一.この砂を捧げて
*****
「母さん、違うよ……まだ、早すぎるよ」
「ねぇ……お母さん……」
「みなみ……俺を、置いていくのか……」
僕たち家族の悲痛な嘆きが病室に消えていく。
母さんは、検査結果を聞いたあの日から、まるで時間が止まったようだった。
医師は静かに告げた。「末期のがんです」
きっと、何度も口にしてきた言葉なのだろう。それでも、その声には命の重さと、尊さが滲んでいた。
いつ死ぬか分からない――その言葉が、部屋の空気を凍らせた。
三月一日、僕の中学の卒業式。母さんは僕が家を出て数十分後に倒れた。父さんがすぐに救急車を呼んでくれたおかげで、とりあえずは一命をとりとめたが、検査の結果、末期のすい臓がんと伝えられた。
「長くて、あと三ヶ月程かと」家族みんな状況を飲み込めなかった。
「どうにかならないんですか」
「もちろん、我々も手を尽くします。ただ、いつでも覚悟はしておいてください」
母さんは寝たきりになった。ろくにしゃべれもしないから、春休みの間は本当に独り言を永遠とつぶやいていた。
「母さん、俺さ、香織が産まれてきた時のこと、まだ覚えているよ。今でも自慢の妹だよ。香織を産んでくれてありがとね」
「母さん、言ってなかったんだけど、俺将来カフェ開きたいんだよね。ずっと応援していてね」
「母さん、もし元気になったら家族みんなで遠くまで旅行行ったりしようね。体が元気になるまで、僕毎日ここに来るからさ」
「母さん、俺、もし母さんが死んだらさ、」
母さんはしゃべることが出来なくとも、何度か涙を見せることはあった。その涙には、申し訳なさと不甲斐なさが入り乱れているように見えた。
毎日病室に入っては数時間思い出話に浸り、時には泣く。そんな日々が安定してきた四月十日、高校の入学式。僕は母さんに少し挨拶をしてから、傷一つない制服に身を包み、胸を高鳴らせて高校へ向かった。
校長の長い話も終わり、自分たちの教室へ向かっている最中、たぶん僕のクラスの担任の先生が肩をたたいた。
「今すぐ〇〇病院に来てくれ、とお父様から連絡がありました。教室には向かわず、そのままの格好で病院へ行ってください」
そういわれ、僕は涙をこらえながら駐輪場まで走って行った。車と並走できそうなくらい一生懸命に漕いで、母さんがいる病室に入る。
「母さん…」
「俺、今日、入学式だったんだよ」
「まだ早いって……母さん、違うよ……」
「ねぇ…」
「お母さん…」
「みなみ…俺を、置いていくのかよ…」
僕は母さんの頬に触れる。温度なんかなかった。冷め切った肌を、僕らは濡らしてしまった。
「申し訳ございません。最善を尽くして延命はしたのですが」
「大丈夫です。人間だれしも早かれ遅かれ死にますし、別れはありますから」父さんが母さんの手を強く握りしめながらそう言った。
それから、僕の中にある時計は、秒針ですらピクリとも動かなくなった。人生が、生きる意味が、その場ですべてなくなってしまった。
あの二人に救われるまでは。
母さんの通夜と葬式が無事に終わり、父さんは手続きを終えた翌日から仕事に出ていた。
「鈴太、学校は行けそうか?無理はしなくていいんだが」
「頑張りはするよ」
僕はしばらくの間学校は休むことにした。母さんのことで整理がつくまで。
学校を休むからと言って、ゲームをするわけでもないし、本を読むわけでもない。本当は母さんの部屋の掃除をしたいところなのだが、正直動きたくない。ご飯、風呂、トイレ以外で部屋から出ることはない。
本当に一日中ただぼーっとしている。
四月十五日、ベットに置いてあるスマートフォンが震える。内容を確認すると、中学から仲の良い野中からのメールだった。
野中:大丈夫?鈴太のお母さんの件、気持ちが整理してからでいいからさ、体調だけ は崩さないようにね
しっかりしていない僕を中学で出会ってからずっと支えてくれていた野中は、僕が心配だからという理由だけで僕と同じ高校に入学したらしい。
岸:大丈夫だよ、五月くらいにはいくからさ
そうは言ったものの、五月までに登校できるようになるかなんてわからない。でも、野中に連絡をもらったおかげで少し元気をもらった気がする。
中学のあの一件以来、僕は野中に付きまとっていた。この人といれば、弱くて何もできないネガティブな僕でも、少しは人生が楽しく感じられるだろう、と。
僕が中学一年生の時だ。誰よりも細身で低身長だった僕を、クラス全員でいじめてきた。暴言暴力は当たり前。男女問わずだ。しまいには、女子トイレに押し込まれ、 女子トイレに押し込まれ、無理やり水を飲まされた。さらに、人目のある場所で、耐えがたい屈辱を強いられた。
僕が中学生になったばかりの四月は、本当にいつ死んでもおかしくないようだった。
いじめていたやつらは陰湿なのか計画的なのか、僕の制服が汚れることも傷つくこともない。僕にはいじめていることを、誰にも言うなと釘付けされていた。僕が誰かに相談でもして、やつらが処罰を受けようものなら、本当に僕は殺されるのだとばかり思っていた。そんなことを言われれば、もちろん父さんと母さんにいじめられていることを言えるわけがなかった。
今思うと、先生は絶対気づいていたのだろうが、処理とか対応が色々めんどくさいのだろう。たまに他クラスの人たちもこのいじめグループに加担することもあった。有利なほうについておけば、よっぽどのことがない限り、負けることはないと思っているからだ。
いじめが始まってから約一か月が過ぎ、僕はとうに限界を越していた。ただ、親に迷惑だけはかけたくなくて、毎日登校はしていた。
「大丈夫。今日はずっと私の後ろについてて」五月に入ったばかりのある日。誰にも見つからないように図書室の端に座り込んでいると、頭の上で女子の声が聞こえた。
見上げると、野中が僕を隠すように立っていた。
「何が?後ろにいるったって、君に何ができるんだよ」
「君じゃなくて、私には野中紗千香って名前があるの。それはともかく、いじめられているんでしょ?ずっと見てきたけど、さすがに見過ごせなくて。だから助けてあげる。こう見えて、私極真空手黒帯だから」
「はぁ、まあそう見えてはいるけど」
「うるさいなあ。そんなこと言うなら、助けてあげないからね」野中はふっと笑いながらも、目は真剣だった。
正直、全部はったりかこれもやつらが仕掛けた罠か何かだと思っていた。
「信じてないんでしょ?……いいよ、見せてあげる。だから、しっかりつかまって、ついてきて」
疑いの目を向けていたのがばれてしまった。でもこの生活から抜け出せるかもしれない、小さな光も同時に差し込んできた。
とりあえず野中を信じて、僕は言われた通り野中についていくしかなかった。
「おい、何女引き連れて歩いてんだよ。クソチビのくせに調子乗ってんじゃねーぞ」
廊下を占領しているクラスのやつらが僕と目が合ったとたんに近づいてくる。途端にスタートを切ったと思うと、こぶしを固めて僕めがけて飛んできた。
しかし、速度を上げて迫ってくるそのこぶしは、すっぽりと野中の手のひらに収まった。
