第3話『思い出す奴』

 スーツを脱ぎ捨てたままスウェットに着替え、ローテーブルを挟んでモニターの前にどかりと胡坐をかく。

 上に散乱している2日か3日前に食べた総菜空きパックを雑にビニール袋へ放り込み、提出期限がふた月前に過ぎた人事課あての書類と書きかけの稟議書が織り成す山をその辺にあったキャラ物のクリアファイルへ押し込んで放る──一瞬上席の承認印が=写しじゃないものが混じっていた気がしたが、もう今更だろう。何も見なかったことにした。

 ともあれ数ヵ月ぶりに拝んだ天板の模様の上に、電車を降りてから寄ったコンビニで買いこんだポテトチップスとハイボールの缶をどかりと置いてやる。口の中を支配する咀嚼音に負けないよう、いつもニュースを眺めるより気持ち大きい音量でブルーレイを流しながら、合間合間に漫画のページをめくっていく。モニターの枚数にも意識配分にも、流石にこれ以上の余裕が無い。買ってきたゲームは明日以降に先送りにすることにした。

 番組が中だるみすれば漫画へ目を落とし、漫画の展開が退屈に傾けばまた画面へ。時折手を拭いては口へ運ぶポテチはビックバッグだし、前の検診で『少し控えろ』と釘を刺されたハイボールだって今日は9パーセントの500mlをすでに2本目。トイレへはもう3回往復したが、まだまだ酔いが回ってきた様子はない。

 こうしてどこまでも退廃的に五感を満たしてはいるものの、それがふと途切れれば途端に余白は際限なく広がっていきそうになるし、それと共に何かたまらない気持ちが胸へと共に薄く塗り広げられていく感覚は絶えない。

 そいつに追いつかれないよう、今はとにかく意識を隙間なく娯楽と酩酊で埋めていきたい気分だった。

 もはや楽しんでいるんだか駆り立てられているんだかわからない……そんな時間をどれだけ過ごしたか。アパートに戻った時にはまだ橙色だった窓の外がすっかり暗くなった頃には、漫画の吹き出しももテレビの音声もいい加減何を言っているかわからなくなるまで酔いが回っていた。

 早い時間の深酒に胃腸も苦悶の声を上げている気がするが、ともあれこれで思考が余計な方向に行かずに済むことだろう。ちょっと横になるかと枕代わりにと引き寄せた鞄の口から、どこだかの景勝地をバックにカラフルな文字が躍る表紙が覗いているのが見えた。

 そういや、るるぶなんて買っていたっけ。

 ……なんで買ってたんだっけ?

 ペットボトルの天然水に直接口をつけてわずらわしさを飲み下し、クリーム色したラグの毛先で指先を拭いてからパラパラとめくってみる。


『小学校のころさあ、遠足でここ行ったんだけど、んだよねえ』


 誰かの手で切り出したように規則的に並んで広がる岩の柱と、遠くで海と空とが溶け合う絶景。見開きいっぱいに広がるそんな写真に手が止まり、頭の中では懐かしい友人の声が蘇っていた。

 大学時代──もう15年も前になるのか。

 それは生協が経営する学食で、やけくそな塩気以外の味がしないエビピラフとポテトフライを突っつきながら交わした会話だった覚えがある。上京したての彼は食事や勉強、飲み会の合間にと事あるごとに故郷の思い出話をしてくれた。今思えばホームシックの気があったのかもしれない。

 対面に座る俺ではなく、むしろ逆方向に向けているような矢継ぎ早な話し口。それが無意識のうち印象に残っていて、観光地としてもメジャーとは言えない地名のるるぶが気になったのかな。

 思わぬところで数時間前の自分の行動に合点がいき、僅かに胃腸が軽くなった気がした。

 一番初めにかごに入れたあのゲームも、元はといえば彼を中心にして昼夜も講義も問わず熱中していたものだった。もしもまだあいつが東京にいて密に連絡を取り合っていたならば、快くマルチプレイに付き合ってくれただろう。

