窓に背を向け、僕は逝く
透間 とら
プロローグ
冬。
赤い光が夜の空気を切り裂くように点滅している。静かな田舎町に、時間を告げる音が響く。一時間に一本しか来ない列車が、遠くからゆっくりと近づいてくる。僕はその光に顔を照らされながら、線の前に立っていた。
風が強い。畑を抜けてきた冷気がコートの裾を揺らし、むき出しの指先に痛みを与える。でも、もう寒さは感じなかった。痛みも、恐怖もとうに忘れた。ここまで生きてきた。それだけで、十分だと思っている。
この場所に来るのは三度目だった。最初は下見。二度目は時間の確認。そして今夜が本番。三月一日、二十一時。誰にも言わず、誰にも頼らず、自分で決めた終わり。線の向こうに、僕の答えがある。
柵が完全に閉まり、警告音が夜に響く。赤い点滅が僕を照らしていた。あと一歩、その一歩で、楽になれるはずだ。何度もシミュレーションをした。風景も、音も、光も、全部覚えている。
電車のライトが遠くから僕を照らす。黄色から白に、やがて視界全体が光で覆われていく。さっきまであった冷たい夜の色が、徐々に消えていく。
その瞬間だった。窓に光とともに何かが映った。
走馬灯――これが走馬灯というものなのか。記憶が、電車の窓をスクリーンにして僕に語りかける。僕は吸い込まれるように、光の中へ足を踏み入れた。
***
雨音が響く玄関。
濡れた靴を脱がせてくれた母さんの手は、少し冷たかった。
でも、その手が僕の頬に触れた瞬間、心の奥まであたたかくなった。
「風邪ひかないようにね」と言って、タオルで髪を拭いてくれた。
僕は母さんの胸に顔をうずめて、泣きそうになるのをこらえた。
あの時間が、僕の世界のすべてだった。
***
視界がぼんやりと揺れ、静かな光が差し込む。
次に浮かび上がったのは、病院の待合室だった。
父さんの腕の中に、まだ小さな赤ん坊がいた。香織。僕の妹。
「かわいいね」
僕はそう言って、父さんの腕に手を伸ばした。
香織は眠っていた。小さな手をぎゅっと握って、まるで何かを守るように。
その日から、僕は兄になった。
香織は僕のあとをついてきて、僕の言葉をまねしては、僕の持っているものを欲しがった。
「お兄ちゃん、これなあに?」
「これはね、秘密兵器」
「ひみつへいき!」
笑いながら走る香織の背中を、僕は何度も追いかけた。
よく晴れた日だった。風が、香織の髪を揺らしていた。
記憶の中の香織は、まだ笑っていた。
僕の手を握り、何かを話そうとしていた。
けれど、その言葉は、もう届かない。
光が、彼女の姿の輪郭をゆっくりとぼかしていく。
***
足元に広がる光が、今度は僕を包み込んだ。
音が消えて、景色が白く染まっていく。
視界の奥に、見覚えのある構図が浮かび上がる。
くすんだ白い壁。窓から差す午前の日差し。風に揺れる制服の群れ。並んだ机。教室の扉が開く音。誰かが笑っている。誰かが走っている。
すべてが、僕の記憶の奥に沈んでいたはずの風景だった。
僕はその中に立っていた。
けれど、なぜここにいるのかはわからない。
ただ、懐かしさだけが胸の奥で静かに鳴っていた。
そして、時間はまた逆流を始める。
三年間の記憶が、ひとつずつ、僕の目の前に現れていく。
まだ、それが何を意味しているのかは、僕にはわからなかった。
でも、ここから始まる。
僕の知らない、僕の物語が。
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