第37話 ピグマリオン 6 明美 3
その日の夜、主人は疲れきったような表情をして私に会いに来た。暫くの間奥さんと話をしていたようだが、ようやく解放されたらしい。
主人は部屋に入ると、直ぐ様私の近くに腰を下ろす。疲弊の滲んだその瞳には、私の顔が浮かんでいた。
「明美、僕は今日も原稿を全く書けなかったよ。何だか仕事に集中できなくてね。他にできることなんて無いのに、何やってるんだろうね」
主人はそう言った後、卑屈な笑みを浮かべる。けれど、私には主人が悪いようには思えなかった。むしろ、奥さんに非があるような気さえする。奥さんが主人を追い詰めるから、こんな事態になったのではなかろうか。
きっと、今日も主人に子供をねだり続けたのだろう。そんなことをした所で、意見は変わらないだろうに。
気づけば、私にとって奥さんは敵となっていた。どんな理由があれど、主人をこれ程追い詰める人は許せないのだ。
私が腹に怒りを溜め込んでいると、主人は不意にこう尋ねてきた。
「明美、今日は何だか不機嫌そうだね。何か嫌なことでもあったのかい?」
それを聞くと、少しばかり驚かせられた。どうして、表情一つ変えられぬ私の心を読めたのだろう。
もしや、私達は言葉なくして意志を交わすことができるようになったのだろうか。そんなことを思うと、少し嬉しくもなってくる。だが、やがて意味が無いことに気づいた。
何故なら、私が言葉を話せないという事実は変わらないからだ。つまり、悩む主人に何かしらの言葉を掛けることはできないのだ。それを思うと、情けない気持ちにすらなってくる。
やがて、主人はそんな私の身体を抱き締めた。その左手は、優しく私の髪を撫で上げる。どうやら、この髪を愛しく思ってくれているらしい。
きっと、奥さんはこんな風に愛情を与えられていないだろう。何せ、主人は子供を授かることを望んでいないのだから。それが、奥さんを愛していないことの証拠ではないか。
もし私に出産能力があれば、主人は子供を望んだだろう。そして、私と人形の子供と楽しく暮らすはずだ。そんなことを思うと、優越感すら覚える。
「明美、君を抱き締めていると心まで温かくなるようだ。こんな気分を感じさせてくれるのは、君だけだよ」
きっと、こんな言葉も奥さんには言わないはずだ。主人と私の関係は、奥さんとのそれよりも遥かに蜜月なものなのだ。
「明美、傍に居ておくれ」
主人は優しい声でそう呟く。こんな口も聞けない私にも、これ程愛される資格があるというのか。そんなことを思うと、温かな幸せが胸に湧いてくる。
けれど、そんな幸福は直ぐ様途切れてしまった。というのも、耳に何やら不吉な音が入ってきたのである。
それはどうやら足音のようで、扉の奥から微かに鳴り響いている。しかも、徐々に近づいてきているようだ。
どうやら、奥さんがこちらの部屋に近づいいるらしい。この家には他の家族がいないのだから、それは間違いない。
「近くから足音が聞こえてくるよ。だから、早く私を離して」
心の中でそう呟くが、主人は私を抱き締めたままだ。どうやら、私に夢中でその音に気づいていないらしい。そのことに、本能的な不安を覚える。
もしこんな姿を奥さんに見られたら、どうなってしまうのだろう。只でさえ、子供のことでヒステリックになっているのだ。そんな中、主人と他の女との逢い引きを見るのである。恐ろしい事態になることは明白だ。
私がそんな心配をしていると、やがて足音は止まった。すると、程なくして部屋の扉が少し開く。そこから生じた僅かな隙間には、奥さんの顔が半分程覗いている。
奥さんは、緊迫した面持ちで部屋の中を覗いているようだ。けれど、その表情は徐々に憤怒の形相へと移り変わっていく。また、その目付きは射るようなものとなっていった。
どうやら、私達の姿を見て全てを察したようだ。相当な怒りを覚えていることは、明白だった。
「奥さんに見られてるよ!」
私は何度もそう叫ぼうとする。けれど、それを言葉にすることはできない。また、主人は依然として今起こっている事態に気づいていなかった。
その一方で、私は奥さんと目と目が合っていた。奥さんの瞳は獣のそれのようで、その鋭さに背筋が寒くなる。
どうやら、奥さんは主人を見ている訳ではないらしい。その怒りは、むしろ私に注がれているようだ。
自分の男を奪った、宿敵と呼ぶべき女。奥さんの目付きは、まさにそれを見る時のようなものだった。
どうやら、私に嫉妬しているらしい。つまり、人形である私を、ある意味女として見ているようだ。
「私の男をよくも取ったな。お前だけは許さない。ずたずたにしてやる」
奥さんは何も言わないが、そんな声が聞こえてくるかのようだった。それは、死への恐怖さえ覚えさせる。
それから、どれ程地獄のような時間を過ごすことになったのだろう。私は抱き締められている間、延々と奥さんから睨みつけられてばかりいた。顔を動かせないが故に、目を反らすことすらできない。
けれど、やがてその時間は過ぎ去っていった。奥さんはやがて静かに扉を閉じると、どこかへ向かって行ったのだ。
一旦安堵を覚えたものの、本当に安心して良いのだろうか。こうして逢い引きを見られたことは、これから大きな痛手となるような気がする。それこそ、私達の関係が破綻する切っ掛けとなるような。
にも関わらず、主人は一切奥さんからの視線に気づかなかったようだ。できれば、そのままでいて欲しい。
しかし、それは可能であろうか。私は奥さんの鬼のような表情を思い出す。すると、とても平和的な展開を迎えられるとは思えないのだった。
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