2【火村浄太郎】
人は何時だって、何かに縛られて生きている。それは不幸だと思うか? いいや、縛ってくれるものの無い人生など、何者からも求められていないことと同義だ。だから愛というものは重くなくてはならない。軽い愛は俺を海底へと沈めてくれないのだよ。
などと最近の軽音楽みたいなことをほざこうが、俺が人の信頼を裏切る詐欺師であるという事実は一向にねじ曲がらないのである。結構あるよねこういうこと。良いこと言ってるっぽいけどお前すげえ屑じゃない? って。言葉がどれだけ清くても、吐く唇が穢れていては意味が無い。だって人間だから。心があるから。トイレを流す水は綺麗だろうけど、じゃあ飲めるかって違うでしょ。
して、そんな屑が夢見の心地も悪い電車にどんぶら揺られて訪れたのは神木町という田舎であった。町ってか村っぽい。田んぼは未だ青々と山の麓まで続いている。自然たっぷりかつ外来植物なんぞも生えまくる植物のサラダボウルである。それ普通のサラダじゃね? とかそういうのは置いといて気持ちのいい場所だった。深呼吸をする。
「……かびくせ」
大雨が降っていなければ、もっと心地よい景色だったんだろうか。根っからのアーバンシティボーイの俺の心を動かすに足る景色は、明日のお日様には期待しておくこととする。雨宿りする駅の屋根はトタンか何かで出来ていて、雨音を弾いてガンガン響く。これはこれで嫌いじゃない──とかそういう感じで『風情でござい』と流せないと情報社会はストレスの温床である。
迷走と逆走を繰り返す思考がなに故ぐるぐるしているかと言えば、俺自身混乱しているからであった。これが深呼吸に頼ったもう一つの理由である。
めちゃくちゃ厳ついおニーさんが同じ屋根の下で雨宿りをしていた。
彼は俺が駅に着いた頃には既にいて、何かを待っているようだった。電車か、タイミングか、それは分からない。
ぎゃんぎゃんにセットした金髪に、堅気には見えないメンズメイクをして、服装は大変失礼ながら裏社会が服着て歩いているようである。おニーさんは胸ポケットから取り出したタバコが湿っていることにイラつき、はてに溜息を吐いて仕舞い直した。
そんでもってそのまま佇んでいてくれたならば良かったのだけれども、なに故かおニーさんはこちらを向いた。目が合った。懊悩と頭が叫ぶ。目が合うということは俺が先に見ていたということでもある。『おい何ガンくれてんだてめー』とか言われたら普通に漏らしたのを隠す為に雨中へテイクオフせねばならぬ。
しかしておニーさんは俺に手を合わせると、そのぎゃんぎゃん頭を下げた。
「タバコ持ってない?」
「すません俺十九なんで……」
「そうか……吸うもんじゃねえぞこんなの」
ひらひらタバコの箱を振ったが中身が湿っているからか音は出ない。そしてちょっと良いことを言った代わりにおニーさんの眉が苦痛に歪んだ。
ああぜってえ悪い人じゃねえわと思ったのは束の間、そのままおニーさんは地面にへたり込んだ。
「……何もないだろこの辺。何しに来たんだ?」
辺りを見渡してみたが俺以外に人はいない。カエルが多少鳴いているだけである。なれば問い掛けた相手は、俺だ。
「昔、彼女と紅葉狩りに来たんです」
一応答えたがおニーさんは返事しない。なんだこの野郎、会話はキャッチボールだぞ。などと壁当てしかしたことの無い奴が心中怒る。
しかし暫くして彼は、
「……へえ、いいな」
そう一言だけ述べてまた黙りこんだ。
自分のミスに気付いたのはその時だった。
『昔、彼女と紅葉狩りに来たんです』とだけ言えば、俺と当時の彼女が今別れていることは自明だろう。なんせ見るからに一人旅なのだから。そして同時に、喧嘩別れをしたのならば態々思い出の地に来たりしない。
だから彼は黙ったのだ。
「すみません」
「なんでおめーが謝るんだ」
「それでも……すみません」
俺は少なくとも、このおニーさんを悪い人だとは思えなくなってしまったのだから、彼の気分が落ち込んだならば謝りたかった。
まるで勢いを落とさず、むしろボルテージを上げてゆく雨の風景を眺めて、金髪の派手な男と真白い詐欺師が並んでいた。
『このまま水が溜まってゆけば、水没するのではないか?』
そんな幻想が頭蓋の水槽の中で揺れる。
「何もねえよ。ここには」
おニーさんの声はガラガラに枯れていたから、雨の中でも尋常に届いた。トタンに打ち付ける雨だろうと意に介さない声色は、なに故か大樹のような安心感を抱かせた。
「この町は今から、少し荒れる。俺が来たからだ。後回しにできる用事なら帰った方がいい」
「さあ、どうなんスかね」
ズルい答え方をした。全てを語らない詐欺師の解答。
しかし町が今から荒れるというのも、この人の所感に過ぎない。自分が町に拒絶されると決め込んでいるからこんなことを言うのだろうけれども、案外今の人間というものは懐が広い。けばけばしい風貌も何時しか慣れるものである。現にけばけばしいおばあちゃんなら、少し前に一週間連続で見てだいぶ慣れた。
「おニーさんこそ後回しにできるなら帰ってもいいんじゃないスか」
「あん?」
「雨ざんざか降ってるのに、そんな高そうな革靴履いてるあたり、おニーさんもこの辺の人じゃないでしょ」
おニーさんは自分の足元を確認して、そのままニヤリと笑った。
「やるじゃない」
「そりゃあどうも」
「でも残念、俺の帰る場所は此処だ」
「ええ……」
結構うまいこと言ったと思ったのに、現実は何時も無情である。山と田んぼしかないくせに座布団一枚くれやしない。
「男が汚れも厭わずに洒落なきゃならんときは何時だ?」
そんな間抜けな感想とは異なって、おニーさんは面白い問答を投げつけた。まるで捻りの無いストレートな問いだというのに、気分はなに故か一休さんだった。頭を捻らねばこの答えは出ないとも考えていたし、すぐに頭に浮かぶような言葉を述べれば後悔するとも考えていた。
だから俺は少しの間、雨音に従って頭のパズルを整理して
「──好きな女を口説くとき」
俺の中の完璧を答えた。
おニーさんは吹き出し豪快に笑う。人を指差して笑うというのは一般的に下品でよろしくない行為のはずであるが、なに故か嫌な気分はしなかった。嘲笑とは程遠い、腹の底からの笑い声だったからだろう。
「いや! いいね! 正解だ。よくわかってる」
しかしおニーさんは立ち上がる。その背は俺よりも頭一つ分ほど高かった。
そして上がっていた口角を微笑むくらいのとろ火に落とす。
「だけどもう一つ、あるんだよ。男が洒落なきゃならないとき」
豪放磊落な様子は冷や水をかけたくらいにスと消えた。彼の温度はみるみる下がってゆく。ただ一点、彼の青い火に近しい瞳を除いて。
明確な転換期。一つ、大いなるルールを自分の中で定める瞬間が、彼の中で訪れているように感ぜられた。
最後に一度、髪のセットを掻き上げる。
「待たせた女を迎えに行くときだ」
その目は信念故に、確かに燃えていたのだ。
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