第12話『帰ってきた奴』

「さ、て……俺はもう行くよ。ギャラリーが増え過ぎた」


 坂下の群衆の視線はは今や両手で足りない数に増え、一様に強張った顔を此方に向けていた。皆が皆判で押したようにスマホを手にし、その何割かはカメラレンズを此方へ向け、それより幾分か少ない数人がディスプレイを叩いているのが見える。

 下手したらもう、警察に通報が行ってしまっているかも知れない。

 ……こりゃ、完全にタイミングを逸したな。

 諦めが着いたら、途端に何もかもが──目先の子供の生き死にすらも──どうでもよくなってきている自分がいた。

 空になった弁当箱を放り込んだレジ袋の口を堅く結んで手首に通し、いい加減聞き飽きた波しぶきの音に背を向ける。


「あ、最後にちゃぶ台返すようで悪いけど……別に今言った事なんて、全無視して飛んじゃってもいいんだよ」


 あっけらかんと言い放つ俺に、子供の眼が丸まっていく。

 その顔を見てちょうど幼い時分、自転車の練習で後ろを押していたはずの親父の姿が遥か後方にあった事に気付いた時の気持ちを思い出していた。


「それでもし皆が非難しても俺は、俺だけはその選択を肯定する。『いのちを納得できる形で使い切れた』って胸張れんなら、多分それは君にとって正しい事なんだ」


 続け様に言い放ち、敢えて答えは待たずに歩き出す。呼び止める声も非難の声も聞こえては来ない。一度背を向けてしまえばもう、どんな顔をしているかなんてわからなかった。

 出来る事ならまぁ、救われて欲しいけど……なんて、どこまでも無責任で他人事のような祈りだけをそこへ残し、呆気に取られている人並を割って歩いていく。

 今後待ち受ける結末はどうあれ、俺はその子に──あるいはあの日の自分に、差し伸べるだけの手は差し伸べた。

 大切なのはその事実だ。投げた縄を掴むか離すかまでは、こっちがどうこう出来る領分じゃあない。






 ※     ※     ※






「ただいまー……」


 2度と開ける気の無かったドアに鍵を差し込みノブを回すと、一昨日の朝捨て損なったポテチの匂いが漂ってきた。

 3日ぶりに嗅ぐ自分の家の、懐かしくてしけった匂い。そいつをひとたび肺の奥へと送れば、ほんの一瞬前まで身を置いていた旅路の気分はあっさりと吹き飛んでしまった。旅疲れで重くなった足を引きずって薄暗いリビングの明かりをつける頃には、日常へ戻ってきたんだという感覚すらも遠くなっていた。

 給湯器の電源を入れ、冷蔵庫やレンジのコンセントを差し直し、デスクトップPCの電源を入れる。部屋にLEDの光やモーターの駆動音が重なっていくたび、未だに自分がこの世にいるという実感が輪郭を確かなものにしていった。そんなチラつく光と低い唸りの真ん中に腰を下ろし、切りっぱなしだったスマホの電源を入れる。


 あーあ……帰ってきちまったなあ。


 OSが立ち上がるまでの間にこみ上げてきたのは、そんな苦笑じみた感慨だった。高い金を払ってうん百キロも離れた名所までわざわざ足を向けた挙句、結局飛び降りる事も出来ないままおめおめと戻って来た。

 予想外の事があったものの、それで別段何が変わったわけでもない。

 結局明日からも、待っているのは今までと変わらない日々と辛苦だ。そこに付いて回るのはやっぱり自分への諦めで……だが不思議とその延長線上にはに一昨日までのような死を望む気持ちが見えなくなっていた。

 だからといって別に死ぬのを思いとどまった気はなく、まして前を向いて生きようと思い直した訳でもない。

 結局の所、諦める事すら諦めただけだ。

 間の悪さここに極まれり。要するに今自分がここにいる理由は、たまたまあの子が先に崖っぷりへ立っていたせいで飛ぶタイミングを逃したからに過ぎない。

 ……ただ、それでもあれだけ訳知り顔で説教をかました本人が翌日命を投げ出してました──というのは、あんまりにも説得力に欠けてしまう。万一自分の訃報をあの子が知る所となったら、俺への評価は噓つきか詐欺師かのいずれかになるだろう。

 ほとんどゼロに近い可能性だし、2度と会う事の無い相手にどう思われようが本来どうでもいい事だ。けれどだからといって不誠実に胸を張る気はない。そう思う程度の良識は残っていた。


 ……何故かって?

 あの子に語った話に限って、そこにひとつの嘘も交えなかったからだ。


 こんなしょぼくれた人生でも、大人になる境目で一度は持ち直したことがある。

 明日が来るのが楽しみだった時期がある。

 自分が本当に自死に値する人間かどうか。それを決めるのはせめて、理不尽が横行する社会にまで己の世界を拡張してからでも遅くはないんじゃないか。

 命を手放すことは、いつだってできるのだから。

 この拙い頭と口で、それがどこまで伝わったのかはわからない。すぐに心を突き動かされたようには見えなかった。案外最後の一言だけが頭に残って、自分が崖を去った後にひょいと飛んでしまったのかもしれない。

 生きた時代も苦しんだ環境も知らない俺が、あんな数分の会話だけであの子が抱く生きづらさ苦しみを全て理解できた──なんて思っちゃいない。

 精一杯に説き伏せたという自負はある。その上であの子の選んだ末路が変わらなかったとするならば、それだけ強固な意志に突き動かされていたことの証明だ。

 まさに当人にとって、納得のいくいのちの使い切り方と言っていいだろう。

 どちらにしろ今にも泣きそうだったあの顔に反して、今頃きっと後悔は少ない道を選べたと満足しているはずだ。自分の部屋か、あるいはもっとずっと遠い何処かで。

 窓に目を向け西日を眺める。方角的にはあの陽の落ちる方に断崖があった。今頃は空と溶けあうような蒼ではなく、薄暮れがかった橙のきらめきに波頭を染めていることだろう。

 物思いに耽っているうちに、テーブルへ放っておいたスマホが低く唸る。

 オフフックをタップして耳に当てるなり、怒鳴り声だか悲鳴だかわからない声が耳をつんざいた。


「……ああ違う違う、紛らわしくてごめん母ちゃん。それ、生保の見直しに使う書類なんよ。なんか間違って実家そっち届け先にしちゃったみたいで──」


 その勢いに仰け反りながらも、電話口の向こうで血相を変えている様子が思い浮かぶような母を前に、なんとも苦しい言い分を並び立てていく。

 その後は『大丈夫』とか『元気だから』とかを何度となく繰り返し、合間にそんな自分へ苦笑を浮かべながら──数分の押し問答の末どうにか丸め込むことが出来た。命を投げ出す陶酔のままに、手書きの遺書なんぞを同封しなかった3日前の自分を褒めてやりたい。


「あ゛ぁー……」


 口からは無意識に昔のゾンビゲーのようなうめき声が漏れ出してしていく。

 通話を終えたスマホをテーブルの隅に追いやり、部屋を照らすぼやけた円形の白色光をしばらくただ見上げていた。旅疲れは一瞬にして吹き飛び、それと入れ替わりに別種のぐったりとした感覚が身体をソファへと押し込んでいく。

 なんかもう、風呂も夕飯も荷解きも後にしてひとまず一旦眠んべかな──

 しかしそんな願いも虚しく、またやり取りに消耗した気力を回復する間も与えらえれないまま、再びスマホがテーブルの隅でご機嫌に踊り出していた。

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