「手だけは出しちゃダメでしょ」
野中はそのまま相手の手首を九十五度に曲げた。
「痛い痛い、離せって」相手はそういうが、野中はその手を緩めようとしない。
「今後一切、岸に関与しないって約束できるなら離す」
野中は鋭い目つきで相手をにらみつけた。
「分かったって、もういじめたりしないから」
野中は手を緩めて相手を突き飛ばした。相手は涙目になっていたが、そんなのお構いなしに野中はそっぽ向いた。次に野中は僕の手を握って目的地もなく校内を歩き続けた。
屋上へ行けるドアの手前で僕の手を放して、野中は急に噴き出すように笑った。「ふふっ……あはは、なんか変だよね。女の子が男の子を守るなんてさ」
「なんかごめん、でもありがとう」
「謝らない」
「うん、ありがとう。へへっ」
これが僕と野中の出会いだった。この日以降、いじめはなくなり、僕は野中にくっつくようになった。
野中と校内を歩いたあの日、野中は僕になんて言ったか、まったく覚えていない。でもなぜか、今もう一度あの時と同じ声で聞きたい、そう思った。
野中:今は何もしなくていいから、復帰したらどっか遊び行こうね
岸:わかった、ありがと
特に大事な話もせず、僕は暇さえあれば野中とメールをしていた。高校ではそれなりにうまくいっているらしい。
以前と変わって異なり、野中のおかげで少し動けるようになった。母さんの部屋を少し掃除して、学校にいつでも行けるよう準備した。毎日少しずつ、自分ができることをした。
岸:明日頑張っていくようにするから
野中:待ってるよ
「父さん、明日学校行くから。学校に連絡お願いしていい?」
「分かった。もしきつかったら帰ってきてもいいからな」
高校一年だからと言って、休み過ぎたら留年してしまう。多少きつくても行かなきゃいけない。
五月十四日、母さんが死んでから一か月とちょっと、僕はその足で入学式ぶりに学校に行った。どうなるかわからなかったが、その時はその時だと思って。もし何かしらでいじめの対象にされても、僕には野中がいる。女子に頼るのはダサいが、この際は仕方がないだろう。
八時十分、僕は軽く深呼吸をして教室のドアを開ける。
「おはよー、あ岸君じゃん」
最初に声を出したのは、窓際に座っていた高橋伸司だ。
「おはよう、えっと名前は?」セーターに名前が書いてあったが、一応聞いておいた。
「高橋伸司。席となりだから、これからよろしくね。周りとなじむの難しくて話せなくても、俺とだけ話しときゃ何とかなるよ」
まるで僕の事情を全部知っているようたが、どこかから情報が回ったのだろう。
「ほら、俺と仲良くなっててよかっただろ」
高橋は、誰も僕に話しかけないと遠回しに言っていたが、それは間違っていなかった。僕が教室に入ってから約十五分が経過したが、クラス全員がそろっても誰も僕に話しかけるそぶりはなかった。クラスの一人と話すことが出来れば、なんとかなるだろう。
「まぁね」多分高橋は、コミュ力が高いというよりかは、ただ誰かと常に話していたいだけだろう。クラス内の雰囲気を見る限り、あまり人に好かれていなさそうだ。
「おはようございます。今日から岸鈴太君が学校に来てくれました。仲良くしてやれよ」入学式の日に僕へ母さんのことを教えてくれた教師が教壇の前に立つ。
「はぁい」全く力のない返事に僕は「お願いします」と負けじと小さい声で一言返した。
それからの高校生活では特にきついこともなく普通に過ごせていた。ただ、一つ残念なのは野中とクラスが離れていることだ。野中以外に同じ中学校を卒業した人はいない。クラスで仲良くできなくたって、なんとかなるはずだ。
僕と高橋は二組、野中は四組にいた。野中とは昼休みと放課後しか会える時間がないせいか、野中は会うたび嬉しそうな顔をした。昼ご飯はいつも屋上へ続く階段の踊り場で野中と食べていたが、しばらく経つと高橋とも一緒にご飯を食べるようになった。
「それにしても、空手黒帯ってすごいな」
「黒帯にするのは難しくないよ。時間がかかるだけで、それに今は、ケガしてるし」
「あ、いやまぁその話は無理にしなくても」中学三年の時に一度だけ野中の大会を見に行ったことがある。そこで野中は脚を壊してしまった。
体育館の空気を震わせるように、二人が激しくぶつかり合う。胴着が擦れる音が、張り詰めた空気をさらに鋭くする。
体育館内で四試合同時に行われていたが、他が試合している最中に野中の相手はバタバタと倒れていく。野中と同じクラブチームの人が話しているときにうっすらと聞いたことがあるが、どうやら野中は上段への蹴りが強いらしい。
三回戦、いまだ噂の蹴りは出ていないようだが、次の相手は少し有名な選手らしい。しかし、野中はそんなこと気にせず積極的に攻めていく。相手が倒れると、スカウトマンらしき人は首をかしげていた。
あと二回勝てば決勝だ。四回戦、準決勝でもペースを乱さず順調に勝っていった。ここまで来るのにまだ一度もあの蹴りを使っていない。始めて見られるチャンスだというのに。見られず終わってしまうのはもったいないが、最悪見られなくても、また見に行けばいい。
時間はたんたんと過ぎて、決勝戦。ここで勝てば全国大会だ。
広々とした体育館に野中と相手選手が向かい合う。決められた礼儀作法をして、審判が試合開始をの合図を出す。
まずはお互い相手の動きを見て攻撃を待つ。先に攻撃を仕掛けたのは相手だ。野中はカウンターできる形で待っている。野中は腹部にこぶしを入れられそうになると、体をひねってそれを回避する。野中は軽く足を上げて下段を狙う。相手がそれを読んで身をひねった瞬間、野中の体がしなるように後方へ倒れ、鋭い上段蹴りが空を裂いた。
野中は決まったと思っていたが、足をつけた時足首をねじってに体勢を崩してしまった。相手は自分が倒れる前に野中のすねに蹴りを入れる。野中と相手はほぼ同時に倒れる。
結局野中は足首をねじった勢いと相手の蹴りで靱帯損傷だった。当然試合にも負けて、野中は涙を流していた。
中学の卒業式後にその試合があり、今でもドクターストップがかかっている。
「野中はさ、めちゃくちゃ強いけどなんかかわいいよな。少し乙女っぽいところもあるし」
「いや、そうでもないよ」僕は口走ったようにその言葉を高橋にぶつけた。
なぜだろうか、別に野中を取られると思ったわけじゃないのに。
「いやいや、私ちゃんと女だから」野中は笑い交じりにそう言った。
それにしても、野中と高橋が仲良くなってくれて本当に良かった。合わなかったらどうしようかと考えていた。
僕は部活に入らず、毎日野中と二人で帰っていた。
「高橋は部活入ってるんだっけ?」
「入ってないよ。中学の時はバレーしてたらしいけど」
「そっか。あの、今度さ、おうち行っていい?久々にさ」
どうしてか、少しドキッとしてしまった。野中が最後に僕の家に来たのはあの助けてくれた時以来。最初で最後だった。だと思っていた。
「いいけど、部屋片づけるまで時間かかるし、ほんとに今度ね」内心うれしかったが、少し不安も残っていた。でもまぁなんとかなるだろう。
