕事だ。

「単刀直入に言います。芸術家育成プログラムに参加しませんか?」

 少女の瞳は変わらず、ただ稲葉を見つめている。変化はない。しかし、視線を逸らされなかったことに稲葉は心の中でそっと微笑んだ。


1-4

「詳しく説明してもいいですか?」

 稲葉の言葉に少女は頷いて、スケッチブックを閉じて鉛筆とともに足元に置いた。膝を抱えて顔だけこちらに向けている姿を見ると、年相応の子供なのだということを稲葉は改めて実感した。

「私は稲葉史人といいます。芸術家育成プログラムというところのサポート員をしている人です」

 言葉を続けながら、鞄から取り出したタブレットで身分証明書を表示する。そこには自分の顔写真とともに政府のマークが入っているのだが、少女がそれを理解しているのかはわからなかった。なるべく怖がらせないように、稲葉はできるだけ声色を柔らかくしながら話す。

「まず、芸術家育成プログラムとは何か知っていますか?」

 稲葉の質問に、少女は首を横に振る。念のためと思ってマニュアルにない質問をしてよかったと胸をなでおろすと同時に、嫌な予想が当たったことになでおろしたばかりの胸がツキリと痛む。こういった事例は少なくない。特に、こうして通報から回ってきた案件を何度も担当してきた稲葉にとっては、何度も感じてきた痛みだった。

「ではまずそこから説明しましょう」

 タブレットに子供向けの説明画像を表示しながら、稲葉は手慣れた様子でプログラムについての説明を始める。

 あらゆる芸術分野において才能があると認められた子供が通う場所であること。その才能を伸ばすためにありとあらゆる手厚いサポートが受けられること。芸術家として生計を立てるにはこのプログラムを卒業する必要があること。編入年齢の下限はないが、上限は十八歳までであること。一般社会からは一歩離れた生活をすることになるということ。基本的な決まり事を稲葉はなるべくかみ砕いて簡潔に説明した。その説明を少女はただじっとタブレットの画面を見ながら聞いていた。

「つまり、才能のある子供たちを集めて育てるプログラムになっています。このプログラムに参加するに値する可能性があると、君は判断されました」

 稲葉はタブレットを閉じて、少女の顔を見つめる。ここまではいつも行っている説明だ。正座した膝の上に手を置いて、稲葉は再び口を開く。

「私は、君の絵の才能が必ず化けると信じています」

 正直なところ、最初に少女が描いた絵を見た時は、すごいとは思ったものの衝撃を受けるほどではなかった。サポート員として何人もの画家の卵を見てきた稲葉にとって、幾度も目にしてきたレベルのものだった。もちろんプログラムに入る段階でこのレベルまで達している子供は少ない。しかし、少ないというだけでその存在は0ではない。

 だが、先ほどの少女がスケッチブックに描いていた絵を見た時に稲葉の考えは一変した。この少女は必ず世界に名を残す画家になる。もしこのプログラムがなかったとしても、絵を描くことを続けていたらいつかその時が来る。そう思わせるだけの何かを、稲葉はあの絵から感じた。そして、この才能がどこまで成長するのかを見たいと思ったのだ。この少女に国が持ちうるだけの力をつぎ込んだ時、果たしてどんな絵が出来上がるのか。稲葉にとっても、これほどまでに先の見えない才能に出会ったのは初めての事だった。

「私たちは、君の絵の才能を伸ばすためにできる限りの努力を行います。君が欲しいもの、見たいもの、やりたいことを、際限なく叶える体制があります」

 少女の表情は先ほどから変わらず、ただ稲葉の方を見つめている。先ほどまでの会話から、少女が大きな望みを抱いていたり、なにか輝かしいもののために絵を描いているわけではないことは薄々稲葉も感じていた。そのせいか、何を言えば少女の心に響くのかが全くわからないという感覚が稲葉についてまわっていた。

