3【水島出水】

 火村浄太郎の来訪と共に、宿の空気は完全に停止した。

 しかし不思議なことに、彼の来訪と共に、止まっていた時間が動き出したようでもあった。私と網島修理を除いたこの三人、水島出水さんと、倉木ほたるさんと、そして今はまだ名を知らないが火村浄太郎というこの三人は、いわゆる幼馴染という仲だった。

 幼き頃、彼らは三位一体であった。神木の山川で遊び、道を駆けた。確かな絆を世界に刻んだ。時間の概念がまだ希薄である幼き少年少女にとって、それは永遠に続く幸福な円環だったはずなのだ。なにせ子どもの世界は親と友達で完結する。そして、碌な親に恵まれなかった幼き日の火村少年にとって、この限りなく円に近い三角形は、何にも代えられない重大事だった。はずなのに

 彼は全てを捨てて消えた。理由は明白だった。だから誰も追うことが出来ず、一片の欠けた三角は一つの辺となって星と星を直線状に繋ぎ合わせた。けれどもそれは──互いに想い合っているが故の直線であると同時に、もう一点を失ったがために繋がらざるを得なかった孤独の嘆きなのである。


 出水さんは憤怒を隠そうとしなかった。それは何処か青ざめたような怒りで、絶望に近いものでもあった。視線は当然、火村浄太郎に注がれている。

 対して火村浄太郎はあっけらかんと首を捻る。ほたるさんから受け取ったやわらかなタオルで雨粒を取り払うと、彼の顔は少し童顔であるようにも思えた。

 二人は卓を挟んで向かい合っていた。正座で畳に膝を押し付ける出水さんと、だらしなく脚を伸ばした火村浄太郎は何処までも対照的に見えた。出水さんは出来の悪い親族を叱るようで、火村浄太郎は自室のベッドでくつろぐような──なに故であろう、対極であるはずなのに、彼らは同じ高さの土台で向き合っている。

 ぼたん鍋をがふがふと野良犬のように喰らう正面の網島修理に心底嫌気が差して目を背けると、視線はあんな二人を突いた。ほたるさんはずぶ濡れ組の介抱のためにもう閉めてしまった湯を沸かしに行って帰ってこない。 

 だからこの空間を掌握しているのは、絶対的に出水さんと火村であった。

「何故だ」

 先に口を利いたのは出水さんだった。怒りと重圧に踏み潰された声が惨めに喘ぐ。

「なんでって言われてもな。実家に帰ってきて何が悪い」

「ああ。おかえり」

「……ただいま」

「何故だ」

 問答は完全に平行線であった。しかし会話の糸口は混線していた。出水さんの中では恐らく接続しているであろう会話の文法は、無論と言うか彼自身以外にはまるで理解できない。火村は不機嫌になって後ろ手を突いて天井を見上げた。

 ぶつぶつと

 鳴るのは雨音ではなかった。出水さんの唇が微かに、蟲のように動く。読唇術の心得は無くとも、彼がひたすら【何故だ】【何故だ】と無暗に問うていることは理解された。雨雲に閉ざされて、星も月も威力を失ったこんな夜に、彼の瞳もまた澱み狂った泥中へと沈んでゆく。

 火村は怒った。

「あのなあ、いきなり来たのは悪かったけどよ──」

「何故だ」

「だから。何の話なんだよそれは!」

「何故なんだ……」

「は? お前疲れてんなら寝ろよ」

 夕刻頃までの理知的で真面目な水島出水は、その瞬間その場からいなくなっていた。ただそこに佇んでいたのは、まるで今にも泣きそうなほどに眼輪筋を引き攣らせた哀れな男だった。

 持ち上がった顔に火村は目を剥いた。明らかに尋常ならざる感情に支配されたその表情は、彼の被ったレザージャケットも金色の髪も薄化粧も、取り繕うための全てを破壊した。

 弾と

 ダンと、音が弾けて、出水さんは目の前の男の胸倉に掴みかかる。火村はまるで反応できていなかった。すべてが理解不能だったからだ。火村にとっても、私にとっても、きっと出水さん自身にとっても、全てが理解不能に理不尽であった。