僕は翌日高橋にその件を伝えてみた。
「えっ、いいなぁ。やっぱ野中は岸に気があるよなぁ。しゃーなしか」
なんだこいつ。まさかとは思うが、野中が気になってるんじゃないだろうな。手を出すなと言いたいわけではないから別にいいけど。
「え、あ、高橋、野中のこと好きだったの?」
回答によるが、野中に手を出そうとしているたのはだいぶ肝が据わってるな。野中は告白してきた相手にどこを好きになったかと聞いたとき、もし「顔」と答えたなら、チョップが飛んでくるのを僕は知っている。高橋はそんなことも知らずどうせ顔が好きだとかなんとか言うのだろう。
それに、野中は恋愛などしたくないと言っている。
「うーん、好きっていうか。かわいいから一緒にいれたらうれしいよなって」
やはり顔だったが、どうも恋愛対象ではないといっているような答えだった。もし高橋が野中に気があろうと、高橋に野中はもったいない。
「そうなんだ」
僕はその日の授業中、部屋の掃除方法で頭を抱えていた。ありえないほど散らかっているわけでもないが、今の僕はそういうのを気にしてしまう。なんたって、高校生の男女だ。幼馴染なわけでもないし、親同士が特段仲良いわけでもない。
どうしようどうしよう。いろいろ調べてはみたものの、スマホの検索履歴に「男子高校生 モテる部屋」なんて残したくなかった。だけど、どこに何を置けばいいのかも分からなくて、ただ画面とにらめっこしていた。
いっそのこと、タンスに要らないものを全部詰め込んでしまおうか。そんなことを考えているうちに、六限目終了のチャイムが鳴った。
「はいそれではさようなら、気を付けて帰ってね」
僕らはそそくさと教室を出る。
「じゃあな」
「うん、お疲れ様」
高橋と僕の家は真反対だ。高橋はいつも駅からバスで登校しているが、僕と野中は自転車で登校している。めちゃくちゃ遠いわけじゃないが、四十分以上はかかる。野中ならもう少し早く着きそうだが。
「大丈夫?」漕ぐのが遅い僕にあわせて野中は自転車を走らせてくれている。
「うん、なんとか。ごめんね」
「謝らない」
誤り癖のある僕を、野中は厳しく注意する。
今日は五月二十二日、木曜日。僕はいつも通りの道を走っていると、野中は違う道を曲がっていった。
「着いてきて」薄暗い街の中で野中は太く強い声で僕にそう言った。
野中に追いつけるよう必死にたち漕ぎをして、やっと追いついたと思うと、野中は自転車から降りて駐輪場に止めていた。ここは、僕と野中の家のちょうど中間地点にある。一緒に登校するときは、いつもここで待ち合わせをしている。学校終わりにここへ来たのは初めてだ。
僕が自転車を止めているときに、野中はベンチに腰を掛けていた。
「早く来てよ」
「うん、急にどうしたの」
僕は小走りでベンチへ向かう。
「よいしょ、ほら隣きて」僕は何も思わず野中の隣に座る。
なんだか、最近やたらと距離を近く感じるのは気のせいだろうか。まぁ、今はそんなことどうだっていい。なんで急にここまで着いてこさせられたかだ。
野中は澄んだ瞳を下に向けながら、一度ため息をつく。
「えっと、話したいことがあるんだけど、いい?」
「うん」僕も身構えて野中の発す言葉を予想する。
恋愛相談か?勉強を教えてくれとか?それとも一緒にカフェ行こうとか?そんなことないか。
「ねえ、前に“家行っていい?”って言ったじゃん……あのね、やっぱり、お泊まりしたいなって思って」
野中は視線を伏せて、少しだけ照れたように言った。
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何が何だかさっぱりわからない。急にこんなことを言われても飲み込めるはずがない。野中が僕の家に泊まる?カップルでも、幼馴染でもあるまい。こんなことあっていいはずがない。正直、野中とずっと一緒にいると気まずい、というかなんせ男と女だ。それも立派な思春期の。これは断ろう、うん、そうしなきゃいけない。
「うん、お泊りしたい気持ちもわかるけどさ、ほら、今度母さんの四十九日だし、今は厳しいかも。ごめんね」
少し、いや、だいぶ申し訳ない気持ちになってしまったが、仕方がない。僕のこの貧弱な心で、友達とは言えど女子と二人きりなんて耐えきれるはずがない。
「え、そっか。急には無理だよね。いつでもいいからいつか行きたいな」
最後にボソッとつぶやいたその一言に心を持っていかれそうになった。
「じゃ、じゃあ、明後日だけなら。一日だけなら家で遊んでいいよ」
「やったぁ」野中は胸の近くで小さくガッツポーズをとった。
ずっと年上に見えていた頼りがいのある野中が、この瞬間だけは年下に見えた。そもそも同級生なのだが。
「じゃあ、掃除しなきゃだから、もう帰るね」僕はベンチから離れて駐輪場に置いてある自転車を取り出す。まだベンチに座り込んでいる野中を視界から流してすぐさま帰った。
確かに、五月二十九日は母さんの四十九日だ。だからと言って泊められないわけではない。本当に僕の心が持つわけがないだけだ。別に泊まったからと言って何かが起こることはないと思うが。
「ただいまー」
「おかえり、遅かったな。で、最近学校はどうだ?」
「別に大丈夫かな」
父さんは、僕がいじめられるのではないかと、まだ心配しているらしい。野中もいるし、僕も少しは顔も体格も成長したというのに。
僕はバクバクの心臓を落ち着かせることのできないままその日は寝た。すごくよく眠れた。多分過去一気持ち良い睡眠だったと思う。
寝起きはいつもと変わらなかったが、心なしか部屋の空気が透き通っているように感じた。部屋自体、ある程度整ってはいるが、もし女子を連れ込むのなら、もう少し物の配置を考えなきゃいけないだろう。
「じゃあ、いってくるね」今から会うのか。昨日の今日のことで、野中のことで頭がいっぱいだった。僕は意識しているのかもしれない。ただ、これは単なる遊びだ。高橋はああ言っていたが、実際野中から見た僕はただの友達なのだろう。
「行ってらっしゃい、気をつけろよー」父さんは僕の事情も知らず何気なく送り出す。
少し早く家を出たからか、集合時間より十分早くついてしまった。僕は適当にスマホを触りながら野中を待つ。部屋をどうしようかとここ三日間悩み続けている。悩んだところできれいになるはずがない。まずは自分の心をきれいにすることが必要なはずなのに。
「おまたせ」後ろから声を掛けられた。いつもなら何も思わないはずなのに、今日はなんだか、胸が跳ねた。
「あ、うん、行こっか」
野中は最近距離が近いし、なぜか胸は高鳴るし。これが恋ってやつ?そんなことはないか。なんてばかばかしいことを考えているのか、自分でも笑ってしまうほどくだらない。
そもそも僕と野中がつながれる運命なんかあるはずがないのに。
「なんでそんなぼーっとしてるの。いつも通り話しながらいこーよ。なんか怒ってる?もしかして昨日のこと?」
「あ、いや別にそんなことないんだけど。ごめんごめん」
「怒ってないならいいや。週末だから疲れてただけだよね」赤信号になった瞬間にブレーキを強く握ると同時に下を向いてか細く言った。
