第3話 黎明

水深500メートルの深海を航行する暁翔。その艦内は、冷たい金属の壁に囲まれた静寂の中で、低い機械音だけが響いていた。外の暗闇に覆われた世界は、昼も夜もない。だが、その中には確かに生物の息吹と未知の影が潜んでいる。


艦内では乗組員たちがそれぞれの任務をこなしつつも、不穏な空気を感じ取っていた。先ほどの不明潜水艦ドローンとの遭遇、EMPの使用、そして米軍の動向――それらのすべてが、何か大きな動きの前触れのように思えた。


指令室で、技術担当の藤崎玲奈が冷静にモニターを操作していた。彼女の指先は、艦内システムのチェックとAI解析のデータ確認を進めている。だが、その表情には疲労と緊張が滲んでいた。


「藤崎、大丈夫か?」

副艦長の大村修一が声をかける。彼は指令室全体の空気を感じ取りながら、乗組員たちを気遣っていた。


「ええ、大丈夫です。ただ……。」

藤崎は操作を続けながら言葉を切る。「どうしても引っかかるんです。このデータ、明らかに私たちを試す意図があります。普通の遭遇ではない……。」


大村は腕を組み、険しい表情を浮かべた。「試す? 誰が? 米軍か? それとも……。」

彼の言葉が終わる前に、通信士が緊張した声で報告した。


「艦長、新たなソナー反応を確認しました!」

通信士の声が指令室を引き締めるように響く。全員が一斉にモニターに目を向けた。


「またか……。」

大村が低く呟く。藤崎はすぐにモニターを操作し、AI解析を進めた。


「確認します……これは、さっきのドローンとは異なる動きです。かなり高度な航行パターン。これは……通常の無人潜水艦ではありません。」


その言葉に艦内がざわめく。モニター上には、不明潜水艦の動きが詳細に表示されていた。それは一定の距離を保ちながら、暁翔を追尾しているように見えた。


「追尾している……明らかにこちらを意識しているな。」

大村が険しい顔で言う。


藤崎はさらにデータを分析しながら口を開いた。「この動き、どこかで見たことがある気がします。けれど、正確なデータと一致しない。新型の潜水艦、あるいは……」


彼女の言葉が終わる前に、艦長席に座る風間悠馬がモニターを指差した。無言のその動作に、全員が注目する。


「ここか……。」

藤崎がつぶやく。風間が指した場所は、不明潜水艦の動きの一部。AI解析では、その航行パターンに奇妙な癖があることが示されていた。


「この動き……我々を挑発しているように見えます。」

藤崎が緊張した声で言うと、大村が応じた。「挑発だとしたら、こちらの反応を試しているのかもしれん。」


「もしくは、別の目的があるかもしれません。」

藤崎がさらにデータを確認しながら付け加える。「電子妨害は試みていませんし、攻撃的な行動もない。ただ、何かを探しているような……。」


その時、風間が静かに口を開いた。「航路変更、左15度旋回。速度を落とせ。」


その指示に全員が一瞬驚いたが、すぐに行動を開始した。風間の命令には無駄がなく、明確な意図が込められていることを乗組員たちは感じ取っていた。


「左15度旋回、速度3ノットに減速。」

航海士が報告する。


暁翔は静かに進路を変え、速度を落としながら、不明潜水艦との距離を微妙に広げ始めた。その動きは、相手に対して自らの意図を隠すような慎重さがあった。


「艦長、不明潜水艦の反応が少しずつ遠ざかっています。」

ソナー担当が報告する。その言葉に艦内の空気が少しだけ緩む。


しかし、風間の表情には変化がなかった。彼はじっとモニターを見つめ、その奥に何かを読み取ろうとしているようだった。


「これで終わりじゃない……。」

藤崎がモニターを見つめながら呟いた。その言葉に、大村が振り返る。「何か気づいたのか?」


「ええ。この潜水艦、ただのドローンや無人潜水艦とは違います。明らかに、人間の意思が関与しています。」


その言葉に艦内が再び緊張に包まれる。乗組員たちはそれぞれの持ち場で作業を続けながらも、心の中で何か重いものを感じていた。


「電子妨害も攻撃もしてこない……。だが、何か意図がある。」

大村が低く呟く。その言葉には、不安と疑念が混ざっていた。


艦長席に座る風間は、再び沈黙に戻った。その静かな姿勢が、乗組員たちに不思議な圧力を与えていた。彼の沈黙は、考え抜かれた意図の裏返しであることを全員が感じ取っていた。


