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翔と千沙が進学する大学と、翠の入学する高校は同じ街にある。二人のそばで暮らせるよう、翠は必死に努力したらしい。その努力が報われるよう萩野も力を尽くしてくれたおかげで、彼は四月から高校付属の寮で生活することになった。翔と千沙、それに萩野家の従兄弟の教えが上手だったのだと翠は謙遜したが、彼の相当な努力が根底にあることは誰もが認めていた。翠の呪いが解けたことを彼らも、そして形代を作ってくれた職人たちも喜んでくれた。
引越しの日は、生憎の小雨日和だった。
「終わったら焼肉だよ? 女の子働かせてるんだから、食べ放題奢ってね」
運んだ段ボールを部屋の隅に移動させ、千沙が楽しそうに言う。翔の引越しの手伝いに自ら彼女は名乗り出て、今は片付け後の焼肉に心を躍らせている。
「モモさんのお皿、ここでいい?」
翔が返事をすると、翠は台所の壁際に陶器の皿と水入れを置いた。足元でうろつくモモを抱き上げ、大丈夫だよと声をかけてやっている。にゃーと鳴くモモの青い瞳が、翠の瞳に映り込んだ。翔と千沙の次にモモの顔を見た翠は、モモさんの瞳は海みたいな青だと言った。こんなに綺麗なものがずっと傍にあったなんてと、彼は頻りに感動していた。
もう翠の目は隠されていない。モモに負けず劣らず澄んだ瞳は、あらゆる景色を映しその鮮やかさを彼に伝える。彼は素直に感動し、全てへ丁寧に目を向ける。その目は今後もたくさんのものを見て、彼は心を動かされていくのだろう。
「ペット可の部屋、空いててよかったね」
鼻歌を歌いながら、千沙が段ボールのガムテープを剥がす。最後の一つを部屋に運び入れ、翔は額の汗を拭った。食堂で知り合った大人が車を出し、荷物を家から運んでくれた。ちょうどそれを見送り戻ってきたところだ。
「ここがなかったら路頭に迷ってた。モモは手放せないし……なあ」
翔が振り向くと、翠の腕の中でモモが返事をするように鳴く。彼が自分を置いていくわけがないと信じ切った返事だ。
昨日まで住んでいた家とは比べ物にならない、狭くて古い一室だ。だがここでの暮らしが翔には楽しみで仕方ない。アルバイトと奨学金で賄う生活は苦しいだろうが、この二人とモモが近くにいてくれるなら、楽しさの方が圧倒的に大きいに違いない。
そしてもう一つ、翔には確かめねばならないことがある。
「あのさ」
声を落として近くに座る。段ボールに詰められた服を一着ずつ取り出しながら、千沙が生返事をする。
「なに?」
「前言ってた、あの件だけど」
「あの件って?」
「だから、もし誰かと付き合うなら、大学入ってからって話」
彼女はきょとんとして、やがて「ああ」とその目を丸くして両手を叩いた。「そんなことも言ったね」
「もう高校卒業したし、もっかい返事を聞きたいんだけど」
「翔の気持ちは変わってないの」
「変わるはずない」翔は即答する。「俺はずっと千沙と付き合いたいって思ってる」
頭の中で何度もシミュレーションした状況なのに、台詞を口にするとあまりに恥ずかしい。何気ない風を装っても、過去に一度伝えた想いであっても、頭がかっと熱くなる。情けなさに泣きたい気分だ。
視界の端に、モモを抱く翠の姿が見えた。少し離れたところで立ち尽くし、頑張れという風にこちらを見ている。モモまでが神妙な面持ちに見えてくる。こっち見んなと手を振って追い払う仕草をすると、千沙がくすくすと笑う声がした。
「考えとく」
もしかしたらすぐにオーケーの返事をもらえるかもしれない。そう思っていた翔は、またも先延ばしにされて肩を落としかける。
だが、千沙の顔が少し赤らんでいるのに気が付いた。彼女は、ほんのり朱に染まった頬で何でもない顔を作り、段ボールに腕を突っ込んだ。空っぽであることに気付くと、へへっと笑う。
「私にも覚悟がいるから、もう少しだけ待ってて」
初めて見る恥ずかしげな表情に、翔は頷いた。すぐさま告白を受け入れる返事を求めるのは、彼女にとって酷だろう。そんな風にきちんと向き合ってくれるところも好きなのだ。
「分かった。待ってる」
「すぐに返事するから」
段ボールを畳む彼女の手首にシュシュはない。高校を卒業して、彼女はすっかりそれを外した。手首にうっすらと傷は残っているが、もう隠すつもりはないという。これが原因で苦しむことがあっても、そのままの自分を受け入れてくれる人がそばにいる。だからもう平気なんだと彼女は笑って言った。
後片付けがひと段落つき、いつの間にか雨が止んでいることを知り、三人は買い物に向かうべく外に出た。古いマンションにエレベーターはないが、二階だからそこまで困らないだろう。郵便受けの並ぶ玄関を出る。雨上がりの濡れた地面、まだ時折冷たさを感じる三月の空気、住宅街の静けさ。
これから自分たちは、たくさんのものを選んでいく。そこでどんな道を選ぼうとも、いつだって互いのことを心に想っている。そして誰かが自分を想ってくれている限り、それが生き続ける糧になる。
「翔くん、千沙ちゃん、見て見て!」
いち早く外に出た翠がこちらに手を振った。少しだけ日焼けした顔を興奮させ、少しだけ背の伸びた彼は、雨上がりの晴れた空を指さした。
「虹が出てる!」
彼の指の先で、半円の虹が遠い建物から頭を出していた。
「ほんとだ」
「綺麗だねー」
翔と千沙の言葉に彼は嬉しそうに頷き、とても綺麗だと笑った。
これから翠の瞳に、美しく鮮やかなものがたくさん映りますように。願わくば、自分たちもそこで同じ景色を目にし、少しでも長く同じ時間を過ごせますように。
黒い水面のような両の瞳は、色鮮やかな七色の虹をいつまでも宿していた。
きみの瞳と虹色の暁 柴野日向(ふあ) @minmin
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