 水島出水は蛇口を少しずつ捻るように語る。

「ほたるちゃんの……おや、親父がさあ……俺とほたるちゃんを結婚させようとしてんだよ……あの子の心は十二年前からずっとお前にあるのに、あの人は自分のことしか考えてない。俺、次の町長になるんだ。だから死ぬまで此処にいる。ほたるちゃんは俺と結婚したらずっとこの町の虜だ。何処にも行けやしない」

 胸倉を掴むという絵面に反してその語気は弱弱しかった。何を言っても、今更言っても、何も変わりはしないのだという納得が既に彼の中心では為されているように思われた。顔面からすべての液体を垂れ流しながら、出水さんは嘆く。人の不幸を。自らの不幸を。

 しかし不幸というものは──幸福の裏に落ちる影なのだと、今はまだ誰も認識していなかった。

「なんでいなくなったんだよ、浄ちゃん。お前がいてくれれば……俺はこんなこと知る必要も無かったのに、お前が……俺は出来ることはしたんだ……」

 細い枝が折れる音がした。心の枝葉が丁寧に丁寧に、一欠けらずつ手折られてゆく。それは最早、縋ることの出来る藁ほども残ってはいなかった。溺れる者は藁をも掴もうと藻掻き苦しむ。しかし事実として剪定された滑らか木肌の表面には藁ほどの救いもありはしなかった。だからせき止められた激情は涙腺を氾濫し目の色を変えた。自らの救いになる者が金輪際の光を失った時、人は頭の回路を切り替える。ストレスに狂ってしまわないように──迸る感情の方向を少しだけ狂わせてやる。狂わぬように狂うのだ。自分自身を守る為に。もしくは自分の世界を守る為に。 

 水島出水は絶叫した。名前を貰えなかった感情が怪物となって自傷に等しい行為に浸る。

「お前がァ! お前がもう少し──もう少し早く帰ってきていれば! 俺は……ほたるちゃんは!」

 油絵具を全て同じ皿に絞り出したようだった。覆せぬ過去と固定できぬ未来が、しかし完全に接続してしまって世界の理が破壊される。殺意とも違う、隔意とも違う。強いて例えるのであれば後悔の念に近しい破壊衝動が水島出水を襲い、同時に火村浄太郎に喰らい付いていた。

 火村はまったくの無言だった。一番近い場所で狂乱する威力を吹きつけられているというのに、冷静に瞳を逸らさない。けれども強く噛み締められた唇が、彼が単純に冷酷であるという仮説を木っ端と砕いていた。

 出水さんはそんな様子に一層憤った。自らの苦痛を、苦悩を、目の前の人間が理解できないことは更に苦しみを上乗せにする。背骨が変質して生まれた巨大な十字架を、一人で背負わざるを得ない。これはまったく、幻想なんかではないのだ。

 狂獣が吠える。

「全部おるェ、おれ……俺たちのせいだ!」

 呂律は崩壊していた。舌は自らの首を絞めて、あらゆる滑らかな発音は叶わなかった。

 しかし

 水島出水という人間が誇らしく、愛に殉ずることを選ぶ人間であると私が少なくとも断定できるのは、彼がこの月亡き夜に同胞を求める飢獣の様子から、自己の心臓を取り返したからであった。

 出水さんは、吐き気を抑えるように口元に手を叩き付ける。ただしそれは数秒だった。直ぐに涙も涎も鼻水も拭ってしまうと、眼鏡を外して、切れ長の目で睨みつける。

 彼の前方には火村浄太郎しかいないというのに、その睥睨はなに故か、火村に向けられているものではないと、部外者の私にも理解された。隔意が眩む青い瞳が、夜雨の冷気を全て吸い込むように柏手を打つ。

「だから浄太郎。俺たちは、俺たちにしかできないことをするぞ」

 確かな決心と断定。もう十二年会っていなかった火村浄太郎が、自分の意見に賛成すると頭から信じ切っている様子で、それは信仰であり畏れでもあった。自らの中に築いた【火村浄太郎】は、必ず、この中身も知れぬ誓いと小指を結ぶのだと、彼は知っていた。

 だから彼は言い切るのだ。これだけは絶対なのだから。

 これは幼き頃から途切れなかった確かな絆の叫びなのだから。

「ほたるさんは、俺たちで守る」

 




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