第2話『開き直る奴』

 裏手にある職員用のドアを閉め、庇から一歩出て顔を上げた。

 時節はそろそろ秋が終わりを告げようとしている。だが空には一番星どころか、夕暮れの気配すらまだ見当たらない。

 こんな時間に家路に着くのはいつぶりだろう。

 振り返ろうとすると胃の奥から重たいものがせり上がってきた。慌てて記憶を手繰る糸を手放して、すっかり踵の薄くなった革靴を履き直して歩き出す。

 アイドルタイムを迎えて閑散としているモスバーガーを通り過ぎ、駅へと続く商店街へ。普段は飲み屋ですら暖簾を下げるような時間にしか通らないので、シャッターが下りていない店の方が多い光景は新鮮だった。道行く人たちも千鳥足のサラリーマンやワンチャンスを狙うぎらついた男女ではなく、握る手の先や自転車の後ろに子供を連れている買い物中の母親が主。長く通ってきた街の新しい側面を今更垣間見た気がして、思わず歩調が落ち気味に──そこではっと顔に手を当て、眦から下を覆うマスクの感触に安堵する自分がいた。

 乱れた襟も碌に正さず、それどころかまともに顔も洗わないまま出て来てしまった。もし素顔のまま歩いていたなら『真昼間に着崩れたスーツを纏う、泣きはらした顔の中年』という危機感を煽る事間違いなしの人物が、道行く無辜むこの親子連れへ余計な不安を与えるところだっただろう。

 ともあれ背を丸めて路地に入り、生きてるんだか死んでるんだかわからないような婆さんの顔が小窓から覗くタバコ屋の隅でライターに火を灯す。

 喉の奥に広がっていく、しけった味わい。じりじり、じじっと刻まれた葉の燃える音が、肺だけでなく空っぽになった胸ごと満たしていくような気がした。

 秋の終わり、冬の始まりの済んだ空へ溶けていく煙。

 その味が、妙によくわかる。

 そうしてひと落ち着きすれば、ぶり返しのように心がきゅっとなる痛みが再び襲ってきた。しかし今度は落涙とまではいかず、一気に不透明となった己の先行きと、つくづく限界だった己のメンタルへの気付きを与えるにとどまった。

 今日は金曜。土日を挟んだ週明け、果たしてオフィスに自分の席は残っているのだろうか。


『もう帰って休め』

 

 そう言ってきた課長の顔には哀れみと、ある種の諦めのようなものが広がっていた。

 ……望みは、薄いだろう。

 少なくとも今までと同じように『薄っすら害はあるが、席を追われるほどではない』というスタンスに座り続けられる気はしない。居たたまれなくなって自分から退職を申し出るまで型通りの同情や遠慮、そして無言の侮蔑といった針のむしろに座ることになるのは目に見えていた。

 海の向こうと違ってこの国、この業種においては手が後ろへでも回らない限り会社からクビを宣告されることはほぼないといって良い。あるのは『諭旨退職』というあくまで自主的に会社を去る事を促すプロセスのみだ。

 周囲の白い目、さしたる理由もなく下げられる人事考課とボーナスの掛け率、そして奪われる社内での役処に仕事……表面上だけは静かな波が自分の足場を音も無く削っていき、やがて耐え切れず自ずから降りる瞬間を待つ──つくづくこの国のらしさを表わすそんな習わしは、しかし裏を返せば『自分で落第の印を押せ』というこの上なく残酷なものでもあった。

 よしんば100%の善意で精一杯気を使ってくれたとして、泣いた原因とか、どうしてあげればいいかとか、周囲から根掘り葉掘り訊ねられる──そんな絵面は想像するだけで背骨が丸まった。

 自分自身でも心の全てを言葉に出来ていないのだから、互いにより気まずくなって終わるだけだろう。

  

 ──あぁ、なんだ。どの道、詰みか。


 とたんに頭の奥で、ぷつんと音がしたような気がした。 

 薄く開いた瞼で、路地の向こうの人いきれを撫でる。

 同時に右手へ巻いた腕時計の下が、かゆみを伴った疼きを訴えてきた。

 努力も我慢も。

 そして諦めも。

 『当たり前』が出来ない奴は出来ない奴なりに十数年、周りと比べて不足はあれど懸命に積み上げてきたつもりだった。

 それがたった一度の決壊でこうもあっさり崩れ去るとは、なんともまぁ無情としかいいようがない。

 煙草を挟む指に、少しずつ火種の熱が伝わってきていた。半開きになった口から煙を漏らしながら、まるで他人事のように更地となった自分の居場所を振り返っている。

 不思議なものでこうして『どうにもならない』と悟った途端、まるで感受性を司る回路の一部が断線してしまったように、頭の中からは不気味なほど清々しく不安や後悔といった念が消えていた。

 それはつまるところ、これからの自分未来を考える原動力が失われたと言い換える事も出来る。

 ただ帰った後に待っているのは土日の連休、なんてちゃちなもんじゃない。長い長い、もしかしたら終わる事すらない休暇。その入り口に立っているのは、床一杯に広げた白紙の前に立っているのと同じ心地だった。

 何を書き込んでも良い。

 書かなくても良い。

 あまった時間で、なにしよう。

 何せ通常の出勤すら免除されているのだ。休日出勤、研修、残業、早出。諦めと引き換えにその全てが可処分時間に置き換わった今、これまで代わりに諦めていた全てが出来そうな気さえしていた。

 これを自棄というのかはわからないが、煙草を消して路地から戻る足取りは自分でも驚くほどに軽かった。

 まず手始めに駅とは反対側に歩き、スパゲッティの老舗に入って腹を膨らませる。いつもは途絶えない行列のせいで、短い昼休憩での訪問は叶わなかった場所。口に運べばそれもなるほどといったラグーソースの味わいは、これが最初で最後の注文になるという事実がこの上なく口惜しくなるほど美味だった。

 フォークの側面でひき肉のひと粒までさらってから口を拭って店を出て、次は商店街の出口近くにあるブックオフに入る。入った途端に覚えた、古本の何ともいえない据えた匂いといいようのないじめっとした空気が懐かしい。

 学生時代に嵌ったハンティングゲームのシリーズ最新作。マルチプレイに付き合ってくれる友人はもういないが、とりあえずかごに入れる。

 観る暇があったら寝る時間に充てていた、バラエティー番組のブルーレイ。帰ったら朝までだって観られるんだし、とりあえずかごに入れる。

 噂やネットでだけは評判を聞いていた、新卒のころから贔屓にしていた漫画家の新連載。1年以上も前に最終回を迎えていたので、とりあえずかごに入れる。

 こんなもんかとレジへ向かう際にふと、捨て値で雑に並べられている一年前のるるぶが目に留まった。

 旅先の情報なんて今時ネットでリアルタイムに刷新されたものが手に入るぶん、いくら纏められたところで古本としての価値は薄いのだろう。ここから適当な距離があって且つ見知った地名が拍子に書かれている一冊を、とりあえずかごに入れる。

 生活を灰の一色に塗りつぶされていた時期に、いつかいつかと望んでいたものたち。

 果たしてそれらが今でも本当に欲しいのか。

 手にしたところで楽しめるのだろうか。

 そんな心配は考慮に入れず、我慢のがの字もなく気の向くままに買ったつもりだった。

 しかしレジに表示された3万にも満たない数字を目の前にして、抱いていた高揚の隅にふっと陰が落ちる。


 ──抑えていたのは、こんなものか。


 思っていたより財布を薄くしないまま店を出る。

 何故だかここでも微かな惨めさを覚える自分がいた。

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