第3話 レインバース市街地区を歩く(2)
「これいくら? 2つ欲しいんだけど」
大熊族の獣人の男は、毛深い指を3本だけ立ててその質問に答えた。
戸鞠鳥とまりは了承したように頷くと、
「足りないからまけてもらっていい?」
戸鞠鳥とまりは手を合わせて申し訳ないというポーズをとる。
「……毎度あり」
獣人の男が渋々といった様子で林檎を2つ手渡すと、戸鞠鳥とまりは「ごめんね」と言って受け取った。
レインバース市街地区の貧民街では、蜘蛛の巣のように張り巡らされた細い通りのあちらこちらで、街の住民や外からやってきた商人が露店を開いている。屋根がついた屋台もあれば、地面に大布を敷いただけの店も多い。
黄路華が交易の中継都市として栄えたという歴史的な背景もあって、この貧民街も交易の重要な拠点として機能しているのだ。
戸鞠鳥とまりは買ったばかりの林檎をさっそくかじりながら、レインバース市街地区の西側のその先へ、つまり、貧民街から出てレインバース市街地区も抜けて、黄路華の中枢である中央市街地区へ向かおうとしていた。
空は快晴。散歩日和だった。
戸鞠鳥とまりは歩きながら一冊の本を取り出す。それは、ザラド
廃法堂には世界中から魔法に関する古書が流れ着いており、時には古代の魔法都市で出版された物さえあった。
戸鞠鳥とまりが手に入れたのは、300年以上昔に出版された魔法の歴史に関する本だ。人が扱う魔法がどのように誕生し、人と共にどう発展してきたかが細かく正確にまとめられている。古書としては希少なものではあったが、歴史に関する本は需要が低く、廃法堂では埃をかぶっていた。
「いい本だな。『世界の礎』の一人、大賢人アシャラザードの古書か」
戸鞠鳥とまりが貧民街を抜けて、レインバース市街地区を横断するルゼン大通りを歩いていると、いつの間にか横に並ぶようにして歩くスーツ姿の男がいた。スラっと伸びた長身で、短髪の頭、目つきは鋭く、メガネをかけていて、いかにも役人といった風貌だった。
戸鞠鳥とまりは本を閉じて足を止めずに男のほうを振り向くと、特に驚いた表情を見せることなく返答した。
「君が調査団のハロンって人? ザラド爺から名前は聞いてたけど」
ハロンと呼ばれた男は鋭い瞳を少し開いた。
「ああ、俺がハロンだ。しかし眉毛一つ動かさないとは驚いた。ザラドの爺さんから魔法に詳しい人間と聞いてはいたが、何者なんだ」
二人はそのままルゼン大通りを西へ向かう。
戸鞠鳥とまりは「ボクは何者でもないよ」と言って手をヒラヒラと振った。
「そんなことより君を探す手間が省けて助かった。ありがとね」
ハロンは中指でメガネを持ち上げた。
「……何者でもないとは思えないが、まあいい。礼もいらない。戸鞠鳥とまりだったか。お前にハインツェルの件について話すのは構わないが、ここでは場所が悪い」
戸鞠鳥とまりは頷く。
「ついていくよ。いろいろ教えてほしいし。本当はハインツェルに行って調べられたらよかったけど、無理だろうからね」
今度はハロンが頷く。
「ハインツェルの焼け跡が教会によって浄化されたことも把握してるのか。機密事項のはずなんだがな」
「地獄の魔力の
「まあ、それはそうだな」
ハロンは納得して2度だけ頷いた。
それから少し歩くと、ハロンが「あれだ」と言って道の端に停車している寂れた馬車を指さした。
「役人にしては粗末なものに乗ってるね」
そう言いながら戸鞠鳥とまりは何も気にせず馬車へ向かうので、ハロンは呆れた表情で彼女を見た。
「判断に微塵も迷いがないとはずいぶん余裕だな。自分で言う話でもないが、急に現れた初対面の人間を簡単に信頼するなよ。……いや、俺が舐められてるのか?」
ハロンは考えるような仕草で顎を触るが、戸鞠鳥とまりは気にすることなく肯定する。
「そうだね。ボクは君を舐めてる。見るからに世話焼きって顔してるから」
戸鞠鳥とまりはそこで初めて小さく笑った。
「ザラド爺から聞いた話だと無表情で人形みたいな奴って印象だったが、思ったよりは人間味がありそうだな」
ハロンは観察するように戸鞠鳥とまりを見る。
「そうかもね」
その後、戸鞠鳥とまりはハロンに促されて、馬車に乗り込んだ。商売を始めたての若人が使うような型落ちの馬車で、振動を吸収するための仕組みすら備えておらず、見るからに乗り心地は悪い。
「安物の馬車で悪いが我慢してくれ。目立つと面倒なんだ」
ハロンは形式的な申し訳なさを表情で表した。
二人が窮屈な席にピッタリおさまると、すぐに馬車は走り出した。
