三十三幕 理想
色褪せた古い本の背表紙
机に積まれた羊皮紙の束
インクに浸されたペンが滑らかに走る音
そんな記憶が蘇ったのは、ユートの突然の質問と、この街独特の古い紙のような匂いがしたからかもしれない。
「……それはまず、前提が違うぜ。お前の世界じゃどうか知らんが、ここじゃどんな奴が学者になると思う?」
「平民じゃ難しいっていうのは分かるよ。学校に通えるのすら貴族みたいな上流階級、ましてや学者なんて普通の人じゃなれない。でもジャズは普通の人じゃないでしょ」
「勇者だからってか? 俺だって普通の人間だ。いや、それ以下だ。前に話しただろ、俺は孤児だった」
雪山で遭難したあの日、ユートには俺が勇者になる前のことを話している。
生まれは帝都より北側の名も無い村、親無しの俺は教会で育てられた。飢饉で村が潰れた時、教会に居た子どもを奴隷として売り払うのはさほど珍しい話じゃない。
俺も例にもれず、七歳の頃奴隷として売りに出された。
「確かに、俺を買ったのは北の学者……神聖都市の人間だった。その時に本を知った。知識を得た。それが楽しかったのは確かだ。それでも、俺は学者にはなれない」
「なんで? ジャズは頭が良いでしょ。魔鋼都市で色んな魔法使いと話したけど、ジャズに教えてもらったことを知らない人だっていた。それだけの知識があれば、冒険者になった後でも、一人でもう一度ここへ来て学者になる事だって……」
「そんな夢はもう捨てたッ」
ギリ、と引き結んだ歯が軋んだ。
驚きに目を丸くするユートの顔はもう視界に入らなかった。遠い日の記憶が目の前に蘇る。
七歳の頃奴隷としてこの街へ来て、五年間をここで過ごした。借金の返済が終わったとかでここを追い出された後、この街を出て冒険者になった俺は、三年間学院に通うための金を貯めてまたこの都市に戻って来た。入学資格をもらおうと訪ねていった先で言われた言葉が忘れられない。
「学無しは帰れ」
「え?」
「学校どころか、一般的な教養すらない学無しが来ていい場所じゃない。剣を選んだ人間がここで一体何をする? 場違いだから帰れ」
「…………」
「俺がここに戻って来て、学院の人間に最初に言われたのがこれだ」
生きるために剣を取った。死なないための技術を磨いた。それでも、この都市で過ごした五年間が忘れられなかった。知識を探求する喜びを知ってしまった。だから必死になって金を貯めて、入学資格をギリギリ認められる十五歳の春にここへ戻って来た。
その時に叩きつけられたこの言葉は、俺を芯から凍りつかせた。
「……でも、今なら。セルドゥルに話せばきっと、」
「学者になるには生まれが悪かった。素質があったから冒険者になった。そんなありふれた話だ。今さら、混ぜっ返すほどの事でもない」
思い出してしまったあの時の絶望感を、丁寧に折り畳んで心の底に沈める。全く関係のないユートに怒鳴ってしまった事を恥じながら、なるべく軽い調子に戻して俺は告げた。何より、一度敗れた夢をまた追いかけようと思うほど、今の生活に不満がある訳でもない。
「第一、俺はもう勇者になってしまった。対外的には勇者じゃないって言えても、俺自身が勇者であることを否定できない。俺が行けば解決すると分かっていることを、無視したまま放置はできない。だから俺はこれでいい」
俺がどうにか笑うと、ユートの瞳が揺れた。既に終わった話でこうも人に当たってしまったのが情けなかった。申し訳なさをごまかすように、ユートの頭を乱暴に撫でる。
「うわっ! 何するんだよ」
「余計な事に気を回してんじゃねーよ。お前は自分の事だけ考えろ。ほら、さっさとセルドゥルの家を探しに行くぞ」
「……うん、分かった。ごめんね、ジャズ。無神経だった」
「俺もお前も聞きたいこと聞いただけだ。気にすんな」
くしゃりと撫でた猫っ毛が手に絡みつく。乱暴に引きちぎってしまわないよう、丁寧に手を抜いた。ボサボサになった頭を整えながらユートが軽く笑う。
ようやく街に入ると、そこは神聖都市の名に違わぬ美しい街並みが広がっていた。それは四年前俺を受け入れなかったあの時から変わらない。それ以前の、奴隷として住んでいた頃ともそう変わっていない。
ここは外と隔絶されているからか、または学者が多いことの弊害か、変化の速度が非常に緩やかだ。ノルン山脈の岩を切り出して作る建物は伝統的な造りを未だに守り、どれも白く美しい。
「……すごい。この世界にはこんな綺麗な街があるんだ……」
「ここは例外中の例外。外じゃ絶対あり得ない。ここが気に入り過ぎて、お前もう外に出たく無くなるかもな?」
「え、そんなに?」
「歩いてる連中をよく見ろよ」
道行く人はみな上流階級の人間のような上等な服を着ている。ここは外ではありえない程、貧富の差が極端に少ない街だった。何故ならここは物々交換、どころか知識やアイデアにも価値を見出す人間が多い。幼い子供や非力な女性でも生活に困らないだけの金を稼ぐ手段があり、そうでなければ日常生活の世話なんかをして助け合う。
ある種の理想郷。賢い人だけが暮らす街だからこそ実現する楽園。それは以前ユートに聞いた元の世界の在り方を彷彿とさせるものだった。
「元の世界だってこんな良いもんじゃないよ。すごいね、ここでは本当に知識が一番高い価値観を皆が持ってるんだ……」
呆然と呟くユートに苦笑する。俺を絶望に突き落としたのもこの街だが、同時に戻りたいと恋い焦がれた場所でもある。この世界より恐らく高度な文明を知っているユートに、こうも手放しに称賛されるのは嬉しいものがあった。
むず痒い気持ちを抑えきれず、口角が上がったまま前に出る。
「じゃ、行こうぜ。俺が知ってる範囲でこの街を案内してやる。ついでに昼までにはセルドゥルの家を見つけないとな」
「はは、もう目的が逆になってるじゃん。でもすごい街だね! ジャズ一押しの場所を教えてよ」
満面の笑みを浮かべたユートが足取り軽く後を追う。あちこち指をさしながらこの街の歴史や、俺が住んでいた頃にあった出来事なんかを話すとユートは手を叩いて喜んだ。
ゆっくり進んだ俺達は昼も過ぎた頃にようやくセルドゥルの家を見つけた。白い壁に赤い屋根の家は1枚の絵画のように可愛らしく、思いの外広い畑に驚かされる。しかしお昼時に訪ねてしまったこともあり、セルドゥルの弟妹は不在だった。
「これは仕方ないよねえ」
「まあ、な。先に買い出しから済ませるか」
嬉しさを隠しきれないようににまにまと笑いながら言うユートをたしなめつつ、俺達は買い出しという名の観光を楽しんだ。美しく平和な街は奇人や変人への耐性もあるのか、ユートの突飛な質問にも笑って答えるおおらかさがあった。
「ここ、すごくいい街だね」
「……ああ、そうだな。俺もそう思うよ」
あの絶望は今でも胸の内にある。でも一度吐き出したからか、前のように時折思い出して苦しくなるような生々しい気持ちは減っていた。
今では素直にこの街を美しいと思える。
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