第38話 ピグマリオン 7 武彦 4
翌日の朝になると、僕は滞っていた仕事を開始した。明美に悩みを打ち明けたことで、少し心が軽くなったのだろうか。以前よりか、仕事に集中できるようになったのだ。
僕の書いている小説は、重大な局面を迎えていた。恋に落ちた二人の若者が、最大の困難に立ち向かう。言わば、山場となるシーンを書いているのである。
筆者である私もまた、緊張しながら執筆していた。故に集中力を高めたい訳であるが、そんな時に限って邪魔が入る。
不意に、扉からノック音が鳴った。そして、それとほぼ同時に美代子の声が鳴り響く。
「あなた、話があるの」
その氷のような冷たい声を聞くと、僕は舌打ちした。また子供をねだろうとしているのだろうか。何度そう言われた所で、答えは変わらないというのに。
いやしかし、本当にそうなのだろうか。その声が妙に平坦な点が、どうにも気に掛かる。普段はもっと怒りの滲んだ声を発するというのに。
なんとなく嫌な予感を覚えていると、扉がゆっくりと開いた。けれど、不意に湧いてきた恐怖のあまり、三代子の方を見ることができない。
そんな中、足音は徐々に近づいてくる。やがてそれが聞こえなくなると、今度はこんな声が耳に入ってきた。
「見たわよ」
三代子が発したのは、その僅か四文字の言葉だった。けれど、それは僕を脅かすのには十分な効力を持っていた。
心臓が高鳴り、頭は高速回転を繰り返す。ペンを握っている右手は、気づけば動きを停止していた。一体、三代子は何を見たというのだ。そして、何を知っているというのだ。
まさか、明美との情事を見られたのだろうか。不意に浮かんだその可能性は、背筋を凍りつかせた。
仮にそうだとして、いつ見られたというのだろう。そんな気配は、一度も感じたことがないというのに。
やがて、僕は混乱から何も考えられなくなった。最早、三代子から視線を反らせることしかできない。
そんな中、三代子は長い間の後こう言った。
「ねぇ、こっち見て」
その声には抑揚が無かった。まるで機械音声のようで、一切の感情が籠っていない。その点が、尚更僕を震えさせるのだった。
僕は極度の恐怖を覚えつつも、三代子に視線を向ける。三代子はというと、以外にも怒りを表情に浮かべている訳ではなかった。
ただ、その表情は氷のような冷たさを帯びていた。怒りを越えた先の諦念のようなものを感じさせる。
「一体、何を見たっていうんだ?」
僕はこの期に及んで、何も知らないかのように装う。けれど、それが無駄であることくらいは分かっていた。
「知らばっくれるつもりなのね」
「知らばっくれるも何も、僕は何もしてないし、何も知らないよ」
敢えて無関心そうに返答したものの、声は自然と震えるのだった。そんな僕に対し、三代子は冷たい視線を向けながらこう呟いた。
「明美」
言わずもがな、それは恋人の名である。美代子がそれを知っている辺り、やはり嫌な予感は的中していたらしい。
その名を聞いた途端、僕は目を大きく見開いてしまった。三代子はそれを見逃さず、やがて微かに口角を上げた。全てお見通しなのよ、とでも言いたげな表情を浮かべつつ。
平静をできるだけ装っていたが、やはり無意味だったらしい。最早、隠し事は何一つできなさそうだ。
僕はいい加減観念し、謝罪の代わりに疑問を投げ掛ける。
「一体、いつから知ってたんだ?」
「昨日よ」
そう言われ、昨夜の光景を思い浮かべてみる。明美に悩みを打ち明けた僕。恋人らしく、身体を抱き締め合う僕達。そういった光景を、いつの間にか三代子は見ていたようだ。
それを思うと、強い気恥ずかしさを覚えた。いや、それはそんな言葉では言い表せぬものかもしれない。更に言えば、心の一番奥底にしまった暗部を見られたような、そんな気分だ。
気づけば、僕の身体は小刻みに震えていた。また、それはなかなか止まろうとしない。三代子はそんな僕を見て、サディスティックな笑みを浮かべている。
だが、その笑みはやがて無表情と化した。そして、少し間を置くと無情な言葉を言い放つ。
「早くあの人形を捨てなさい」
まるで、母が子を叱るような口調だった。流石の僕も、それを聞くと強い憤りを覚える。
怒りのままに、美代子を強く睨みつける。けれど、声は荒げずにこう言った。
「どうして明美を捨てないといけないんだ。僕にとっては、大切な恋人なんだ」
「そんなことは知らないわ。あの人形は、私にとっては邪魔な存在なの」
「邪魔だと?」
「だってそうじゃない。もしあなたが誰かの子供だとして、父親に人形趣味があったとしたらどう思う? はっきり言うけど、気持ち悪いじゃないのよ。だから、これから産まれる子の為にも捨てて頂戴」
三代子の言うことは、間違ってはいないのかもしれない。しかし、そこまで言われて黙っている訳にはいかなかった。僕は自然と声を荒げながらこう言った。
「そんな言い方はないだろ! お前だって誰かを愛したことはあるはずだ。だから、僕の気持ちだって分かるはずだろう。なのに、どうしてそんな言葉が言える?」
「人形趣味の男の気持ちなんて、何一つ分からないわよ」
「人形だろうが人間だろうが、変わらない。僕は明美を愛しているし、捨てること等できない! 帰ってくれ!」
そう叫んだものの、三代子は眉一つ動かさない。当然そのまま大人しく帰る訳もなく、僕を見下ろし続けたままでいる。
もう一度叫んでやろうか。場合によっては、暴力に訴えてでも部屋から出してやろうか。
僕がそんなことを思っていた折、三代子は再び口を開いた。
「私の言うこと聞かないなら、ご近所さんにこのことを言い触らすわよ」
情けないことに、僕はその一言により黙してしまった。明美の為を思うなら「勝手にしろ、明美を捨てる訳にはいかない」とでも言うべきだろう。けれど、それができなかった。何せ、人形愛は世間から最も隠したい点なのだから。
もし世間に知られたら、一体どうなってしまうだろう。それこそ、あらゆる居場所が消失してしまうのではないか。そんなことを思うと、とても歯向かう気にはなれなかったのである。
きっと、僕の表情には動揺が浮かんでいたに違いない。それを読み取ったのであろう三代子は、にやりと笑い言った。
「随分と大人しくなったわね。私の言うことを聞く気になったのかしら?」
僕は何も答えない。その一方で、美代子は屹然とした口調でこう言った。
「兎に角、あの気味の悪い人形は捨てて頂戴。言うこと聞かないと、本当にご近所さんに言い触らすから」
三代子はそれだけ言い残すと、部屋を去ろうとする。僕にとっては、その背中が憎らしくて仕方ないのだった。それこそ、今直ぐにでも蹴ってやりたい程に。けれど、何も言えない自分のことは更に憎いのだった。
それから程なくして、美代子は視界から消え失せた。そして部屋に静寂が戻った訳だが、心は安寧を取り戻していなかった。曇天のような鬱屈とした感情ばかりが残っている。
「どうしよう……」
そう呟きながら、頭を抱える。そして、ふと明美の方に視線を向けた。
明美はもの悲しげな表情をして、僕のことを見ている。僕はそんな明美に対しても、何も言うことができないのだった。
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