「ただし、このプログラムへの参加は決して強制ではありません。君が望まないのであれば、今後勧誘を行わないようにするということもできます」

 だからこそ、稲葉は必死に言葉を紡いだ。傍から見れば冷静に説明している大人のように見えただろう。しかし、稲葉自身の頭の中では次に発する言葉を大量の予測の中から一つずつ素早く選び出すような作業が必死に行われていた。

 何を言うべきか。何を言わざるべきか。言わざるべき言葉を選りすぐっていること自体が間違いではないのか。そもそも言うべき言葉とは誰にとって言うべき言葉なのか。

 堂々巡りの思考の果てに稲葉の口から紡がれたのは、当たり障りのない言葉だった。

「君は、どうしたいですか?」

 当たり障りのない、言い換えれば飾りのない言葉だった。結局のところ、少女の答えによってすべてが決まる。ならば、何を言ったところできっと返答は変わらないのだろうと稲葉は思いながら目をつむる。先ほどまで必死に手あたり次第開けていた頭の中の引き出しを、稲葉はそっと閉じる。そして、瞼を開けて少女の顔を見つめた。

 少女の瞳は変わらず稲葉を見ている。しかし、その口は先ほどと違い、薄く開いていた。唇の間から漏れる小さな少女の呼吸が、静かな倉庫の中ではよく聞こえた。段々と、微動だにしなかった少女の視線が揺れ動く。その視線は少女の足元に置かれたスケッチブックや隅に置かれた小箱を経由して、また稲葉の顔へと戻ってくる。

 しばらく少女の視線があちらこちらをさまよっているうちに、少女はほんの少しだけ体を稲葉の方へと向けた。壁を背にして真横を向いていた姿勢から、稲葉の方を正面にするように体を動かす。小さな靴底が倉庫の床をざり、と撫でる。

「そこでは、好きに絵を描いていていいんですか」

 少女がそう発するまで、稲葉はただ少女の動きを見つめていた。決して監視するようなではなく、少女からどんな返答が返ってきてもいいように、見守るように見つめていた。

「もちろん。そのための場所です」

 稲葉は答える。少女から質問が返ってきたことは少し意外だったが、視線は動かさず、ただ思いを伝えられるように質問に答える。

「絵に関係のない勉強をすることもできますか」

 少女の口が少しづつ大きく開いていく。漏れる息のような声だったのが、空気を震わす声になる。

「なんだって好きな事ができます。あ、犯罪はだめだけれど……。でも、全ての事がきっと君にとってためになるはずですよ」

 少女の瞳は、もう揺れていなかった。ただまっすぐに稲葉の目を見つめている。稲葉もまた、その少女の瞳を見つめていた。

「隠れて絵を描かなくていいですか」

「隠れるだなんてもったいない。君の絵を存分に見せてほしい」

「いい絵が描けなくても怒られないですか」

「怒ることなんてしませんよ。君がいい絵を……いや、違うな。君が描きたい絵を描けるようにするのが私たちの仕事です」

 段々と息を継ぐ間もなく少女の口から言葉があふれだす。これまでせき止めていたダムから一気に放水したように、少女の想いが流れてくる。その一つ一つを稲葉は優しく汲み取っていく。

「家を、出ることはできますか」

 細い川を濁流が流れた後、最後にダムの底に残ったのは純粋な願いだった。

「君がそれを望むのなら、私たちはなんだって叶えます」

 水底に沈んでいた小さな小石を、稲葉は大事に拾い上げる。磨けば光る、いや既に輝きを見せている原石を。

 少女の瞳はもう感情の読めない瞳ではなかった。底の見えない水面のようだった瞳から、小さく雫が零れ落ちる。たった一粒。声も上げずに静かに泣いた少女を、稲葉はただ見つめていた。

 先ほどまで水の中を探るようだった稲葉の思考も、今は落ち着いていた。しばらく少女が口を開き、閉じを繰り返している間、稲葉はただ何も言わず待っていた。少女が唾を飲み、口を開いたとき、稲葉の背後から声がした。


