エピローグ
1
一年が経った三月、翔はいつもの如く子ども食堂に向かっていた。あれから一年と半年、千沙と共に食堂を手伝っている。
翠の瞳を初めて見たあの朝、それより少し前に佐久間は死んだ。駅のホームから転落し、特急の電車に轢かれて即死だったらしい。目撃者は、彼が誰かに突き飛ばされたように見えたといった。よろけて線路に落ちる佐久間は、振り向きざまに驚愕と恐怖を顔いっぱいに浮かべていたという。だが、彼を押せる位置に誰の姿もなかったことは、ホームの監視カメラも記録している。
芽佑会は自然に消滅した。佐久間が残した子ども食堂だけが、有志によって続けられている。
一挙に人手不足に陥った食堂を手伝うと千沙が言い出し、翔も誘われるまま協力することにした。この場所が多くの人に必要とされている事実は変わらない。
そして今日が最後の日だった。ここしばらくは大学受験のおかげでろくに手伝えなかったが、週に一度でも彼らは喜んでくれた。しばらく訪れることもないと思えば、少しだけしんみりする。
「こんちはー」
半開きの引き戸を開いて中に入った翔は、目をむいて立ち止まった。「来た来た!」と弾む千沙の声も耳に入らない。カウンターの端の席に着き、厨房の千沙と談笑しているのは紛れもなく幸也だった。
彼は形代を川に流したと千沙に伝言を残したまま、行方知れずとなっていた。詳細は不明で、なぜ彼が芽佑会を裏切ったのか理由さえ分からないでいた。ただ明白なのは、彼が深夜に幻来山に登り形代を流したおかげで、翠の呪いは解けていたということだ。十四歳を迎えた日の午前二時に彼の目が見えなくなったのは、弱っていたのではなく、既に呪いが解けていたからだった。
彼の名を口の中で呟き、翔の頭で様々な台詞がぐるぐると回る。聞きたいこと、言いたいことが多すぎて、ようやく口から出たのは何とも間の抜けた言葉だった。
「何しにきたんだ」
一年前と変わらぬ様子の彼は「ちょっとネタバレをね」と言って微笑んだ。
それからやって来た子どもたちは、久方ぶりの幸也との再会に喜んではしゃいだ。彼は子どもたちの人気者で、中には嬉しさで泣き出す子もいた。彼はまたすぐに出かけなければならないと彼らに言い、再び遊びに来ることを約束していた。
午後七時を迎えて手伝いの主婦が帰宅し、店内には翔と千沙、幸也の三人だけが残っている。翔と千沙の二人が座敷に腰掛け、カウンター席の彼と向き合った。
「聞きたいことはたくさんあるんだけど」
水を一口喉に流し、翔はコップを座卓に置く。少しの緊張を覚えながら切り出す。
「佐久間を殺したのは、幸也なのか」
彼が芽佑会を裏切ったことを鑑みれば、彼が何らかの方法を使った可能性が頭に浮かぶ。しかし幸也は首を振って否定した。
「殺したのは俺じゃない。未来だ」
「未来って、確か彼女の」
「そう。佐久間のせいで自殺した、彼女の名前だ」
息を呑む二人に、幸也は一つずつ話し始めた。
彼女は自殺する際、幸也に宛てて手紙の形で遺書を残していた。そこに書かれていたのは、幸也にとってあまりにおぞましい事件の告白だった。両親ともが佐久間に心酔していた彼女は、逃れられなかった。両親は彼女の訴えを虚言だと退け、娘よりも会と佐久間を優先し、そのうえ彼女を罵倒した。後に解剖された遺体は妊娠していたことが判明し、幸也は彼女の自殺の発端になったのではと随分疑われた。やがて疑いは晴れたが、幸也は彼女の手紙に記された内容から全てを理解した。佐久間は芽佑会の会員の娘を狙い、手を出したのだ。そして彼女は、それを苦に自殺をした。
手紙には繰り返し謝罪の言葉が連ねられ、涙が落ちて乾いた跡がそこかしこに残っていた。その上に自身の涙を重ね、幸也は佐久間の殺害を誓った。未来の両親は、いつの間にかひっそりと姿を消していた。