確かに、疲れているというのは一理ある。ただ、それは野中のせいでもあるのだが。僕の頭がまだ子供すぎるのかもしれない。いや、どっちも大人、なことはなく思春期真っただ中の考え方だろう
男女の友情は成立するしないの話ではない。野中からしたら僕は弟みたいに思われているかもしれないし、もしかすると男として見ているのかもしれないし、はたまたただの同級生か、それ以外の何物かとして見られているのかもしれない。野中に聞いてみないとわかるはずがない。聞いたところで、別の話に流されるのは分かっているが。
「うん、そうそう。そういえばさ、明日家行く前にあそこのカフェ行こうよ」
「それめっちゃいいかも!行こ行こ!」
野中は本当に単純だ。少し機嫌を損ねても、対処法なんか星の数ほどある。
「なに飲もっかなー。フードもおいしいからなぁ。全部買っておうちで食べてもいいよね」忘れかけていたが、野中は家が太い。父親は大きい貿易会社の課長で、母親はこの街にある数少ない病院の院長で。その娘が野中幸香だ。ご両親の顔は見たことないが、あの野中の両親だ。モデル級で間違いないだろう。
「食べきれるなら買ってもいいけど」その野中に対して僕の父さんは運輸会社のただの社員。母さんはスーパーのパートだった。別に貧乏ではないが、やりたいことはやらせてくれるいい両親だ。今は男手一つで僕と香織を育てている。長男である僕が家族に迷惑をかけるわけにはいかない。
今はただ、あの計画を完璧に実行できたらそれでいい話。よほどのことがない限り失敗することはないだろうが、念には念を、だ。問題があるとするなら、僕の気持ちが変わらないか。まぁ、その時はその時だ。
それからも他愛のない話を続けていると、時間ギリギリで学校に着いた。
「セーフ!入っていいぞ」校門に立っている生徒指導の先生がセーフのジェスチャーとともによく響く声で言った。
生徒玄関で野中と別れて、自分の教室へ向かった。
「おはよー」
「おはよ」
僕が席に座ると、高橋は変わらず寄ってくる。
「今日遊ばね?まだプライベートで遊んだことないじゃん」
「そうだっけ、あんま感覚ないな。遊びたい気持ちはやまやまなんだけど、ちょっと今日は厳しいかな」高橋のことは嫌いなわけじゃない。ただ、プライベートで遊ぶのは少し違うというか、正直言うと、めんどくさい。趣味も合わないし。高橋はどちらかというとオタク気質で、何かと興味ある者にはすぐ噛みつくタイプだ。
でも別に、僕は会話してくれる友達がいるだけでかなり助かる。困ったら頼ればいいし。高橋は頼りにならないだろうけど。でも、信頼はできる。馬鹿っぽいから。
授業は聞いていないのと同然なほどの中のことで頭がいっぱいだった。ずっと気が抜けているように見えたからか、何回も先生に注意された。考えても何かアイデアが湧いてくるわけでもないのに。本当に、無駄な時間がただ過ぎていくだけだった。
「鈴太、どうしたの。ずっと生きてる目してない。なんか悩み事あるの?」
「こいつさ、授業中も先生に怒られてんだよ」
「えーっと、まぁまぁ。いろいろあって」
こんなくだらないことで僕が相談できるようなタチではない。でも、話してみてもいいかもしれない。高橋ではなく野中に。本人に自分のことを聞かれてもどうしようもないだろうが、何かわかるチャンスでもある。今日の帰りに話してみてもいいな。
「はいじゃあ、さようならー」帰りのホームルームも終わり、高橋よりも早く教室を出る。あいつに話しかけられたら帰るタイミングを見失ってしまう。
「岸ー、あれ」廊下に出ようが関係なく高橋の声が聞こえてくる。
走って廊下を駆け抜け、誰よりも早く駐輪場で野中を待つ。野中のクラスは帰りのホームルームが長い。新任ということもあるだろうが、にしてもあまりに遅すぎる。仕方ないだろうが。
「おまたせ。ごめんだいぶ長引いちゃって」
「いいよいいいよ」このくらいじゃ怒るうちに入らない。というかそもそも、僕は懐が広いから怒るなんてことはしょっちゅうない。
「じゃあ行こっか」
野中に話したいことは決まっている。僕をどう思っているのかと、なんで家に行きたいのかだ。この心拍数で何事もなく聞けるかどうかが心配だ。
「明日何時にどこ集合するの?」野中ともプライベートで遊んだことなんてないも同然だ。何度か放課後カフェに行っただけだ。休みの日に遊ぶなんてことはあるはずがないかった。もし誰かに見られて変な噂が広まったらたまったもんじゃない。
「んー、十時にカフェ集合とかでいいんじゃないかな」
「わかった!」
もう少しで例の公園だ。どう誘おうか。さりげなく公園のに行くのはだいぶダサいし、男なら誠心誠意言うべきだろう。女性は押されたほうが何かと許可しやすい傾向にある、と今朝サイトで見た。
「今日も公園行かない?時間あるならでいいからさ」僕が誘おうといったん深呼吸をしたとき、野中が予想外の展開を作るよう唐突にそう言った。
僕は思いもしない台詞に、ためていた息を吹き出してしまい、せき込む。
「え、あ、うん。いいよ。僕もちょうど話したいことあったし」
少し右口角を上げてしまったが、たぶん傍から見たらだいぶ気持ち悪いだろう。質問の返答によっては今後の関係性に支障をきたすのかもしれないのに。
どうにか野中の隣に並んでペダルをこぎ、昨日と同じく公園の駐輪場に自転車を止める。
「それで、なんか話したいことあって公園行きたかったの?」
あわよくば野中から話を持ち出してくれないか、僕は心の中で神に祈る。
野中は少し不思議そうな顔をして僕の顔を覘く。
「え?鈴太が話したいことありそうだったから誘ったのに」
読まれていたのか、はたまたどこからか聞いたのかは分からないが、そんなことはともかく、話せるうちに話すしかない。
僕は先ほどと同じく深呼吸をして、野中の瞳をじっと見つめる。
「あのーさ、僕のこと正直どう思ってる?」
野中はあの時初めて見せた笑顔を彷彿させるような表情で息を吐く。
「ふぅ、私はただ鈴太と遊びたかっただけだよ。もしかしてだけど、私のこと異性としてみてるの?ってそんなことはないか」野中はしょぼくれているようにも、からかっているようにも見える目でじっと僕の瞳を眺めている。
「いやいやいやいやいやいやいやいや、そんなことあるわけがないじゃん」
「ふへ、そうだよね」
結局いいように逃げられた。何度も聞けば折れて話してくれないだろうか。
「僕は野中のこと普通に友達としてみてるつもりだけど、そっちはどうなの?」
「変に勘違いされたくないけど……うーん、友達以上、恋人以下って感じかな」
「そっか」
答えを聞けたのは大きい。ん?今恋人以下って言ったか?恋人以下?ふつうは恋人未満じゃないのか?さすがに恋人未満って言ったかもしれない。やばい素直に答えてくれたせいでちゃんと聞いていなかった。
ここでもう一度聞きなおすのはさすがに違うよな。違うよね。うん、さすがに聞きなおしはしないでおこう。
僕は下げていた頭を無理やり起こして野中の顔全体を見る。
