第5話『向かい出す奴』

 チェックアウトを済ませて外に出て、敷地の外に出るまで思わず何度か首を傾げながら建物を振り返る自分がいた。

 ……決して、悪い宿というわけではなかった。

 部屋はひとりの時間を過ごすには充分な広さがあって、ちゃんと広縁ひろえんで眺望を遮るものもない景色を堪能しながら物思いに耽る事も出来た。夕食は県外に出回らないらしい蟹やふぐが並ぶ、そりゃもう豪華な皿の数々が座卓を埋めてくれた。そこに姿焼きののどぐろなんぞも顔を見せるもんだから、何度も予約プランを確認しなきゃ気が気じゃなかったほどだ。

 他のサービスにだって、さしたる不満も残っていない。大浴場の広さだけはうまく写真を撮ったもんだなと感じはしたものの、この2日間繁忙期の合間にある閑静な温泉を殆ど独り占めすることが出来た。

 そう、決して悪くはなかった。

 けれど最後まで、手放しに『良い』と言える瞬間は訪れなかった。

 元々ここは目的とする場所に一番アクセスの良さそうな温泉街で、検索の1ページ目で好意的なレビューと写真が目についた宿。そこを一昨日の自分は特に糸目を付けることもなく予約した。

 ただ、そこで古本のるるぶ情報を頼ったツケが回って来たのも覚えている。予約の確認画面で初めて、載っていた宿泊料金との乖離に目を疑った。

 本とのタイムラグは1年そこらだったが、その間に一体何度改定したんだと問い質したくなるような値上げ幅だった。そのため実際こんな機会でもなければ、一泊の代金として払う事は決してないであろう額が飛んで行っている。部屋を引き払ったいま、改めて消えていった渋沢栄一の枚数に見合う旅館か──そう問われれば、正直に言って微妙という評価を下さざるを得ない。

 学生の時はこのシーズンなら2万も払えばすわ「俺は殿様か?」などと気持ちの良い勘違いが出来る程度の宿泊体験が出来ていたものだが……まあ例の疫病やら底の見えない円安やらの影響なのだろう。あとは物価高か。

 意図しない所で時代の流れを、いやに生々しく突き付けられた気がした。

 誰かにという訳じゃないが、どうも騙された感はある。とはいえ覚えた後悔の気持ちが、今を以て尾を引いている訳でもない。快適な宿泊だったかと問われればYESと答えるだろうし、何よりが今更何枚飛んでいったところで惜しむ気持ちなど抱く訳もない。

 カードで決済を済ませたせいもあるが、数分歩いて出たとおりで見慣れきったコンビニの看板を見つけた頃には、もはや自分があの宿へいくら支払ったかすらも忘れていた。


「それでは、お預かりいたします」


 朝の通勤と昼食時の合間で暇なのだろう。レジでなんとも気だるげに突っ立っていたパートのおばちゃんから貰った送り状に実家の住所を書き込み、スマホと財布以外の全てを詰め込んだキャリーケースを発送して外へ出る。

 くものが無くなった左手には代わりにホットコーヒーを握らせ、空いた右手で地図の画面を開いた……うわ、初乗り料金も随分と変わったもんだ。

 店内へ戻り飲み干したカップを捨てて再び外へ出ると、殆ど同時にアプリで呼びつけたタクシーが目の前に止まった。スライド式のドアが静かに口を開ける。俺を迎えに来たのはクラウンコンフォートでもプリウスでもない、寸詰まりの霊柩車のようなワゴンだった。随分と気の早い話だ。

 未だにこれをタクシー車種のメインストリームだと認識することに抵抗を覚えるのもまた、現在進行形で時代の流れに置いて行かれている証左なんだろうか。


「ご利用ありがとうございます。どちらまで?」


 ずんぐりとした体形にごま塩頭という風体からは意外にも思える笑顔と言葉遣いに、若干面喰らいながら行き先を告げる。彼が妙に勘が鋭いという可能性も考えて、目的地を直接指定するのは避けた。念には念を入れて声色は快活に勤めたし、皺が深くなり始めたその顔が前を向き直すまで笑顔は常に絶やさなかった。