 そんな気のいい友人も抱いた地元愛に違わずUターンして就職を決め、今では2児の父親をやっている。転職・結婚・出産・マイホーム……ノルマのように唯一の交流として続いていた年賀状が365日スパンで伝えてくる、着実に人生の階段を登っていく彼の様子。俺は15年間それを全く変わらない高さで眺め、見上げ、やがて仰いでいた。まるではす向かいで建設中のビルが、段々と高さを増していくのをぼんやり見ているようだった。止める理由も、まして権利もないまま。ただ少しずつ自分のいる場所に影が伸びてきて、やがて薄暗がりに呑まれてじめっとした空気に包まれる。今の気持ちと似ている所があった。


 ──結婚なんて考えらんないよな。こうしてお前らと遊んでいる方が楽しいもん。


 濃い目の顔に似合わない語り口調が蘇り、つい年賀状がしまってある筈のパソコンデスクの引き出しへと目線が向いた。しばらく取っ手を見つめ、それから生あくびの振りをして顔ごと天井へ向ける。 

 ……あいつも、俺とは違う生き物になっちまった。

 その年、三が日明けに当たり障りのない返事を書きながら、勝手にそんな落胆の念を抱いた自分に対する嫌悪。砂を噛んだ様なその苦い思いもまだ覚えている。


 『俺より優れている』のではなく『違う生き物』という表現。

 そいつを選んだあたり、チャチな自尊心が透けて見えるぞ、オマエ。


 まるで今しがた起きた出来事のように、浮かべたその自嘲には毒々しい新鮮味があった。

 回る酔いは意識を身体から引き離し、客観的な批判を浴びせて悦に浸る。仕上げに卑屈な笑いを鼻から漏らし、さっきよりいくらか雑にページを捲っていった。

 日本の中心よりやや東に位置する日本海側。ホテルよりも旅館の方が多く、インバウンド全盛のこのご時世でも場所を選べばそこまで高くもない。いや、金の心配なんてするだけ無意味なのだけれど……拭いそこなった指の油を画面に塗り広げながら、スマホで経路の検索をしてみる。

 ここから北陸新幹線でだいたい5時間、べらぼうに遠くもなく、かといって日常が付いて回るほど近くもなく。

 卒業前にあいつの実家へ着いていったときは、車で10時間を掛けた挙句2泊3日の弾丸旅行の体を成していた。そのせいで碌に辺りを見る余裕もなく、名産である海の幸すらまともに食べられずうんざりしたのを覚えている。

 これも何かのきっかけだ、場所としても丁度いいか。

 余白を全く塗りつぶせるかも知れない算段を立て始めたところで、スマホの画面がひとりでに切り替わった。

 母親からのメッセージだった。


 『週末実家に姉が子供の顔を見せに来るから、たまには一緒に食事でもどうか』 


 ──当たり障りのない誘い文句の裏には、1時間も離れていない実家へ一向に顔を見せない息子への不満が見え隠れしている。

 母親も姉もその旦那も、まして反抗期を迎え始めた姪っ子も、誰も悪くはない。

 嫌いという感情もない。けれどもたかだだ一食節約になるというだけで、わざわざ手にし損ねた幸福を見せつけられに行くほどの被虐趣味も持ち合わせてはいない。

 肺の奥まで空っぽにする勢いで深い息を吐いて、それと入れ替えるように半分がた残ったハイボールの缶を一気に空ける。飲み干して天を向けた顎を戻すと一拍遅れてぐわんと視界が回り出し、重力と輪郭を曖昧にしていく。


 ……この酔い具合だと、朝一出発は無理かな。

 震える指先で返信の代わりに明日明後日の宿と正午過ぎの特急券を取り、そのままスマホを放り投げてベッドへと倒れ込んだ。

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