1-5

「どちらさんかな?」

 しわがれた声が暗い倉庫に響く。声のする方を見ると、そこには扉から出てきた少し腰の曲がった老父がいた。

 稲葉はその姿を目にすると、すぐに立ち上がって、老父の前へ歩いて行く。老父は稲葉の顔と、その奥にいる少女の顔を交互に見ながら、怪訝そうな顔をしていた。

「私は芸術家育成プログラムの稲葉と申します。失礼ですが、あなたはこの子の保護者ですか?」

 稲葉は先ほどと同様に身分証明書を見せる。老父はそれを見て一瞬たじろいだが、咳ばらいをするとすぐに稲葉の顔をじっと見つめ返した。

「まぁそんなところだ。話があるんだろう。ここではなんだから、表の方へ来るといい」

 老人は明りの差し込んでいる方へ体を向けて、稲葉に扉の先へ行くように勧める。老父はちらりと少女の方を見やったが、少女の事については何も言わない。その老父の雰囲気に稲葉は少し語感を強めるように口を開いた。

「あの子も一緒にお話しして良いですか?」

 稲葉の言葉に老父はほんのすこし目を伏せたが、すぐにまた口を開いた。

「ええ、いいですよ」

 そう言うと、老父は稲葉に背を向けて一人で扉の向こうへと進んでいった。稲葉はそんな老父を見ながら、少女の前へ戻る。まだ倉庫の隅に座り込んだままの、むしろ先ほどより縮こまって見える少女の前に稲葉はしゃがみこんだ。少女が稲葉の顔を見上げる。

「君についての、大事なお話をします。君に負担はかけませんから、傍で聞いていて欲しいです。ですから、一緒に行きましょう」

 稲葉の言葉に、少女はゆっくり頷いた。少女がスケッチブックを抱えて立ち上がったのを見て、稲葉も静かに頷き、床に置いたままだった鞄を手に取る。

 少し後ろをついて歩く少女を横目に見ながら、稲葉はスーツを正しなおした。

 

 扉の先は店のような空間になっていた。アンティークな照明が天井から温かみのある光を降らせている。壁には様々な色に塗られた小さなキャンバスが一面に並んでいて、カラフルなタイル床のようだった。

「ちいさな画材屋を営んでいてね、もう閉店時間になっているから。そこの椅子に座るといい」

 画材屋という言葉になるほど、と稲葉は心の中で頷いた。先ほどまで少女がいた部屋は本当にただの倉庫なのだろう。裏路地から倉庫を経由して画材屋の表に出てきた形になっている。老人が指さした、カウンターの向こう側に置かれた椅子に稲葉が座ると、老人はカウンターの内側の椅子に座る。少女は一瞬躊躇っていたが、老父が隣の椅子を鳴るように引くとその椅子にゆっくりと腰を下ろした。飲み物も何も出てくるような空気ではないことを悟って、稲葉は先に口を開いた。

「ではさっそくですが、当局に情報が入りましてね。そちらのお嬢さんに非常に美術、特に絵画の才があるとお聞きしまして伺わせていただきました。ぜひその子の才能を伸ばすために、当プログラムに参加させてみてはいかがですか?」

 稲葉の言葉に老人はため息をつく。

「まぁそんなところだろうと思ったよ。いつかこういう連絡が来るんじゃないかともな。でもその前にだ、さっきのあれ見たんだろう。あれについては何にも言わねぇのか」

 低い声が答えを急かすようにずるずると響く。まっすぐにこちらの目を見ながら話すその視線は威圧感を感じさせるが、その瞳が時たま揺らいでいることに稲葉は気づいた。その揺れる瞳を射止めるように、稲葉は淡々と言葉を落とす。

「美術品の違法売買、ですね」

 稲葉の返答に老人はぐ、と言葉を詰まらせる。

 

 この社会では美術品を個人で販売することは禁止されている。それどころか、認可されていない物品・サービスの提供により金銭を受け取ること自体が禁止である。例えば少女が描いた絵を誰かに無償でプレゼントをしているのならば問題はないが、そこに金銭の受け取りが発生すると一気に違法行為になる。先ほど列に並んでいるときに少女と大人のやり取りの中に、タブレットを操作して所持金のやり取りをしているような様子が見られた。大きなニュースになることはないが、こういった違法営業は時たま検挙される。公務員として働いていれば、どこでどんな営業が見つかって捕まった、なんて噂を聞くこともある。そしてその大半に子供が関わっているという事も否応ながら稲葉にとっては耳にタコができるほど聞いてきた話だった。