 それが功を奏したのかはわからない。だが特に妙な間があったり訊ね直されたりすることもなく、すぐにハイブリッド車特有のぬるりとした加速が身体を包んだ。

 





 ※     ※     ※






 なんだ、まだまだ日本も土地が残っているじゃないか。

 特段の会話もない車内で、新幹線の時のように頬杖を突いてぼんやり外を眺めていた。

 温泉の街並みはすぐに終わりを告げ、すっかり刈り入れを終えて色褪せた田園風景が延々と流れていく。あとふた月ほど前であったなら、この秋晴れの下でうねる稲穂が見えない筈の風の形を教えてくれていただろう。

 ……『東京と違ってさ』なんて迂闊に口走っちゃうと、あいつは決まって怒っていたっけ。

 ともあれ最初に目にしたときから十数年が経っていようと、普段目にする人口密度第一位の景色とこの目一杯広がる褪せた水田には、未だに歴然とした差を感じずにはいられなかった。

 人の暮らす街とそれ以外──真っ直ぐ伸びる道を挟む森林やら田んぼやら──が、はっきりとエリア分けされている。東京のように段々と家並みが減っていって……という具合ではなく、突然と営みが途切れる。

 だがこの一歩出ればフィールド画面という、まるで昔のRPGのような区分けのなされている土地。それがいわゆる『田舎』や『地方』の定義なんだろう。

 何か感慨を込める事もなくただそれを口走ったあの時は、故郷を馬鹿にされたと早合点して顔を真っ赤にした友人を前にそんなつもりはなかったと慌てて訂正したものだった。

 ……ああ、まただ。

 会わないと決めた後でも、結局思い出すのは彼や彼を中心として作ったグループの思い出ばかりな自分に気付く。

 

 おれは、寂しかったんだろうか。


 社会に出て何も手に出来ない暮らしが続くうちに、距離的にも関係的にもすぐに会えるような友達は気付けばひとりもいなくなっていた。

 その事が案外と堪えていたのかもしれないと、今更ながらに思う。

 卒業して家を出て、慣れない暮らしと仕事に忙殺される日々が恐ろしい勢いで過ぎ去っていく。年々減っていく人付き合いに気付かないふりをしながらたまの休日は寝て過ごし、起きていても喋りかけるのはもっぱらユーチューブの配信画面に向かってだけ──『案外独りも悪くない』と本気で思っていたし、だから時間が空いたところで誰かに連絡を取ったりもしなかった。

 けれどそれは単なるやせ我慢、もとい防衛本能でしかなかったのかも知れない──


「着きましたよ」


 呼びかけられて初めて、タクシーの焚くハザードの音に気付く。

 気付けばフロントガラスからは白を基調にした物見やぐらの化け物みたいなタワーが見えていて、慌てて頬杖を離すと同時に開いた開いたドアからは、微かに海風のにおいが漂ってきていた。

 

 ──ありがとうございました。

 喉から再び絞り出すのは、本当に自分が発しているのかと疑ってしまうような快闊な声。乗り込んだ時と同じように掛けつつ交通系のICで支払いを済ます。それから演技臭く外を見て、車内からは望めないタワーの頂上へと小さく歓声を上げてから脚を外へと出した。 


「私丁度昼休憩なんで、しばらくここに停めていますから。よろしければ帰りもご利用くださいね」


 歩き出そうとする背中へと、不意に投げかけられた声。それは内容にそぐわない程どこか重く、何かを探るように語尾が疑問に上がっていた。

 単なる親切か……あるいははじめから見抜かれていたのかも知れない。

 運転のなめらかさといい接客の距離感といい、あのおっちゃんにはいかにもタクシーひと筋数十年といった風格が漂っていた。

 きっとこの辺りを長く流しているドライバーは、時折こういった手合いを乗せるのだろう。

 いらんことまで洞察みぬかれそうで、その目と再び正対するのはどうにも気が引けた。

 半身の姿勢でしばらく迷った末に、結局振り返はしないまま片手だけを挙げて歩き出す。

 きっと車がコンフォートじゃなかったせいだろう。タワーの入り口に着くまでドアの閉まる音は聞こえなかった。

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