大村が小声で話しかける。「艦長、これは……一体どういうことなんでしょう?」


風間は彼に視線を向け、短く答えた。「まだわからない。だが、相手はこちらを試している。」


その言葉に、大村も黙った。風間が何を考えているのかを探ろうとしても、その先は見えない。ただ一つ確かなのは、この状況がますます複雑になっているということだった。


艦内の緊張が続く中、通信士が新たな情報を報告した。「艦長、新たなソナー反応を確認しました。不明潜水艦とは別の反応です。」


その言葉に艦内がざわめく。モニターに映し出された波形は、これまでのものとは異なる新たなパターンを示していた。


「別の反応だと……?」

大村が驚きの声を上げる。その言葉を聞きながら、風間はじっとモニターを見つめていた。その瞳には、確かな決意が宿っていた。


深海の闇の中で、暁翔は新たな脅威と対峙しようとしていた。


暁翔は水深500メートルの静寂の中を航行していた。

艦内の空気は張り詰めているが、同時にどこか異様な落ち着きが漂っていた。指令室のモニターには、先ほどまで追尾していた不明潜水艦の反応が完全に消えている。それでも、乗組員たちは緊張を解くことなく、自分たちの任務を続けていた。


艦長の風間悠馬は指令卓の前に立ち、黙ったまま窓の外を見つめていた。その表情は無表情ながらも、どこか確固たる決意を秘めている。彼はすでに、自分の中で一つの結論に達していた。


「艦長、これからの方針を確認させていただきます。」

副艦長の大村修一が静かに問いかけた。その声には緊張と疑念が入り混じっている。

「このまま通常任務を続けるのか、それとも……。」


風間はその言葉を遮るように、静かに口を開いた。

「通常任務はここで終了だ。」


その一言が、艦内の全員を凍りつかせた。指令室にいる乗組員たちが、同時に顔を上げて風間を見た。


「終了……とは、どういう意味ですか?」

大村がさらに問いただす。彼の声には戸惑いがあったが、それ以上に何かを察したような色が混じっている。


風間は静かにモニターを指差した。そこには国際海域における各国の軍事的動きが表示されていた。特に目を引くのは、米軍の艦隊が不自然な形で集結している様子だ。


「この艦の力を、日本政府だけのために使うつもりはない。」

その言葉は冷静でありながらも、明確な決意を帯びていた。


「艦長、それは……独立を意味するのですか?」

藤崎玲奈が震える声で尋ねた。技術担当として冷静でいようとする彼女も、さすがにその言葉の重みを無視することはできなかった。


風間は静かに彼女を見つめ、頷いた。

「この艦の力は、国家という枠組みを超えた平和の象徴となるべきだ。『暁翔』は今日をもって日本の支配から離れる。」


指令室に重い沈黙が降りた。乗組員たちはその言葉の意味を理解するのに数秒を要した。国家の指揮下を離れる――それは、裏切りとも、反乱とも取れる行動だった。


「そんなことをすれば、我々は反逆者扱いされます!」

大村が声を荒げた。しかし、その声には完全な拒絶の意志ではなく、まだ揺らぎがあった。


「反逆者でもいい。」

風間は淡々と答えた。「重要なのは、我々がどのような意志を持って行動するかだ。


風間は指令室中央に立ち、艦内放送のスイッチを入れた。その瞬間、艦内の全乗組員に向けて彼の声が響き渡る。


「全乗組員に告げる。これより、この艦は『暁翔』ではなく、『黎明』と名乗る。」


その言葉に乗組員たちは再び衝撃を受けた。暁翔――その名は、日本が誇る最新鋭潜水艦としての象徴だった。その名を捨てるということは、完全に国家から離れることを意味する。


「我々はもはや、どの国の指揮下にも属さない。黎明――それは、新しい秩序の始まりを象徴する名前だ。」


風間の声は静かでありながらも、艦内全体を圧倒する力強さを持っていた。


艦内放送が切られると、指令室に再び沈黙が訪れた。大村が息を呑み、震える声で問いかけた。

「艦長、本気なのですか? 私たちは日本政府のために……いや、国民のために存在しているのではないのですか?」


風間は静かに彼を見つめた。

「国家のために戦う。それが本当に国民のためになるのか?」

その問いかけに、大村は答えることができなかった。


「国家という枠組みが、争いを生み続けている。その枠を超えた秩序を作る。それが、この黎明の使命だ。」


乗組員たちは動揺しながらも、風間の言葉に耳を傾けていた。彼の信念の強さが、次第に彼らの心に浸透していくのがわかる。


「黎明は、新たな平和の形を示す旗艦となる。」

風間のその言葉に、指令室の空気が変わった。それは、混乱の中に一筋の希望が差し込んだような感覚だった。


風間は再びモニターを見つめ、短く指示を出した。「この艦の現在地を、国際的に公表しろ。そして、我々が独立を宣言したことを発信する。」


藤崎が驚きの声を上げる。「本気で公表するのですか?」


「隠れる必要はない。」

風間はそう断言し、静かに付け加えた。

「我々は、力を持ちながらもそれを振りかざさない存在であると示す。それが、黎明の初めての使命だ。」


その瞬間、黎明の航海が新たなステージに突入した。国際社会の秩序を揺るがす深海の艦――その名は黎明。その存在が、世界にどのような影響を及ぼすのか、誰もまだ知らなかった。


