第4話『旅に出る奴』
久々に、夢を見た。
湯気の向こうの窓に、微かに明け始めた空の紫が見えている。今よりも太ってて今よりも肌に張りのある自分が、透明な湯の風呂に入っている夢だった。
普段より熱い温度で張った湯殿に、右へ捻った上半身を縁に引っ掛けるように浸かっている自分を、ぼんやりと斜め上から見下ろしていた。
見ているのは確かに自分だ。
だけどうつぶせのような姿勢で、洗い場の床へ腕をだらりと垂らしているのもまた自分であるという確信もある。
自分なのに他人。
他人なのに自分。
感覚は共有していて、皮膚は確かに湯の温度を感じていた。
なのに身体の内側にある熱は、今も右の手首からどんどんと流れ出ていく。その熱が滴るウレタン製のマットに転がっているのは、シャンプーのボトルに石鹸置き。
それに、零れ落ちた親父の剃刀。
──ああ、おい。そのままだと。
気付いて声を掛けようとしたけれど、喉はまるでそこだけ切り取られているように震わず、吐き出す空の息が虚しく湯煙を掻き回していた。
どんどん冷たくなる全身に、朦朧としていく意識。
焦りだけが必死に意識を繋ぎ止める中、遠くから足音が近づいてくる。
誰かが気付いたのだろうか。
誰かが来てくれたのだろうか?
誰かが助けてくれたのだろうか?
答えは知らない。
夢も記憶も、そこで途切れたからだ。
※ ※ ※
北西へ向かって街中を突っ切っていた新幹線が、群馬県を抜けていよいよ山間に突っ込んでいく。日本海側までを限りなく最短距離で結んだレールは『日本のチベット』なんて蔑称を置き去りにして久しい、らしい。なんかネットで見た。
人工物よりも緑が多く目立つようになって、心はやっと日常から離れてくれた。これでようやく、スマホからも目を離すことが出来る。段々とトンネル同士の感覚も短くなってきたし、どうせ電波も入らないだろう。
あるいは意図的に──ろくに確認もしないままサイドのボタンを押して液晶を消し、ひっくり返して窓辺に伏せてやった。
全く便利、便利、万歳、現代文明の結晶だよな。こいつはさ。
だけどその対価として、この板っきれは持つ者をいつでも予定や仕事に縛り付け、挙句良し悪しに関係なく人の繋がりを限りなく不断なものへと変えてくれた。
もしかしたら会社から電話が来ているかも、とか。
約束をふいにした姉や母から怒りのメッセージが飛んでこないか、とか。
冷蔵庫の中を無理やり空にしたから、ゴミ捨て場を見た管理会社から苦情が来ていないか、とか。
憂慮の濃淡は様々だ。いくら
人目を
だからこそ連絡を確認『しない』のではなく『できない』という状態になってしまえば諦めも付き、その「仕方ない」という諦めが何より自分へ平静をもたらしてくれる……というあまり褒められたものではない性質もまた、これまでの暮らしぶりで深く根付いているものだった。
あぁ、いけないいけない。
せっかくの非日常だというのに、心がまた暗がりに捉われるところだった。
窓際に置きっぱなしにしていたせいでいい加減ぬるまった缶ビールの残りを飲み干し、勢いのまま袋の底に残っていた柿ピーを流し込む。それから役立たずとなってくれたスマホをポケットへ突っ込んて、暗闇にしけた中年の面を飽きもせず半透明に映し込む窓を向いて頬杖を突く。
実家に送った保険証券とかの類に入れ忘れはないか、とか。
あと、そもそも鍵って閉めてきたっけ、とか。
繋がりを断ったところで、結局は自分のやらかしという別の心配事が浮かんでくる。だが身体は時速260㎞だか270㎞だかの現在進行形で家から離れていっているし、今更確認する術もない。
だからこれもまた「仕方ない」のひとことで飲み込めるものに過ぎない。よしんば泥棒が家に上がり込んだとしても、盗られて腹の立ちそうなものといえば昨日買ってまだ封を開けていないゲームくらいなものだった。
──いつからだ?
執着するほどのものが、全くなくなっていたのは。
はたと気付いた顎が、思わずひとりでに上がった。
いつだか読んだ漫画で『働き盛りの男は身軽なら身軽なほど良い』と美食家の貿易商が独り語ちていたのを思い出す。働き始めだった俺は無一物みたいなその価値観が随分カッコいいものに思えて、それを長く座右の銘にしてきた。
けれど、何があっても手離せないものと問われてすぐに思い浮かばないのは、流石に度が過ぎているんじゃないだろうか。
こうして振り返って薄々感じるのは、身軽を選んだのではく、身軽でしかいられなかっただけだという可能性だった。
仕事場での地位。
成果に対するプライド。
あるいは、積み上げた資産。
あとは……俺の歳にもなれば、新たに作り上げた家族か。捻り出したところで下手をすれば、それが最も縁遠いものにすら感じた。
あいにくと俺の砂場には、
それまで横一線だった周りが歳を経てどんどん砂城の高さを稼いでいく中、ひとり気まぐれに固めては崩しを繰り返した挙句、大人になる前に描いていた完成図すらいつしか忘れてしまっていた。
今じゃバケツには穴が開いているし、スコップは錆びだらけ。手荒く扱ったせいで砂も滑らかさをなくし、中途半端に凝り固まってるから碌な形も作れない。
出来る事といえば精々周りの山を指くわえながら見て「俺にも作れたはずなんだけれど」と訝しむくらい。それで得られたものといえば……小遣いを早々に使い切ってなお未練たらしくお菓子売り場を眺めていた子供時代と、本質的には何も変われていなかったという自覚だけだった。
──痛っ。
いつの間にか変な所に力が入っていたのか、肘の先が縁まで滑っていて角で痛点を刺激していた。一度顎を外して位置を直し、改めて焦点を窓の外へ向ける。長いトンネルを抜けた先には、高い建物の無いのどかな田舎の風景が広がっていた。だがそんな窓の外を望む顔は、その眼に映るものとは全くそぐわないくらいに渋く歪んでいた。
新たな酒も開けずに、味のしないあたりめを奥歯で噛み潰す。そうしているうちに、これから向かう先に今も暮らしているであろう、あの友人の姿が再び浮かんでいた。けれどその顔にはやっぱり下手クソな自撮りを誤魔化すようなドぎつい加工が掛かって、一層自分とは違う生き物のようなすがたを脳裏へ映し出している。
ああ、もう。やめだ、やめ。
これ以上考えるのも、あいつの家に寄るのも。
気取って事前に連絡を取るなんて真似、止めといて本当に良かった。
鼻の両穴からふんと勢いよく呼気を吐き出し、大袈裟なアクションで足を組み替える。いつの間にか駅のホームを切り取ったまま止まっていた車窓の眺めが、軽く体が引っ張られる感覚と一緒に緩やかに動き出した。
輪郭を曲げて加速し始める前に視界へ捉えた柱には、特に捻りの無い『ながの』というひらがな。大宮を離れる時に確認したっきりの経路案内にズレが無ければ、今は11時少し手前ってあたりか。
こみ上げてきた軽い欠伸に後ろに挨拶もなく、席のリクライニングを限界まで倒し込んだ。
到着まではあと2時間弱。明け方まで起きていた身体が訴えてきている眠気に答えるには、丁度いい時間だろう。
目を瞑る直前に見たのは、冬の陽を覆う花曇りの空。並走する電線と同じ高さには列車と同じ方向へ、ひとりぼっちの鳥が力なく羽ばたいているのが見えていた。
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