「主導しているのはお嬢さんの正式な保護者ですね?」

 老人はもう声を発することなく、静かにうなずいた。少女は話の内容がよくわかっていないのか、ただ稲葉の顔を見たり、老人の顔を見たりしている。

 そもそもここで稲葉の訪問に応じ、話をしてくれている時点でこの老人が違法営業の主犯でないことは予想通りだった。本格的に主導している人物ならば、必死に証拠を隠したり稲葉を追い返したりするものだ。きっとせいぜい、場所を貸して、ある程度面倒をみてほしいと言われていたのだろう。その見返りにお金をもらっていたであろうことも、倉庫や店内の様子から子の画材屋が繁盛しているわけではないのだろうということから推測できる。そして、老父がこの現状にどう思っているかも稲葉には簡単に想像できた。

「その主犯の方は今日こちらに来られますか?」

「いや、めったにこの子には会いに来ない。この子は学校にもここから通っている。きっと連絡したところでしらを切るだろう」

 なるほど、と稲葉は心の中でつぶやいた。少女の保護者は違法営業を主導しているが実際はほとんど関わっておらず、お金を抜いているだけの状況なのだろう。その大人たちはほんの少し、リスク管理という点において頭が回るようだと稲葉は感心した。ただし、ほんの少しだけだが。

「では、ここからは交渉といきましょう」

 稲葉は姿勢を正しなおして、老人を見つめる。少しだけ身を乗り出して、両手を机の上で組んだ。

「お嬢さんを育成プログラムに参加させていただけるのであれば、この違法営業に関しては不問とします。これまであなた方が受け取っていた利益に関しても見逃しましょう」

「そ、そんなことを国がやっていいのか……?わざわざ犯罪を見逃すようなことを……」

 老人のうろたえる言葉に稲葉は黙って笑顔だけを返す。

「まぁ、いわゆる手切れ金ということです」

 こういった手法が取られることは、公務員の仕事の中で珍しくはない。マニュアルに表記されている方法ではないが、内々で受け継がれてきた交渉術だった。それは人と人の交渉ではない。社会と、その社会に住まう住人の間での交渉だ。

「その代わり、条件があります」

「なんだね……」

 老人は疲弊したのか、弱々しく声を返す。その様子にさらに稲葉は笑顔を強調するように答えた。

「お嬢さんをプログラム預かりとさせていただきたい」

「……っそんなこと、君たちに決める権利はないだろう!」

 稲葉の言葉を聞いた後、間を置いて、老父は声を荒げて立ち上がった。勢いで椅子がガタリと音を立てる。老父は机の上に手を置いて身を乗り出すように稲葉に向かった。

「この子はわしらの子だ。国がそれを勝手に取り上げる権利なんてなかろう」

「ええ、もちろんです。ですから『預かり』と言っているではありませんか。まぁそう焦らず、落ち着いてください」

 稲葉は立ち上がった老父をなだめるように語りかけるが、老父はその体制のまま動こうとしない。だが、老父から返答がないあたりを感じ取って、稲葉は話を続ける。

「お嬢さんが育成プログラムに参加している間、その身を当プログラム、つまり政府預かりとします。その間、形式上の保護者はあなた方のままですが、保護者としての義務・責任は一切無いものになります。要約すると書類上の繋がりのみ残る、という事ですね」

 老人は立ち上がったまま、口を閉じている。稲葉は老人の方は見向きもせず、今度は少女の方を向いて話を続けた。

「お嬢さんが育成プログラムを卒業された際に、つまり社会に出ることになった時。その時に、あなた方との関係をどうされるか、お嬢さん本人が決定権を持つ形になります。そのまま親子関係を保つかどうかを、お嬢さん自身に決めていただきます」