絶対に、冗談を言っているような表情ではなかった。もしこれが野中の本音だとしたら、僕の人生が変わってしまいそうになる。それだけはだめだ。ここで我慢せねばならん。
「どうしたの、そんな真剣に私の顔見ちゃって」
「なんもないよ、ごめんごめん」
「謝らない」
考えていることがばれるわけにはいかない。嘘をついてでも、この場を乗り切るしかない。
「そろそろ帰ろっか」
「待って、明日の話は?」
野中は細く整っている眉の外側を下げて僕の手をつかんだ。
「あっ、ちょっ。そうだね、忘れてた忘れてた」やばいやばい、焦ってはだめだ。ここは冷静を保たなきゃいけない。
「じゃ、じゃあ、十時カフェ集合でいいんじゃない?」
あれ?この話はここへ来る途中にしたはずだ。野中も焦っているのか?それとも僕とまだ居たいからこんなことを聞いたとか?そんなことはないか。
「ってかこれさっき話したよね。ごめんごめん」
野中は左上を見ながらまるでそこに書いてある台詞を読み上げるようにそう言うと、やっと僕の手を離した。
「じゃあ、先帰るね」僕は昨日と同じモーションでそのまま自宅へ帰る。
昨日は帰ってきてからご飯を食べたのかも、風呂に入ったのかも、本当になにも可もわからず、八時三十分、目が覚めた。
とりあえずさっと風呂に入って、クローゼットの中から服を取り出す。どんな服がよいのやら全く分からないが、まぁ適当でいいだろう。僕はカーゴパンツとスウェットを着て、家を出る。
さすがに早すぎたか。プライベートで家を出ることなんてそうそうない。ここへ来れるまでの時間を考えていなかった。まだ九時半だ。とりあえず野中が来るまでここで待つか。
「お待たせ、っていうか早くない?」
僕が到着してからまだそんなに時間は経っていない。
僕はいじっていたスマホをポケットに入れて野中の全身を見る。なんというか、この世のおしゃれを全部詰め込んだような服装だ。露出度の高い服装が、僕には刺激が強かったようだ。でもまぁ、うん。なんとかなるでしょ。
「だいぶ早く来ちゃった。でもまぁ、いいでしょ」
「ね。とりあえず入ろっか」
首を縦に振らざるを得ない声でそう言った。
カフェの扉が静かに閉まる音が、耳に残った。
窓際の席に並んで座ると、外の光が野中の髪を淡く透かしていた。
「シュガードーナツとカフェオレ、でしょ?」
メニューを開く前に、野中が言った。
僕は少し驚いて顔を上げる。
「なんで覚えてるの?」
「だって、いつもそればっかじゃん。……気に入ってるんでしょ?」
その言い方に、なんとなく照れくささを覚えて、僕はうなずきながら視線をそらす。
野中は僕の顔をじっと見ていた。
その目が、何かを言いたそうに揺れていた。
「ねえ、今日だけじゃもったいないよね。次、どこ行こうか」
「次……?」
「うん。また来ようよ。……私、りんたといると、なんか落ち着くし」
その言葉に、僕は何も返せなかった。
落ち着く――それは、僕も感じていたことだった。
でも、それがどういう感情なのかは、まだうまく言葉にできなかった。
気づけば、カフェを出ていた。
あっという間だった。
何を話したか、細かいことはもう思い出せない。
ただ、野中がよく笑っていたことだけが、妙に鮮明だった。
「本屋、寄ってかない?」
野中が言ったとき、僕はすぐにうなずいた。
断る理由もなかったし、家に入れるまでに、鼓動の調子を直すにはちょうどいいだろう。
本屋の中は静かで、棚の並びが迷路みたいだった。 野中は文芸コーナーで立ち止まり、僕に背を向けたまま言った。
「りんたって、こういうの読む?」そう言って、青春やら恋愛やらの小説を手に持つ。
「うーん……あんまり」
「そっか。でも、なんか似合いそう」
その言葉に、僕は返事をしなかった。
似合いそうって、なんだろう。 野中の言葉は、時々、僕の中に小さな波を立てる。 でも、それが何なのかは、まだわからなかった。
本屋を出ると、陽射しが少し強くなっていた。 僕たちは並んで歩きながら、ほとんど何も話さなかった。
家に行くことは、前から決まっていた。
野中が「行ってみたい」と言ったのは、先週のことだった。 だから、今日の流れは自然なはずだった。でも、なんとなく落ち着かなかった。
野中の歩幅が、いつもより少しだけ小さく感じた。 僕の方も、無意識に歩く速度を合わせていた。
「……暑いね」
僕が言うと、野中はうなずいた。 それだけだった。 会話が続かないのは、別に気まずいわけじゃない。 でも、何かを言いそびれている気がした。
家までの道は、何度も通ったはずなのに、今日は少し違って見えた。
野中が隣にいるだけで、風景が変わる。 それが嬉しいのか、緊張なのか、自分でもよくわからなかった。
玄関が見えたとき、僕は少しだけ深呼吸した。 野中は、何も言わずに僕の隣に立っていた。
その沈黙が、妙に長く感じた。
「ほんとに、入っていいの?」
玄関の前で、野中が少しだけ足を止めた。
僕は鍵を開けながら、うなずいた。
「うん。誰もいないし……まあ、散らかってるけど」
「初めてだよね、りんたの家。なんか緊張する」
そう言いながら、野中は靴を脱いで、そっと廊下に足を踏み入れた。
僕の後ろを歩くその足音が、やけに静かだった。
「りんたの匂いがする」
「やめてよ、変なこと言わないで」
笑いながら言ったけど、心臓が少しだけ跳ねた。
自分の“生活”を見られることが、こんなにも落ち着かないなんて。
階段を上がる途中、野中は壁に飾ってある写真をちらっと見た。
僕が小さい頃、母さんと写っているやつ。
「これ、鈴太?」
「うん、昔の」
野中は何も言わずに、写真を見つめていた。
その横顔が、少しだけ真剣に見えた。
部屋の前に着いたとき、僕は一瞬、ドアノブに手をかけるのをためらった。
この部屋は、僕の“内側”そのものだから。
「入っていい?」
野中の声が、やけに優しく響いた。
「……うん」
僕はドアを開けて、先に部屋に入った。
野中がそのあとをついてきて、僕がベッドに腰を落とすと、野中は一瞬だけ立ち止まった。
視線がぐるりと部屋をなぞる。机、ベッド、本棚、窓。僕の生活が詰まった空間を、彼女は静かに吸い込んでいるようだった。
「思ったより、きれいじゃん」
「いや、昨日めっちゃ掃除したから」僕は笑いながら言ったけど、心の奥では少しだけ緊張していた。野中がこの部屋にいることが、まだ現実味を帯びていない。
彼女はベッドの端に腰を下ろして、クッションを抱えた。その動きが妙に自然だった。初めてのはずなのに、違和感はなかった。
僕はコントローラーを手に取って、ゲームを起動する。「やる?」「うん、負けないよ」画面が光り始める。ふたりの距離は、いつもより近い。肩が触れそうで、でも触れない。野中は笑っていた。僕も笑っていた。でも、どこかで意識していた。
ゲームの途中、野中が身を乗り出した拍子に、ベッドの枕がずれて、下からノートが滑り落ちた。
「あ、ごめん、これ……」