東京・総理大臣官邸の会議室では、緊急招集された閣僚たちが集まり、重い空気の中で議論を交わしていた。

その中心に座るのは、冷静ながらも険しい表情を浮かべた石破総理大臣。その隣には、中谷防衛大臣が居並び、会議室のモニターには「暁翔」――いや「黎明」の独立宣言の映像が何度も再生されていた。


「中谷大臣、説明を願いたい。」

石破総理は低い声で言った。その声には、冷静さを装いながらも怒りを抑えた色がにじんでいた。


中谷防衛大臣は額にうっすらと汗を浮かべながら、慎重に言葉を選んだ。

「現在、我々は暁翔――もとい黎明の行方を捜索中であります。しかし、深海での捜索は困難を極めており、正確な位置を特定するには時間がかかります。」


「時間? 我々には時間がないんだ。」

石破総理は机の上に置かれた手を握りしめた。「黎明が独立を宣言したことで、国際社会における日本の信頼はどうなる? 我々が制御できない技術を持っていると認識されれば、日本全体が標的にされるぞ。」


「その点については重々承知しております。」

中谷は深く息を吐き、続けた。「しかし、黎明の技術力とその抑止力を考慮すると、安易に軍事行動を起こせば逆効果になる可能性があります。今は慎重に動くべきです。」


石破総理は冷たい視線を向けた。

「慎重? 大臣、黎明の技術が他国に渡ればどうなるか理解しているのか? EMPシステムにAI制御、我々が誇る最新鋭技術がそのまま兵器として利用されるかもしれない。」


「その危険性は承知しています。」

中谷は首を横に振った。「しかし、艦長の風間悠馬という男は、単なる反逆者ではありません。彼は中東での国連任務で幾多の危機を乗り越えた実績を持つ男です。その信念が今回の独立宣言につながっているのではないかと……。」


「信念だと?」

石破総理の声が一段階低くなった。「信念で国際秩序が守れるのか? 彼がやっているのは、ただの国家反逆だ。」


中谷は言葉に詰まりながらも、意を決して反論した。

「総理、それでも暁翔が――いや、黎明が単なる反乱者として行動しているとは思えません。彼の目的を分析する必要があります。そして、適切な対処を……。」


石破総理はしばらくの間、黙ったまま考え込んでいた。そして、ゆっくりと中谷に視線を戻すと言った。

「それでも、我々の責任は変わらない。黎明を放置することは許されない。自衛隊を動員して、暁翔を制圧する準備を進めろ。」


その言葉に、中谷は驚いた表情を浮かべた。「総理、それは……戦闘を意味します。黎明はただの潜水艦ではありません。我々が力ずくで抑えに行けば、深海での戦闘が泥沼化し……」


「それでもだ。」

石破総理は断固たる口調で言った。「このままでは日本の威信は失墜する。国際社会に対して、日本が自らの技術を制御できない国だと示すわけにはいかない。」


中谷は深く息を吐き、ためらいながら頷いた。

「……了解しました。ですが、現場の判断には柔軟性を持たせていただきます。」


「そうしろ。」

石破総理は短く答え、机の上の手をわずかに握りしめた。


会議が終わり、廊下を歩く中谷防衛大臣は、額に滲む汗を袖で拭いながら、一人ごちた。

「風間……お前は一体、何を目指している……?」


その言葉は誰にも届かない深い問いだった。彼は、自分がこれから下す決定がどのような結果を招くのかを誰よりも恐れていた。


一方、深海を航行する黎明では、風間が艦橋で静かに指令を出していた。

「全艦、監視システムを最大限に作動させろ。どの国の艦艇も接近させるな。」


藤崎が冷静な声で応じる。「艦長、日本政府も追跡に乗り出しているようです。自衛隊の艦艇がこの海域に向かっています。」


風間は無言のままモニターを見つめた。その目には、深い決意が宿っていた。

「かかってくるなら受けて立つ。それでも、我々の意志は曲げない。」


黎明は、深海の静寂の中で新たな道を進み始めていた。その先には、さらなる試練と選択が待ち受けていることを、風間も乗組員たちも理解していた。

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