貴方の為に切った爪
固定標識
1【神木町】
【神木町】
豊かな山々に囲まれ、世俗の喧噪とは離されたのどかな町。所感としては町というより村の方が近しかった。しかしいたずらに指摘すれば山狩りに遭うだろう。人の逆鱗というものは、龍のようにわかりやすく逆立ちしていない。
名前の由来は以下の通り。代々この周辺の山々には鹿が多く生息していたと言う。
【鹿が鳴く、しかなき、かなき、神木。故に神木町。何かご神木があるわけではないので悪しからず】などと役場の薄いパンフレットには書いてあった。誰も手に取る人がいなかったのだろう。長く放置されたそれは湿気を吸って軽く歪んでいた。
事実この村の名産は鹿肉であり、もみじ鍋は一度は食べるべき絶品らしい。
──背の低い泡をふつふつと立てながら鍋が煮える。鉄なべを支える囲炉裏の火は目に優しくも輝いた。
人はこういうものをゆっくりと座して眺める時、どうしても心穏やかになる。
鍋の準備を終えて手持無沙汰になったのか、女中さんのほたるさんが私に声を掛けた。
「天伊さん、もう少しお待ちくださいね」
ほたるさんは私よりも一つ年下の二十歳の女性だった。しかししっかりしていて、よく動きよく働く。そして笑顔を絶やさない。こういう人がいるから世界はあたたかくいられるのだなあ、などと妙な感想が浮かぶのもまた致し方なし。
山奥の神木町には旅館がこの【行灯庵】、一つしかない。観光目的で来る人も少ないのか、一人の客人に対してもほたるさんは張り切っていた。まず初めて受付で目が合った時の言葉が「都会の人だ……」であった時点で吹き出しそうになったが、なんとか堪えて彼女の中の都会像を守ったのだから誰か、褒めて欲しい。
誰かおらんかや、と周囲を見渡してみても私以外に客はいない。少なくとも視界にいたのは厨房のおばちゃんと、相好堅い眼鏡の青年──水島出水さんだけであった。
「どうでしょうか、神木は。不便なところですがどうかお楽しみください」
囲炉裏越しの向かいに座る出水さんは少し緊張した面持ちで言った。
出水さんはこの町の次期町長となる人で、歳はほたるさんと同じ二十らしい。若いのに立派なことである。と思うけれども口に出すと皮肉っぽいから呑みこんだ。生真面目そうな眼鏡に火が反射していてちょっと面白い。
なに故次期町長ともあろう人が、たかが一介の旅行客の夕食に居合わせているかと言えば、仕事の都合であった。
私は大層胡散臭い仕事をしている。
とても人に言える職業ではないし、履歴書になんて書けるはずもない。転職は望み薄だ。だからこんな仕事を選んだ時点で私の人生というものは詰んだも同然であるが、しかし辞められないのだから厄介である。
【遺書代筆屋】
死した人の、生前の断片を搔き集め、繋ぎ合わせ、残された生者のために文を紡ぐ。
誠に胡散臭く信用ならず、同時に鼻持ちならないどうしようもない仕事である。職業に貴賤は無いと胸を張るには、どうにも頭が痛い。
出水さんのひいおじい様──水島哲司さんが亡くなったのは丁度一か月ほど前のことだった。齢九十五にして家族に看取られての大往生ではあったが、彼にはまだまだ大きな責務があった。町長としての責務である。
今まで哲司さんの手腕一本で動かしてきた町の政を、果たして次に受け継ぐのは誰なのか? 水島家では論争となった。しかしなんだか虚しいのは、その論争が押し付け合いであったところである。こんな辺鄙な町の町長なんぞやってられっかと醜い争いが始まった。哲司さんも草葉の陰で泣いていよう。
唯一多少乗り気であったひ孫の出水さんが町長を継ぐことにはなったものの、しかしその意志は固まり切らなかった。当然だ。齢二十にして生まれ育った町を任されることのプレッシャーなど、私には想像もできない。
だから私が呼ばれた。
依頼人は他でもない、出水さん本人であった。
彼は前町長が、どれだけ出水さんを人として買っていたのか知りたいと言う。彼に自信を付けてやるために、私は駆り出されたわけである。