「ちょっと待って、それ……」僕は慌ててノートを拾い上げる。中身は、母さんが亡くなった後に書いた日記だった。野中は何も言わずに僕の動きを見ていた。その目が、少しだけ揺れていた。
「鈴太って、ちゃんと向き合ってるんだね」
「向き合ってるっていうか……まあ、なんとかやってるだけ」僕はノートを机の引き出しにしまって、深く息を吐いた。
沈黙が落ちる。野中は、何かを言いたそうにしていた。でも言葉にはならなかった。僕は画面に視線を戻す。ゲームのキャラクターが、何も知らずに走り続けている。僕たちの間にあるものは、まだ名前がついていない。
でも、何かが確かに、ここにあった。
沈黙の中、僕は画面を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……俺さ、母さんがいなくなってから、時間ってちょっと嘘くさく感じるんだよね」野中は顔を上げた。
「嘘くさい?」
「うん。昨日と今日の違いとか、朝と夜の境目とか、全部“そういうことにしてるだけ”っていうか。ほんとは、ずっと同じ場所にいる気がするのに、周りだけ勝手に進んでる感じ」
野中はしばらく黙っていた。僕の言葉が、部屋の空気を少しずつ変えていく。さっきまでの沈黙が、ただの“間”じゃなくて、“余韻”になっていく。
「……それ、わかるかも」野中は小さく笑った。
「私も、鈴太が学校に来れなくなったとき、時計の針が回る音がうるさく感じた。なんか、置いてかれてるみたいで」
鈴太はコントローラーを置いて、ベッドに背を預けた。
「でもさ、今日こうして野中が来てくれて、ちょっとだけ“今”ってやつを信じてもいい気がしたんだよね」その言葉に、野中は目を見開いた。少しだけ、頬が赤くなる。「……なにそれ、ずるい」鈴太は笑った。
「ずるいって言うなよ、真面目に言ったのに」
僕と野中、二人の間に、柔らかい笑いが生まれる。さっきまでの沈黙が、もう怖くない。部屋の空気が、少しだけ温度を持ち始める。窓から差し込む光が、野中の髪を淡く照らし、彼女の輪郭を少しだけ柔らかくしていた。僕は何も言わずに、その光景を目に焼きつけた。
野中は気づいていないみたいだったけど、僕はずっと見ていた。
そのあと、僕たちはしばらく何も話さなかった。
ゲームの画面は止まったまま。コントローラーを握ったまま、僕はただ、隣にいる野中の気配を感じていた。彼女も、何かを考えているようだった。
でも、それを言葉にする必要はなかった。
気づけば、窓の外がすっかりオレンジ色になっていた。
部屋の中にも、夕方の光がじわじわと染み込んでくる。
ゲームの画面は止まったまま。僕も野中も、しばらく何もしていなかった。
「……そろそろ、帰らなきゃ」
野中がそう言って、立ち上がった。その声が、部屋の空気を少しだけ現実に引き戻す。
「もうそんな時間か」
僕も時計を見たけど、針の位置がいまいちピンとこなかった。家での時間は、いつもよりずっと早く過ぎていった気がする。何か特別なことをしたわけじゃないのに、野中がいた時間だけが、ちゃんと流れた感じがした。
野中はバッグを肩にかけながら、僕の方を見た。
「また来てもいい?」
その言葉に、僕は少しだけ笑ってうなずいた。
「うん。次は、ちゃんと勝てるようにしとく」
「それ、私が言うセリフなんだけど」
野中は笑って、玄関へ向かった。僕はその背中を見送りながら、さっきまでの沈黙も、笑いも、全部が部屋に残ってる気がした。
ドアが閉まる音がして、部屋が静かになる。でも、さっきまでの静けさとは違っていた。少しだけ、温度のある静けさだった。
野中が帰ったあと、僕はしばらく動けなかった。
ゲームの画面は、まだ止まったままだった。 でも、再開する気にはなれなかった。
五月二十九日。
朝、父さんが黒いネクタイを締めていた。僕は制服のまま、何も言わずに隣を歩いた。
寺の本堂は、静かだった。線香の匂いが、少しだけ苦くて、でも懐かしかった。親戚が並ぶ中、僕はずっと手を合わせていた。何を祈るでもなく、ただ、目を閉じていた。
お経の声が遠くに響いて、母の声を思い出そうとした。でも、うまく思い出せなかった。
帰り道、父が言った。
「これで一区切りだな」
僕はうなずいた。でも、心の中では、何も区切れていなかった。家に戻ると、部屋の空気が少しだけ重かった。
野中が来た日とは違う静けさ。
僕は机に向かって、何も書かれていないノートを開いた。ページの白さが、やけに眩しかった。その夜、気晴らし程度にしていたゲームは起動しなかった。
母の写真が、棚の上で少しだけ傾いていた。
僕はそれを直して、何も言わずに部屋の電気を消した。
次の週末も、野中は来た。
その次の週も。
気づけば、彼女が僕の部屋にいることが“いつものこと”になっていた。
「今日、何する?」
「別に、なんでも」
そんな会話を交わしながら、僕たちは並んで座った。 ゲームをしたり、動画を見たり、時々黙ったまま過ごしたり。
沈黙が怖くないのは、たぶん野中だけだった。でも、何度も会っているうちに、僕は少しずつ“何か”を感じ始めていた。
それが何なのかは、まだわからなかったけど。
ある日、高橋が言った。
「最近、野中と仲いいよな」
「まあ、普通に」
「“普通に”って言葉、便利すぎだろ」
「……何が言いたいの」
「いや、別に。お前がそれでいいならいいけど」
高橋はそう言って、ジュースのストローをくるくる回した。その“それでいいなら”が、妙に引っかかった。野中との時間は、確かに心地よかった。 でも、それだけでいいのか。
そんなことを考え始めたのは、たぶんこの頃だった。
週が明けて、月曜の放課後。教室の窓から見える空は、少しだけ夏の匂いがしていた。野中は僕の席に来て、何気なく言った。
「今週末、また行っていい?」
僕はうなずいた。
「うん。別に、なんもないけど」
「なんもないのがいいんだよ」
野中はそう言って笑った。その笑顔を見て、僕は少しだけ胸がざわついた。
土曜日。
野中は前と同じ時間に来た。
インターホンの音が鳴る前から、僕はなんとなく玄関の方を見ていた。
靴を脱ぐ音、階段を上がる足音。
全部が、前より少しだけ馴染んでいた。
「今日、ゲームする?」
「うん。勝つよ」
「それ、私が言うセリフなんだけど」
同じやりとり。でも、部屋の空気は、前より少しだけ柔らかかった。ゲームの途中、野中が笑った。その笑い方が、前より少しだけ長く続いた気がした。
僕はその横顔をちらっと見た。何も言わなかったけど、見ていた。
夕方になって、野中は帰った。
「また来てもいい?」
「うん」
それだけの会話。でも、僕の部屋には、彼女の声が少しだけ残っていた。
その夜、僕はゲームを起動しなかった。画面の中のキャラクターより、今日の野中の笑い声の方が、ずっと鮮明だった。
靴の先がじんわり濡れるようになったのは、六月の二週目くらいだった。朝の空は白く曇っていて、教室の窓に水の粒が並ぶ日が増えた。
野中は、傘を閉じながら言った。
「今日、静かだね」
僕は、彼女の髪に落ちた水滴を見ながらうなずいた。
「音が吸い込まれてる感じ」