「要は、プログラムに通っている間はわしらに手出しするなという事だろう」

「お話が早くて助かります」

 ようやく口を開いた老父の言葉に、稲葉はもう一度にこりとほほ笑んだ。こういった大人は話が早くて助かる。

「だが、先ほども言ったが実質的な保護者はわしじゃぁない。この子の両親がそれを認めるかどうか……」

「認めますよ。何なら今、確認をとってもいいくらいです」

 稲葉は笑顔を変えず、少女の顔を見る。うつむいていた少女は、稲葉の視線に気づいて顔を上げた。

「君のご両親とお話をしましょう」

 少女はきょとんとした顔をして稲葉を見つめている。老人は疲弊した顔でため息をつくと、どさりと椅子に座った。

 

1-6

 きょとんとした顔のままの少女と座り込んだ老父を横目に、稲葉は自分のタブレットを取り出した。数度操作をすると、タブレットから発信音が鳴り出す。その音に老父は何をしているのか察したのか、ついさっき椅子に投げだした体を再び乗り出した。

 しばらく発信音が部屋に鳴り響き、その後、ピッという軽やかな音が鳴った。

「なんですか?」

 タブレットから聞こえてきた声は、高い女性の声だった。

「西山さん、ですね。私は国家公務員の稲葉、と申します」

 稲葉が名乗った瞬間、タブレットの向こう側から小さな舌打ちと物音が聞こえた。しばらく稲葉が黙っていると、さらに女性と男性が焦っているような話し声も聞こえる。その声を聴きながら、稲葉は通話をスピーカーにしてタブレットを座っている少女の前に置いた。稲葉は立ち上がって、タブレットのマイクの部分に口を近づける。

「切ろうとしても無駄ですよ。これはそういう通話ですから」

 稲葉の言葉に、向こうの物音がぴたりと止んだ。しばらくした後、弱々しい、今度は男の声が返ってきた。

「……国家公務員様が何の御用ですか」

「いえ、まぁ要件は沢山あるんですがそれは後程。今は要点を簡潔に説明させていただきますね」

 老父にした説明をかいつまんで説明している間、通話の向こう側静かだった。

「つまるところ、あなた方の違法営業を検挙しない代わりにお嬢さんをこちらで預からせていただきたい、というのが私からの要件です」

 稲葉がそう話を閉じると、通話の向こう側から咳払いが聞こえてきた。

「娘が国家のプロジェクトに認めていただいたというのは大変光栄な話ですね。ただ、そのような条件を持ちかけられる謂れはありませんよ」

「というと?」

 稲葉はタブレットから少し引いて、話を聞く体制に入る。ちらりと少女の様子をうかがうと、ただタブレットをじっと見つめていた。

「我々が違法営業をしていたという証拠がどこにあるんですか?その子が勝手にやった事ですよ。祖父の自白もでっち上げです。ですから、そんな条件を突きつけられる理由も、ましてその子を手放すこともありません」

 きっぱりとそう言い放った男の言葉に、稲葉は笑みを崩さないまま、しかし薄く息を吐いた。細く、長い息を吐ききって、肺に新しい空気を入れなおす。

「西地区5番地G棟3階305号室。職業、銀行員と家政婦。国民ナンバーは……」

「ちょ、ちょっと待て!」

 稲葉の言葉を遮るように、男の大きな声が響く。大きさに反して震えていたその声色に、稲葉はやはり、と心の中で思った。

「個人情報を何で一介の公務員が知っているんだ!個人情報保護違反だろうが!」

 この保護者達は、リスク管理という点でほんの少し頭が回るようだった。そう、ほんの少しだけ。

「何でも知っていますよ。あなた方が送金に使用している違法ルートに口座番号、生い立ち、今日買ったもの、これまでの違法営業による売上金……。さすがのあなたたちも、もう私の言いたいことはわかりますね?」

 つまり、そのくらいのリスク管理でこの国の取り締まりから逃れられると思っている程度だということだった。祖父や少女、顧客に完全な口止めをしていない。情報提供が入るほどの人だかりができても、利益を追い求めるばかりで引くことをしない。小手先だけの違法行為が見逃されてまかり通るような社会ではないことを自覚していなかったのだろう。

