第13話『戻りゆく奴ら』

 頭を過ぎるのは3日前、退勤する前の挨拶で最後に見た彼の表情だった。

 幼児のように泣きじゃくった直後、まるで時をすっ飛ばしたみたいに平熱の声と表情で帰宅を宣言する。そんな俺を前にして、彼は呆然とも焦燥ともわからないものを浮かべていた。驚きを通り越した感情が形作る、口を半開きにしたまま見上げるなんとも間の抜けた顔。それは壊れてしまった部下に対して何と声を掛けて良いかわからないというより、全く未知の生き物を前にした際の反応と表現した方が近い。

 もしかしたら彼は週明けまで、あるいは二度とこんな奇っ怪な奴の顔を見ずに済むと思って過ごしていたのかもしれない。

 そんな皮算用の平穏を打ち破ってしまって大変に申し訳ない──という気持ちはあるのだが、事実俺自身ここへ戻ってくる予測はしていなかったのだから仕方がない。

 だからどの面を提げて応答せよというのか。

 ……なんてことは、特に思いもしなかった。

 何せもう、腹を括ってしまっているのだから。

 振動でテーブルの縁に向かって牛歩していくスマホを持ち上げ、耳に当てる。


「も、もしも──」

「大変ご心配をおかけいたしました。明日より出社いたしますので、またご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします」


 あえて合いの手を差し挟む隙間も与えないまま、一気に捲し立ててやる。

 ホワイトノイズの向こうで上司がスマホを握ったまま絶句しているのが、手に取るようにわかった。

 それきり互いに何も口にせず、時折彼の唇がくっついたり離れたりするぱくぱくという音だけが聞こえるだけの時間。そんな長い沈黙の後、動揺を隠しきれないままの声でやっと伝えられたのは『無理をせず次の祝日までは休み、産業医との面談を済ませてから動向を決めるように』といった内容だった。

 つっかえつっかえしながら、ようやく絞り出したような口調。そこには当然こちらへの気遣いといった類のものは感じ取れない。ただただいかにして電話口にいる得体の知れない者を刺激せず、かつ一日でも長く顔を見ずに済ませるか──それだけをひたすらに腐心しているのがありありと伺えるものだった。


「はい、かしこまりました。欠勤中に回された仕事については時間外で対応しますので、明けイチで別途レクの時間を設けて頂けますと幸いです」


 とはいえ別段、というか今更そんな対応に傷つく事もなく淡々と答えてやる。

 だって立場が逆だったなら俺もそうしていた……あるいは電話すら掛けられなかったと思うから。そう思ったらむしろ、対応としては寛大なほうだろう。

 その後はまるでホームに滑り込んでくる終電を横目に捉えた時のように、「じゃあ、お大事に」の一言を残して強引に話が切り上げられた。

 止まった心電図を細切れにしたような音をしばらく聞いて、スマホのオンフックをタッチしてカレンダーを開く。ひと月を四角形で30分割するマス目のうち、今週の木曜日が赤い字で彩られていた。こちらは心身ともに問題なく──観測できなくなった、ともいえるけれど──普通に出社するつもりだったので、カウンセラーと話すことなど今更特に何もない。

 死にに行くはずだった旅路を終えて尚、俺はこうして家のソファーでシーリングライトを見上げながら息を吸っている。

 とはいっても別に、旅先で生きる理由なんて大層なモンを見つけられたわけじゃない。

 死にたくなくなったわけでもない。

 ただ、だけだ。

 開き直りと言ってしまえばそれまでかも知れない。けれど事実として胸の内にあった自分の命を投げ出そうとするスイッチはオフに切り替わったまま、それきりへっこんで押せなくなってしまっていた。

 抱えているのは受動的とも能動的とも言い切れない、明日へのずるずるとした推進力。

 だが今は、少なくとも今はこれでいいと思える自分がいた。


「ふぁ、あ……」


 何かを終わらせるように、唐突にこみ上げてきた呑気な欠伸。

 一気に4日ほど増えた空白の時間を頭の中で扱いあぐね、無意味に頭を回して視線を部屋中へと巡らせる。


「あ、そうだ。やるか」


 そうしてひとり呟いたのは、シュリンクで包まれたままテレビの端で所在なさげにしているゲームソフトを見つけたからだ。

 凝った世界観やシステムに見合うボリュームのある大作ゲームを楽しめるかどうかは、どれだけ連続して没入する時間を確保できるかにかかっている。再び仕事が始まれば、時間の無さを言い訳にして積んでしまう事は目に見えていた。

 例えソロプレイでも4日あれば、ひとまずは切りの良い所まで進める筈だろう。ぴりぴりと薄いビニールを外し、すっかり薄くなってしまった説明書を斜め読みした後でディスクを飲み込ませ、コントローラーを握りゲームを立ち上げる。

 するとゲームをインストールするよりも先に、新たな通知を示すポップアップが表示された。ソフトウェアのアップデートと早合点した指が設定の項目を閉じ、そこで初めて通知の正体が他プレイヤーからのメッセージであることに気付く。

 差出人のIDは『H』と『I』を頭文字とした単語をハイフンでつないだもの──






 目を丸めたまま開いたメールボックスには、本文が空のまま送信されたフレンド申請が1件届いていた。


─了─

 

  

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短編『仕事でやらかして死にたくなった時に読む噺』 三ケ日 桐生 @kiryumikkabi

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