「うん。なんか、落ち着く」
気づけば、週末の部屋には彼女がいた。
それが“いつから”なのかは、もう思い出せなかった。
濡れた靴下を脱いで、僕の部屋に上がる。
「乾くまで、ちょっとだけ」
そう言いながら、長居するのが当たり前になっていった。
ある日、彼女が来なかった。
理由は聞かなかった。でも、その日の部屋は、やけに広く感じた。
七月の終わり、朝の空気が変わった。
窓を開けると、風が熱を含んでいた。遠くで蝉が鳴いていて、光が強すぎて目を細めた。野中は、麦茶を飲みながら言った。
「なんか、急に夏になったね」
僕は、彼女の横顔を見ながら思った。
僕からすれば、“急に”じゃなくて、“いつの間にか”だ。学校のチャイムが、遠くに聞こえる時間。
夏休みに入っても、彼女は来た。
週末だけじゃなく、平日も。
天気が悪い日、なんとなく暇な日。
チャイムの音は、もう生活音みたいになっていた。
「今日、昼ごはん食べた?」
「パン一個」
「じゃあ、冷やし中華作る」
「え、作れるの?」
「作れるよ。たぶん」
そんな会話が、部屋の空気に馴染んでいた。昼下がり、彼女はベッドに寝転んで、僕はゲームをしていた。
ときどき、彼女が笑う。
ときどき、僕が負ける。
その繰り返しが、夏の午後を埋めていった。も、ある日、彼女は来なかった。
スマホには何も届いていなかった。
僕は、ゲームを起動したけど、すぐに消した。部屋の静けさが、やけに耳に残った。
次の日は、来た。でも、少しだけ会話が少なかった。
僕は気づいていたけど、何も言わなかった。それが、よくなかったのかもしれない。
その日も、彼女は来た。
昼過ぎ、麦茶を飲みながら、何気なく言った。
「鈴太って、ほんと何考えてるかわかんない」
僕は、ゲームの画面から目を離さずに答えた。
「別に、考えてないし」
「そういうとこ、ずるいよ」
「……何が?」
「私ばっかり喋ってる。鈴太は、何も出さない。なんか、壁みたい」
僕は、少しだけ強く言った。
「じゃあ、来なきゃいいじゃん」
その言葉のあと、部屋が静かになった。野中は、麦茶のコップを置いて、立ち上がった。
靴を履いて、ドアを開けて、振り返らずに出ていった。
その音だけが、部屋に残った。
それから、彼女は来なかった。週末も、平日も。チャイムは鳴らなかった。
スマホも、沈黙を守った。僕は、ゲームを起動した。
でも、すぐに消した。画面の中のキャラクターが、やけに遠く感じた。
昼ごはんは、パン一個。麦茶は、自分で入れた。シングルベッドのはずなのに、僕一人には広すぎた。
外では蝉が鳴いていた。でも、部屋の中は、静かだった。
その静けさが、少しだけ痛かった。
始業式の朝、教室の空気は少しだけ重かった。夏の終わりの匂いが、窓の外から漂っていた。僕は席に座って、ぼんやりと前を見ていた。野中は、教室の隅にいた。目が合わなかった。
でも、そこにいることだけは、確かだった。
昼休み、高橋が僕の席に来た。
ジュースの缶を片手に、軽く言った。
「お前さ、野中に謝った?」
「……謝る理由、あるかな」
「あるだろ。あいつ、泣いてたぞ」
僕は、言葉が出なかった。
高橋は、缶を机に置いて言った。
「昼休み、屋上来い。野中も来る」
「……なんで?」
「俺が呼んだ。お前が来ないなら、俺が代わりに謝る」
「……行くよ」
「だよな」
屋上には、風が吹いていた。フェンスの前に、野中が立っていた。
高橋は、少し離れた場所でジュースを飲んでいた。
僕は、ゆっくり近づいた。
「……ごめん」
野中は、少しだけ顔を上げた。
「……うん」
それだけだった。
でも、彼女は少しだけ笑った。
高橋が、缶を投げて言った。
「よし、じゃあ俺は帰る。お前ら、勝手にやって」
その背中が、やけに頼もしく見えた。
屋上の風が、少しだけ涼しくなっていた。
野中が、手すりに寄りかかって空を見ていた。僕は、隣に立って、何も言えずにいた。
「……あのさ」
野中が口を開いた。
「鈴太って、さみしいとき、どうしてる?」
僕は、答えられなかった。
さみしいって、なんだろう。それを感じる前に、いつも黙ってしまう。誰かに言うことも、泣くことも、できなかった。
「わかんない」そう言うと、野中は少し笑った。
「だよね。私も、わかんない」
「でも、さみしいって、ちゃんとあるよね」
「うん。ある」
沈黙が落ちた。でも、さっきまでの沈黙とは違った。少しだけ、柔らかかった。
「私ね、鈴太の家に行くの、好きだった」
「……うん」
「でも、好きって言うの、ちょっと怖かった」
「なんで?」
「だって、鈴太が“じゃあ来なきゃいいじゃん”って言ったら、終わっちゃうから」
僕は、喉の奥が詰まる感じがした。あの言葉が、彼女にとってどれだけ重かったか、今になってわかった。
「ごめん」
「ううん。もういいよ」
「でも、ちゃんと言う。ごめん」
「……うん」
風が吹いた。
野中の髪が、少しだけ僕の肩に触れた。
それを、僕はそっと見ていた。
「また行ってもいい?」
「もちろん」
あんなに話したのに、それでも、屋上から戻る途中、僕はずっと考えていた。なんで、あんなことを言ってしまったんだろう。
言った瞬間の野中の表情も、はっきり覚えている。あれは、怒っていたんじゃなくて、傷ついていた顔だった。
僕は、野中のことを“いてくれる人”だと思っていた。でも、それは“いてくれる前提”でしかなかった。
彼女が何を感じていたか、何を求めていたか、ちゃんと見ていなかった。僕は、ただ黙っていた。
それが、彼女を遠ざけた。
野中が家に来るようになったのは、二週間くらい経ってからだった。
最初は、玄関で立ち止まっていた。
僕が「上がっていいよ」と言うまで、靴を脱がなかった。でも、少しずつ、空気は戻ってきた。
麦茶の味も、ソファの沈み方も、前と同じだった。
違うのは、僕が彼女の顔をちゃんと見るようになったこと。そして、彼女が僕の目を見て話すようになったこと。
たった一つの意識でだいぶ変わった気がする。僕も野中も。
九月の終わり、風が少し冷たくなった。
秋の空気は、静かで澄んでいた。僕たちの間にも、少しだけ透明なものが流れていた。
教室の空気が、少しだけ騒がしくなっていた。
初めての文化祭。段ボールや画用紙を持ち歩くみんなの顔が、少しだけ浮ついて見えた。
「お前ら、文化祭でなんかやれよ。仲直り記念に」
「記念ってなに」
「知らん。ノリだよ、ノリ」
野中は笑った。
僕も、少しだけ笑った。
その笑いのあと、沈黙が落ちた。でも、怖くなかった。段ボールや画用紙を持ち歩くみんなの顔が、少しだけ浮ついて見えた。
高橋は、ペンキの缶を持って廊下から戻ってきた。
「喫茶店って、なんか王道すぎない?」
「無難ってやつだよ」鈴太がそう言うと、高橋はジュースを飲みながら笑った。
「まあ、初めてだしな。張り切ってるやつ多いし」
野中は、教室の隅でメニュー表を書いていた。僕は、隣で紙を切っていた。
「なんか、みんなテンション高いね」
「うん。初めてだからじゃない?」
「鈴太は?」
「……まあ、ちょっとは」