交通の便もよろしくない寒村にて文を紡ぐ。乗り気ではなかったけれども、しかしここ最近、どうしようもない連中と長くいたせいで心が鈍っていたような感覚があったため、ここらで一つ清浄な空気を吸ってみるのも良いかもしれないしと引き受けた。そしてまあ、もう一つ理由を挙げるとするならば。
若き青年が自らの道を選ぼうとしているのだ。自分に貸せる手なら、貸してやりたいではないか。
自ら選んだ道を後悔すると、それまでの過程の全てまでが間違っていたのではないかという猜疑に駆られ、人の心は容易く潰れる。実体験として。現在進行形として。
そんな愚か者は、せいぜい二人もいれば十分なのである。
して、そんな仕事が終わったのが本日の夕刻。つまりは今より完全に休暇である。
大雨が降っていたのは残念だったけれども、こうしてゆっくりと夕飯の準備を待つのはなんだか嬉しい。降りしきる雨音はやさしく鼓膜を叩いて、心の凝りがほぐれてゆく。久方ぶりのゆったりと流れる時間に、微睡みの波が寄せては返す。幸福な時間の使い方だった。
だんだんと煮えてきた鍋から、もう満足してしまいそうなほどに美味しい匂いが漂ってきた。口角がにんまり上がりそうになって、慌てて指で押さえる。いい、時間だった。
だから
見るからに派手な格好をした、ヤクザな男が旅館に乗り込んできたときには、いらっとした。
そいつは雨に濡れて気色悪く光る黒のレザージャケットを脱ぐと、整髪剤が溶けてぐちゃぐちゃになった金髪を持ち上げた。化粧もしているようだった。あまり好きな人種ではない。
彼は嬉しそうに、子どものような笑みを浮かべていた。思いっきり笑う人間というものは、善人かアホの二択であるから、この時私はそいつのことをとんでもないアホだと思い込んだ。
しかしそんな一時の思い込みは、彼と同時に目に飛び込んできた度し難い事実に塗りつぶされる。
金髪は──火村浄太郎さんは──傍らに大きな荷物を抱えていた。そいつはどうも人間らしい。すわ死体か事件かと神経が逆立ったのは、ここ最近の煩雑な仕事のせいだったのかもしれない。その死体のような何かは真っ白だった。しかし雪のようだ──だとか幻想的な比喩はそれには似合わない。触れればこちらの手まで染まりそうな、絵の具のような白さだ。
嗚呼。頭が痛い。
その物体には見覚えがあった。だからそれが死体ではないこと、殺しても死なないくらいに生き汚くしぶとい人間であること、人を騙して涙で飯を食う詐欺師であることは完全に理解された。
ただしコイツのタチの悪い所は、自分の涙で飯を食う所である。
詐欺師・網島修理。私の行く先々で死にかける男。十九歳。
「おっす。出水。ほたる」
浄太郎さんは酒かタバコか、枯れた声で二人に呼びかけた。
出水さんは完全に固まっていた。目の前の現実が受け入れられないようで、同時に怒るように青筋が浮いていた。歯を食いしばり、眉毛が燃える。
対してほたるさんは、魂が抜けてしまったかのように口は空いたまま塞がらない。
「人が落ちてたから拾ってきたわ。結構面白いやつだよ。このままだと死にそうだからあったかいもんくれ。金は払う。あ! カード使えないのか……」
浄太郎さんは賑やかだった。動作がくるくる早着替えして、見ていて飽きない。きっとこういうところが人に好かれて、同時に気に障る人もいるのだろう。
「あ、やっべ。言うの忘れてた」
だから彼は死んだのだ。こういう人間だから死んだのだ。
好悪というものは、あまりにも薄っぺらな壁で挟まれている。それはまるで、黒白のように。そして同時に愛が善悪の彼岸を飛び越えたばかりに、彼は死んだ。
「ただいま」
火村浄太郎は笑う。囲炉裏の火も掻き消さんばかりに最高級の笑みを投げかける。
ほたるさんは泣き声を上げて座り込んだ。そんなほたるさんの元にいち早く駆け付け、肩を抱いてやった出水さんは、ねじ切るくらいに唇を噛む。
網島修理がくしゃみをして、一日目の夜が始まった。
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