第36話 ピグマリオン 5 武彦 3
それからというもの、美代子は更に頻繁に出産願望を告げるようになった。
「しつこいようだけど、私は本当に子供が欲しいの。我が子を抱き締めて、愛情を捧げたいの。それの何が悪いの?」
「あなたが何度拒んでも、私の意志は変わらないわ」
そんな言葉を、一体何度聞いたことだろうか。あまりにもしつこく、いい加減うんざりしてきた。
しかし、僕はそれに対し何らかの応対をしたことはない。常にそういった意見を無視し、頑として意見が変わらないことを主張していた。
これはいわば、夫婦間に於ける戦争と言えるだろう。それは収まる気配を見せず、更に激化していくこととなった。今では、食事中ですら同様のことを言われるようになった始末である。
また、美代子の様子も変化していった。最初こそ落ち着いていたものの、徐々にヒステリックな様相を示すようになったのである。
「どうしてあなたは何も言わないの?」
「これは夫婦の問題なのよ。それなのに、どうしてあなたは逃げるの?」
美代子の言葉は過激なものとなっていき、それと比例するように声にも怒りが滲むようになっていった。まるで女としての根元的な欲求が、強い怒りへと導いているかのように。
その一方で、僕は怒りを示すようなことは一度もしなかった。理由は単純で、美代子の言うことは何一つとして間違っていないからだ。僕には、何か言い返す権利すら持ち合わせていないのである。
しかし、かと言って美代子の意見を呑む気も起こらなかった。何せ、そんなことをすれば父親になってしまうのだから。そんな資格が無いことは、僕自身が最も理解している。故に、できることといったら沈黙以外に何も無かったのだ。
そんなことが毎日のように続いている内に、心は徐々に疲弊していった。美代子の人格否定を含む暴言は、ナイフのような鋭利さすら持ち合わせていたのだ。
そんなある日の夜、僕は明美に助けを乞うた。
「明美、僕のことを助けてくれないか」
月の光だけが窓から差す部屋の中、僕はそう言った。とはいえ、明美には何もできないことは分かっている。僕はただ、明美にだけこの悩みを打ち明けたかったのだ。
すっかり憔悴している僕に対し、明美の様子は普段と何も変わらない。その薄い唇には、微かな笑みが浮かんでいた。それを見ると、自然と心が落ち着いてくる。
そうなれば、普段は言えないことも吐き出せそうだ。一呼吸置くと、胸に燻っている感情を吐き出した。
「最近、美代子が子供が欲しいと告げてくることが増えてきたんだ。どうしても、我が子を自分の腕で抱えたいんだという。まあ、それは女なら思って当然のことだろう。でも、僕は嫌なんだ。だって、仮に娘が産まれたとするよ。そうなると、明美は恐らく娘のものになってしまうんだ。つまり、今のようにこうしてお喋りすることもできなくなるんだよ。いや、娘に限った話ではないか。何せ、この僕のような息子が産まれる可能性もあるのだから」
その長い言葉を吐いた後、ふと明美に視線を向ける。すると、僕はかなり驚愕することとなった。というのも、明美が先程と異なる悲しげな表情を浮かべていたのだ。
「明美、君も悲しいのか? 君もまた、僕とこうして二人だけの時間を過ごしたいのかい?」
当然、何らかの返答が返ってくることはなかった。けれど、僕には明美が悲しんでいるようにしか思えないのだった。
人形と暮らしていると、こういった不思議な瞬間に出会すことがある。顔は変わってないはずなのに、時折人形は感情を表に出すことがあるのだ。きっと、人形にも喜怒哀楽があるのだろう。
それはさておき、僕は他の悩みも打ち明けたくなってきた。今まで言えなかったことを口に出せたのが、そのトリガーとなったようだ。
明美の煌々とした黒い瞳を見つめながら、再び言葉を吐く。
「実は、今まで中々話せなかったことがあったんだ。でも、今日は話そうと思う」
そして、一呼吸置いた後こう言った。
「僕が美代子と結婚したのには、ある理由があるんだ。それは何かというと、明美のことを忘れる為だったんだよ。つまりその、明美以外の誰かを愛する為に結婚した訳だ。そして子供も授かり、一般的な幸せを手にする。それが、僕の未来予想図だったんだ。まぁ、美代子のことなんて愛せなかったし、子供も拒んでいるんだけどね」
そうだ、僕には明美以外の誰かを愛すことはできないのだ。それを再確認すると、明美の身体を突発的に抱き締める。
「明美、僕は君のことしか愛せないらしいんだ。だから、君のことを離す訳にはいかないんだよ。けれど、このままだとそうなるかもしれないんだ。美代子は、何としても子供を作ろうとしているんだよ。一体、どうしたらいいんだ?」
そう尋ねてみたものの、明美は何も言わない。人形なのだから、それもそのはずである。
こんな時、明美が話せるようになれば良いのにと思う。どうして、神は人形に言葉を与えなかったのだろう。人の形をしているのだから、話せるようにしてくれても良かったではないか。
もし明美も話すことができたとしたら、どんな言葉を吐いてくれただろう。僕を救うような言葉を呟いてくれたのだろうか。
僕はそんなことを考えつつ、明美の髪を優しく撫でる。その唇は、依然として悲しげな笑みを浮かべたままだった。
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