第3話 おかえり
「気がつきましたか」
少女は、ふっくらとした寝具に包まれて、目を覚ました。
枕元の椅子に腰かけている、上品な貴婦人の姿が見えた。
彼女のことは覚えている。
「……フレイザー侯爵夫人?」
少女の言葉に、貴婦人は嬉しそうに目を細めた。
「アニスリゼット王女殿下。覚えていてくださって、言葉もありません」
侯爵夫人は侍女に手伝わせて、少女を助け起こし、ケガの具合を確かめる。
医師が呼ばれ、食事が用意され、身だしなみが整えられた。
肩と左手に包帯を巻いた少女は、幸い、起き上がって歩くことができた。
体に負担のないように、軽い素材のデイドレスを着せると、少女の手を取って、侯爵夫人がひざまづいた。
「アニスリゼット王女殿下。あなたは今日から我が家の娘です。あなたの名は、アニス・フレイザー。フレイザー侯爵家の長女です」
少女———アニスは目を見開く。
フレイザー侯爵家は、王都の三大騎士団のひとつを束ねる。王都の剣と呼ばれる名門侯爵家。
その娘になるとは、どういうことだろうか?
戸惑いの色を隠せないアニスに、侯爵夫人は優しく言葉を続けた。
「アニスリゼット王女殿下。殿下はフレイザー侯爵令嬢アニスとして、新しい人生を始めるのです。生きるために」
アニスは驚いて侯爵夫人を見つめた。
「国王陛下は、殿下のことを承知しておられます。殿下が陛下の命を救ったことを、心から感謝されています。同時に、殿下とご家族に起こったことを、心から悔いておられます」
「それは———」
「時を戻すことはできません。しかし、未来に生きることはできるだろう、と国王陛下はおっしゃいました」
***
一ヶ月後。
ランバート国王はフレイザー侯爵夫妻とその娘である侯爵令嬢の到着を待っていた。
病弱のため、長く領地で療養していた侯爵令嬢が王都へ戻って来たのである。
由緒ある侯爵家の令嬢をわざわざ王宮に招くということで、国王は侯爵令嬢とタイラス王子を引き会わせたいのではないか、と人々は噂をした。
「国王陛下には、ご機嫌麗しゅうございます」
「侯爵、夫人、久しぶりだな。令嬢も顔を上げるがよい」
侯爵家の面々が顔を上げると、ランバート国王は、控えていたタイラスを軽く押しやる。
「これは我が息子、タイラスだ。まだまだ勉強中の身だが、なかなか見どころがあると思っている。タイラス、ご令嬢のお相手を頼むぞ」
「はい、陛下」
侯爵夫妻と並んで、美しいドレス姿のほっそりとした令嬢が立っていた。
優雅にドレスをつまみ、カーテシーをする。
上品な、ブルーグレーの光沢のあるドレス。
若い令嬢にはいささか落ち着きのある色合いだったが、胸元を幾重にも飾るフリルとリボン、お揃いのリボンチョーカーとカフスが、愛らしく華やかだ。
美しく結い上げた髪は、白。
髪に飾っているのは、ピンク色のバラのコサージュだった。
タイラスはそろそろとアニスに近づくと、ぎこちなく視線をさまよわせた。
「タイラス、ご令嬢に庭園を案内してはどうか?」
「はい、陛下」
ランバート国王の一言で、覚悟を決めたタイラスは、そっとアニスに手を差し出した。
侯爵令嬢が優雅に手を重ねる。
変わらず、小さな手だった。
「アニス嬢。では……庭園に参りましょうか」
「はい。殿下」
二人は黙って、広間を抜けていった。
***
「アニス嬢……いや、アニスリゼット王女殿下」
アニスはふわり、と笑った。
「アニス、とお呼びください」
タイラスは覚悟を決めた。
「私が北庭で出会ったのは、あなただったのですか?」
アニスはうなづいた。
「はい。わたくしでした」
「その髪は、なぜ白いのです」
「わたくしは一度、死んだのです」
豪華なドレスの裾をさばくしぐさも、優雅に手を預け、エスコートを受ける様子も、何もかもが自然に見えた。
アニスがもともとは高貴な生まれだったのは、疑いようがない。
「家族全員で、毒杯を賜りました」
アニスは言った。
「それは、死ぬほどの苦しみで。でも、わたくしは悟ったのです。この毒は、わたくしに死を与えるには、少なすぎた、と。気がついた時には、東に向かう舞踊団の馬車の中にいました」
アニスの若草色の瞳から、涙がこぼれた。
「誰かが———誰かが、わたくしの毒を減らしてくれたのでしょう」
タイラスが彼女の涙を見たのは、これが初めてだった。
「目が覚めた時には、わたくしの髪はすでにこの色に変わっておりました」
タイラスとアニスは見つめ合う。
「なぜ、王宮に戻られたのですか」
「新国王陛下を祝福するために」
「あの時、なぜ———私にあなたの名前を明かしてくれたのですか?」
「あなたに、探し物を届けるために。もし、今でも探してくれているのなら、ですが」
アニスは微笑んだ。
タイラスの口から、自然にあの言葉がこぼれ出る。
「『生まれ変わっても、絶対あなたを探し出す』」
「『わたしの帰る場所は、あなたのところだけ』」
アニスもまた、自然にタイラスに言葉を返した。
アニスは茶目っ気たっぷりに笑った。
「……タイラス、ずっと見つめあっているつもり? まあ、今回は時間はたっぷりあるけれど」
そう言って笑ったアニスの顔は、懐かしい、くたびれたドレスを着ていた頃のアニスそのものの表情で。
「あなたはわたくしが王女だろうと、踊り子だろうと、何者だろうと気にしないと思ったわ。違う?」
タイラスは破顔して、ぎゅっと、アニスを抱きしめた。
アニスはタイラスの腕の中の温もりを噛みしめる。
長かった、これまでの時間———。
タイラスは、万感の想いを込めて、言った。
「おかえり、アニス」
【短編】わたしの帰る場所は、あなたのところだけ 櫻井金貨 @sakuraikinka
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