そして、さっそくといったところで、ハロンは疑いの目を隠すことなく、単刀直入に質問する。
「ところで、お前はなぜハインツェルの件について知りたがっている? ハインツェルに何か関係があるのか?」
戸鞠鳥とまりは、この馬車の移動は尋問も兼ねているのだと察した。
「いや、ハインツェルは図書館に用事があっただけで、特に思い入れはないよ」
馬車が地面の凹凸に合わせて振動する。
窓から空を見上げれば、昼が近づいていることを太陽が教えてくれる。
「ユール・レ・ホバールか。たしかにあの図書館が失われたことは人類、いや世界にとって大きな損失だな。あそこにしか所蔵されていない貴重な本が数え切れないほどあった」
それからハロンは戸鞠鳥とまりを鋭く見つめ、一拍おいて「それじゃあ理由は?」と続きを促した。
戸鞠鳥とまりは「話が分かるね」とハロンに向かって頷いてから答える。
「ハインツェルで不可解なことが起きていそうだから調べておきたくてね」
ハロンはわざとらしく首を傾げる。
「不可解なこと? なぜハインツェルが焼かれ、オークル王国が滅びることになったのか、ということか?」
ハロンの言葉に対して、戸鞠鳥とまりは「違うよ」と言って首を横に振る。
「オークル王国は神の聖域で、地獄の十王サンカイムとはずっと敵対していた。つまり、サンカイムによってハインツェルが滅ぼされる可能性は常にあった」
その時、一瞬だけ静寂が空間を包んだ。
戸鞠鳥とまりは続ける。
「そして実際にハインツェルは地獄の業火で焼かれたけど、それがサンカイムの手によるものでなかったとしたら、それは不可解だ」
ハロンは戸鞠鳥とまりから目をそらして考えるそぶりをしたが、すぐに表情を消して再び戸鞠鳥とまりの目を見た。
「やはりそこまで理解しているのか。本当に何者なんだ」
戸鞠鳥とまりは気にせず付け加える。
「天使の加護を失ったとはいえ、ハインツェルが聖域であったことは事実だよ。もちろんサンカイムならその聖域を崩せただろうけど、それ以外の何者かが一日で焼き尽くせるほど、ハインツェルは弱っていなかった」
ハロンは戸鞠鳥とまりの言葉を手で制す。
「待て。あの時、ハインツェルにいたのか?」
戸鞠鳥とまりは頷く。
「図書館に通ってたからね。目的の本は最後まで読み切れなかったけど」
それを聞いてハロンは「なるほど」と言って、落ち着いたそぶりでゆっくりと座り直した。
「それでハロンたちの見解は?」
ハロンは一度咳払いした。
「俺たち調査団も同意見だ。見つかった魔法の痕跡はサンカイムのものではなかった。そして、ハインツェルの聖域があの程度の魔法を防げなかったはずはない。つまり、あの日のハインツェルでは不可解なことがたしかに起こっていた」
戸鞠鳥とまりはハロンの瞳に正の輪郭が出ていることを確認する。ハロンは嘘をついていない。
ハインツェルの事件はしっかり調べておく必要がありそうだと戸鞠鳥とまりは判断した。
それから一瞬の間が空き、ハロンは「そもそもなんだが」と言って質問を口にした。
「ハインツェルの件が不可解だからといって、なぜお前が調べる必要がある? 目的はなんだ?」
戸鞠鳥とまりはその質問に少々戸惑う。答えるのが面倒だったからだ。
「それがボクの存在意義だから……かな?」
「いや、俺に聞かれても困るが……」
戸鞠鳥とまりがそう返答して首を傾げると、ハロンも「なんだコイツは?」という表情で困惑した。
「生まれた時から決まってたことだから、ボクもよく分かってない。とりあえずは世界の異変を正すことがボクの役目なんだ」
「……いろいろあるんだな」
ハロンは諦めた表情で「了解した」と小さく呟いた。
戸鞠鳥とまりは話が有耶無耶のまま落ち着いたことを喜び、それから「ところでさ」と言って話を変えた。
「ハロンはどうやってボクが分かったの? ザラド爺から名前は聞いてたとしても、見た目は知らないはずなのに」
ハロンは「ん?」と今更な質問に一瞬だけ戸惑いを見せながらも、気を取り直して答えた。
「お前のまわりだけ明らかに魔素が穏やかだったからだ。いや、穏やかというか止まっているようにすら見える」
ハロンは「そんなことあり得るとは思えないが」と付け加えた。
「まあどちらにせよ優秀な魔法使いの証拠だな。貧民街近くでそんな奴を見かけることはお前を除いてまずあり得ない」
二人が乗る馬車はレインバース市街地区を抜けて、中央市街地区に入っていた。
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