 稲葉は完全に黙りこくってしまった通話の相手に、最後の念押しをするように言葉を発した。

「私がこれを交渉と言っている間に、どうぞ懸命なご判断をされることをおすすめします」

 稲葉はそう言うと、ゆっくり椅子に座りなおした。少女は未だタブレットを見つめ続けている。老父は既に少女や稲葉に背を向けるように姿勢を変え、頬杖をついてただ黙っていた。

 しばらく沈黙が続いた後、タブレットから今度は最初の女性の声がした。

「わ、わかりました……。ただし、その子が希望するなら、です。その子がプログラムに参加したくないと言えば、この話は無しです。参加者自身の意思が尊重される、そういうプログラムのはずですよね?」

 震える声で、しかし鋭い女性の声がそう続ける。

「その子自身からプログラムに参加したいという意思が確認できなければ、私はその子を手放すことはできません」

 芯の通った声がタブレットのスピーカーを通して鳴り響く。稲葉はそっとタブレットを滑らせて少女の方へ近づけながら口を開いた。

「ええ、もちろんです。何よりも、この子自身が望んでこそですから」

 稲葉はそっと少女へ微笑みかける。少女は稲葉とタブレットの画面を交互に見ながら、不安そうな表情をしている。だが、その瞳はもう既に稲葉が信じたものだった。これ以上言うことは何もないだろうと、稲葉は椅子の背もたれにもたれかかった。

「私、行く。この人について行く」

 少女はためらう間もなく、そう言い切った。その声は決して大きくはなかったが、確かに少女の心の中からしっかりと発された声だった。スピーカーから女性が何か言いかける声がしたが、それを気にすることなく少女は続ける。

「心配してくれてありがとう。でも、私はもっと絵が描きたいから、このプログラムに参加する」

 少女はそう言うと、満足そうな顔でタブレットを稲葉の方へ返す。稲葉もその少女の表情ににこやかな笑みを返した。

「ということで、ご本人の了承も取れましたので、本日よりお嬢さんは当局預かりとさせていただきます」

「そ、そんな今日からだなんて突然すぎるでしょう!準備とか……」

 焦る女性の声をあえて遮るように稲葉は形式的な言葉を並べていく。

「お手続きや準備に関しましては後日、しっかりと伺わせていただきますので。もちろん、違法営業の停止も含め、ですがね」

「それは不問にするはずじゃ……!」

「これまでのものは不問ですが、もちろんしっかりと営業停止はさせていただきますよ。あと、このことを誰かにお話ししたりした場合、どうなるかはもうお分かりですよね?」

 念を押すように稲葉は声色を落とした。向こう側でなにやら小声で会話する音が聞こえたが、その話がこちら側に伝わってくることはなかった。小さな舌打ちのあと、男の声がした。

「分かった、分かったからもう好きにしろ!」

 もうその声に脅すような威厳も、おびえるような震えもなかった。ただ諦めたような、空っぽな声だった。

「ご協力、感謝します。それでは」

 稲葉はそう言うと、タブレットを操作して通話を切った。

 

1-7

 机の上で静かになったタブレットを回収して、稲葉は小さくため息をついた。立ち上がって椅子を直すと、老父の方を向いた。老父は未だ体を横に向けて頬杖をついているが、稲葉が立ち上がった音に反応してこちらを向いた。

「あなたの隠蔽行為についても後日連絡が行くと思いますので、ご協力よろしくお願いします」

 稲葉はそう言って老父に礼をすると、カウンターの内側に入って少女の横にしゃがみこんだ。

「本当にいいんですね?」

「うん」

 稲葉の質問に少女は深く頷く。稲葉も頷き返すと、立ち上がって少女に手を差し伸べた。少女は稲葉の手の先をそっと握って立ち上がる。スケッチブックを抱えている姿を見て、稲葉はふと忘れ物があることを思い出した。