その会話のあと、少しだけ沈黙が落ちた。
野中は、僕の切った紙を見て言った。
「雑だけど、まあいいや」
「ひど」
「でも、鈴太らしい」
教室の中は、甘い匂いと人の声で満ちていた。紙コップのジュース、焼き菓子、飾りつけのガーランド。みんなが少しだけ浮かれていて、僕たちもその中にいた。
エプロンをつけて、注文を取る。
野中は、カウンターの中でジュースを注いでいた。
「次、アイスコーヒー」
「はいはい」
そのやりとりが、妙に自然だった。
昼過ぎ、高橋がカウンターに来た。
「お前ら、ちゃんと働いてんじゃん」
「当たり前だろ」
「いや、なんか感慨深いわ」
「何が?」
「仲直りって、いいよな」
「うるさい」
高橋は笑って、ジュースを受け取って去っていった。
客足が落ち着いた頃、野中が、カウンター越しに言った。
「今日、楽しかったね」
「うん」
「来年も、こういうのあるのかな」
「あるんじゃない?」
「そっか。来年か」
その言葉に、僕は少しだけ黙った。
“来年”という言葉が、急に遠く感じた。今のこの時間が、ずっと続くわけじゃない。
それを、野中も僕も、なんとなくわかっていた。
文化祭が終わって、教室の空気が少しだけ静かになった。飾りは外されて、机は元の位置に戻った。
窓の外は、もう夕方の色をしている。
僕は席に座ったまま、ノートを閉じた。野中は隣の席で、スマホを見ていた。
「ねえ」野中が声をかける。
「ん?」
「この映画、観たことある?」画面には、古い邦画のタイトル。
「ない。タイトルだけ知ってる」
「観たいなって思ってて」
「へえ」
「…一緒に観る?」
僕は少しだけ黙ってから、
「いいよ」と答えた。
その返事に、野中は少しだけ笑った。その笑顔が、僕には“何かを確かめている”ように見えた。
とある日の昼休み、図書室で借りた本を抱えて昇降口へ向かっていた。途中、野中が後ろから声をかけてきた。
「最近、よく本読んでるね」
「うん。なんか、落ち着く」
「何読んでるの?」
「短編集。いろんな人の話が入ってるやつ」
「ふーん。鈴太って、いろんな人の話、好きなんだ」
「…そうかも」
「じゃあ、私の話も、聞いてくれる?」
「いつでも」
野中はそれ以上何も言わず、並んで歩いた。その沈黙が、僕には少しだけ重たく感じられた。
何かを言いかけて、言わなかったような。
それとも、言わないことを選んだような。
三学期が始まって、みんな寒さで震えていた。教室の窓から外を見ていた高橋が声をかけた。
「お前、最近ぼーっとしてるな」
「そう?」
「野中のこと、なんかあった?」
「別に」
「ふーん。まあ、あいつもあいつで、いろいろ考えてるっぽいけどな」
「何を?」
「知らん。でも、“待ってる”って言ってたぞ」
「待ってる?」
「お前が、何か決めるのを」
僕も、窓の外を見た。
空は白く濁っていて、雪が降る前の匂いがした。もうそんな季節なのか、野中と初めて遊んでから八か月。野中が今どう思っているのか、まだ理解しきれていない。
気持ちをはっきりできてない僕も”待ってる”のかもしれない。僕じゃ絶対無理だ、ずっとそう思っていた。
教室の空気は、少しだけ浮ついていた。
テストが終わり、成績も出て、あとは春を待つだけ。
僕は野中の席に向かって言った。
「映画、まだ観てないね」
「うん。観ようか」
「春休み、空いてる?」
「空いてるよ」
「じゃあ、観よう」
「うん」
その約束が、何かを繋ぎ止めるような気がした。でも、僕の中には、言葉にならない違和感もあった。野中の笑顔が、少しだけ遠く感じた。
僕も何となく感じていた。もう遅かったのかもしれない。
朝食の席で、香織が唐突に言った。
「ねえ、お兄ちゃん、最近いいことあった?」
箸を持つ手が一瞬止まる。
味噌汁の湯気が、目の前でゆらゆら揺れている。
「……別に」
答えながら、胸の奥がざわつく。
三学期の終わりに、ちょっとした約束をした。そのことが、ずっと頭の隅にある。
スマホはポケットの中。通知はない。
香織はもう興味を失ったようにテレビに目を戻している。
僕は、味噌汁をひと口すする。熱さが、そわそわした気持ちを少しだけ紛らわせた。
昇降口の掲示板に、人だかりができていた。
新しいクラス分け。僕は、自分の名前を探す。二年二組。
そのすぐ下に、高橋の名前も見つける。少しだけ安心する。
野中の名前は、隣の二年一組にあった。
胸の奥が、すっと軽くなる。ホッとした、してしまった。その感情に、自分でも驚いた。
隣で高橋が、僕の顔をちらっと見た。何かを察したように、何も言わなかった。その沈黙が、逆にありがたかった。
始業式は、例年通りの退屈な式だった。
校長の話は長くて、言葉は遠くて、僕の頭には入ってこなかった。でも、春休みの終わりに連絡が来なかったこと。野中との約束が、ただの気まぐれだったのかもしれないこと。それだけは、ずっと頭の隅に残っていた。
教室に戻ると、僕の隣の席はまだ空いていた。
教室に戻ると、僕の隣の席はまだ空いていた。
担任は、眼鏡をかけた細身の先生だった。出席番号順に名前を呼びながら、簡単な自己紹介を促す。
ざわざわとした空気の中、誰かが小声で言った。
「転校生が来るらしいよ」
「なんか、色素が薄いって……」
「アルビノってやつじゃない?」
「前の学校で、いじめられてたって噂もある」
「両親が離婚して、お母さんの方についてきたらしいよ」
「この高校、母親の実家の近くらしい」
声は小さく、でも耳に残った。
僕は、ちらっと隣の空席を見る。まだ誰も座っていない。でも、何かが始まる予感だけが、そこにあった。
最後に、担任が言った。
「では、転校生を紹介します。砂本さん前へ」
教室の前に立ったその子は、髪が白に近い銀色で、肌も透けるように白かった。目は伏せられていたけど、ちらりと見えた瞳は淡い赤だった。
静かに一礼して、口を開いた。
「砂本です。よろしくお願いします」
声は、思ったより低くて、でも柔らかかった。その瞬間、教室の空気が、少しだけ静かになった。
僕は、息をするのを忘れていた。何かが、胸の奥で音を立てた。砂本は、僕の隣の席に座った。筆箱を開き、教科書を机に置く。
その動作は、静かで、丁寧だった。
僕は、何か言おうかと思った。
「よろしく」とか、「噂なんて気にしなくていいよ」とか。
でも、口が動かなかった。僕は、そういうのが、ちょっと苦手だ。言葉が、喉の奥で引っかかる。
担任が、プリントの束を持って教卓に立った。
「春休みの課題、ちゃんとやってきたか? じゃあ、テスト始めるぞ」
教室の空気が、少しだけ張りつめる。
鉛筆の音、紙の擦れる音。
春休みの終わりに、何も始まらなかった。
でも、今。
何かが、始まってしまった気がした。
春休みの終わりに、何も始まらなかった。
でも、今。
何かが、始まってしまった気がした。
窓に背を向け、僕は逝く 透間 とら @sora_1226
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