「裏の倉庫から今持っていきたいものがあったら持ってきていいですよ。もちろんこのお店のものはだめですが、今まで使っていた物や、描いた絵など、重たいものがあれば配送を手配します」

 見たところ少なそうだったが、おそらく少女の私物があの倉庫の箱には入っていたのだろう。床に乱雑に放置されていた絵も、あれだけで随分価値のあるものだ。何枚かは既に稲葉が確認のために持ってしまっているが、少女にとって他に大事にしているものがあれば、今のうちに持って行った方がいいだろうと稲葉は思った。

 しかしそんな稲葉の考えとは反対に、少女は首を横に振った。

「これだけでいい」

 そう言って、スケッチブックを大事そうに抱きしめた。やわらかい眼差しで抱え込んだスケッチブックを見ている姿に、稲葉は何も言えなかった。あれだけ価値のある絵を置いて帰って悪用されないかと不安がよぎったが、先ほどの両親や老父の様子からその心配はなさそうだとも思った。彼らにそう何度も悪事を働く気などないだろう。一応、後日回収に来てもらおうと稲葉は自分の頭の中に予定を一つ組み込んだ。

「わかりました。では、行きましょうか」

 稲葉は少女を連れて店を出ようとする。その時少女が、あっと小さく声を上げて店の中へと走っていった。少女はカウンターの前で立ち止まる。

「おじいちゃん、絵、教えてくれてありがとう」

 少女はそういって、カウンターの向こうに座りそっぽを向いている老父に頭を下げた。しかし、老父は振りむかない。微動だにせず、少女の方も稲葉の方も見ず、黙って壁を見つめている。稲葉はその老父の反応を、残酷だとか酷いだとかは思わなかった。ただ、少女がその老父の反応を気にすることなく、稲葉の元へ戻ってきたことの方が不快に感じられた。

 稲葉の心の内を知らないであろう少女は、店の中を見つめている稲葉を不思議そうに見上げていた。少女の方を見下ろして、稲葉は微笑む。

「行こう」

 稲葉はもう一度そう言うと、店の扉を大きく開けた。温かい風が頬を撫でる。店を出ると、カランと音を立てて扉が閉まった。「CLOSE」と電光掲示で表示された扉のガラスは黒くなっていて、店の中は見えなかった。

 歩き出そうとしたとき、どこからかぐぅと小さな音が鳴った。稲葉が少女の方を見ると、少女はほんの少し恥ずかしそうにお腹を押さえている。まだ空は明るいが、時間を確認すると既に夕刻だった。稲葉もなんだか先ほどまでの空気に疲れたのか、空腹を感じてきた。昼食を簡単なサンドイッチで済ませてしまったのが悪かったかもしれない。

「早く帰って、夕食にしましょうか」

 稲葉がそう言うと、少女はこくりと頷いた。そういえば、と稲葉は立ち止まる。一番大事なことをすっかり忘れていた。

「あなたのお名前、聞いていませんでしたね。教えてもらってもいいですか?」

 もちろん情報では知っているが、本人確認は業務の第一歩目だ。こんな基本的な作業を忘れていたなんて、稲葉は自分が相当疲れているのだろうと思った。

「西山葵です」

「葵さん、ですね。これからよろしくお願いします」

 お互いに軽く礼をすると、二人は再び歩き出した。大通りを歩いて、都市の中心部へと戻っていく。中心部へ近づくほどビルは高くなり、その間を走る移動車も街を行き交う人々の声も増えていく。その間、稲葉と葵は横に並んで歩いていた。

 歩いている途中、ふと稲葉にとって耳なじみのある音楽が聞こえてきた。音がする上の方を見上げると、高層ビルの大画面モニターで稲葉がこの前まで担当していた少年が大々的に広告されていた。行きがけにカフェで聞いたあのポップな音楽だった。しかし、その音楽や広告よりも、隣の狭い空間に広がる空の明るさに稲葉は目を引かれていた。高層ビルの間に見える空の明るさに、もうすぐ夏が来るのかなんてことをただぼんやりと思った。

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