幸い、佐久間は幸也のことを知らなかった。高校を卒業し、大学入学を機に実家を出て、同時に幸也は芽佑会に入会する。佐久間は友好的な見た目と裏腹に用心深く、幸也は積極的に子ども食堂の運営を手伝って距離を縮めた。そこで佐久間の姿を見るたびに怒りで気が狂いそうになったが、その復讐心で自制し、彼を出来る限り苦しめて殺す方法だけを考え続けた。未来は自ら首を括るほどに苦しみぬいたのだ。それ以上の苦痛と後悔を与える必要があると信じ、三年と五カ月を耐えた。
そして佐久間の信頼を勝ち取り、翠を追う際には形代を預かる役目を受けるまでになった頃、部屋で酒を飲もうと約束することに成功した。八月五日の夜、佐久間を嬲り殺す準備をして、駅まで彼を迎えに行った。腹の中が静かに燃えているようだった。これで終わる。青い炎を宿した心で、歩きながら未来に語りかけた。あいつを殺したら、俺もすぐいくから。もう少しだけ待っててくれ。
「もういいよ」
耳元で懐かしい声が聞こえて、幸也は路上で足を止めた。間違いなく、夢で何度も耳にした未来の声だ。だが、彼女の姿があるはずがない。たちまち心臓が激しく鼓動を打つのを感じながら、いてもたってもいられず駅まで走り、人だかりを目にした。人身事故。ホームから転落した男の外見が佐久間と一致していることを知り、未来が自身で復讐を遂げたのだと悟った。同時に彼女が自分を助けてくれたこと、
「駅前のレンタカー屋に飛び込んで、車を借りて家に帰って形代を取って、幻来山に向かったよ。よくスピード違反で捕まらなかったなと思う」
苦笑いする幸也は形代を手に夜の山を登り、以前翔と翠に会った川原からそれを流した。どうか間に合うようにと祈りながら。
「それから山を下りて、千沙ちゃんに連絡したんだ」
「私、急いで翔にも電話かけたんだよ。だけど全然出てくれなくてさ」
「悪かったよ」
あの時スマートフォンは、名前も記憶にない駅のゴミ箱で着信し続けていた。複雑な気持ちになるが、当時は致し方なかったのだ。
「二人とも、本当に悪かった。ただの言い訳にしかならないけど、俺は未来の復讐のことしか考えていなかった。翠くんもひどく傷つけた」
幸也はそう言って頭を下げるが、地下室でこっそり扉の鍵を開けてくれていたのも彼だった。二人が逃げ出せるように。そのおかげで、翠はあの部屋で次の殺人を犯さずに済んだのだ。
「分かったよ。……なあ、千沙」
こうも頭を下げられたら、腹が立っていたにせよ許さざるを得ない。横を見ると、千沙はわざとらしく腕を組んで、「そうだね」と笑う。「ゆきくん、顔上げてよ」
「ありがとう。出来れば彼にももう一度会いたいんだけど。今はどうしてるのかな」
翠は叔父の萩野の元で生活している。能力を失った彼を孝雄はあっさり手放し、彼は自ら養護施設の門を叩こうとしていた。そこに一年だけと条件をつけ、萩野が自分の家に引き取ることを申し出てくれた。翠も、両親が暮らした村で一年だけでも過ごしてみたいと言い、再び明昂村に戻っている。
「いつでも会えるよ。あいつだって、幸也に会いたいはずだし」
「うんうん。四人でまた会おう」
千沙が大きく首を振る。そう遠くないうちに自分たちは再会し、今度はより強い関係を繋ぐことがきっとできる。
幸也は四年過ごしたのと異なる大学の大学院に進学し、今は遠い街で暮らしているそうだ。だが、会えないような距離ではない。約束さえすれば、自分たちはいつだってまた会える。
店の電気を消し鍵をかけて、近所の家を訪れてその鍵を渡す。店の勝手を知る夫婦が、これからも食堂を続けてくれるはずだ。
千沙を家に送った帰り道、翔は幸也に問いかけた。
「もしかして、幸也が千沙に近づいてた理由って……」
二人目の未来を作らないため、親が会を盲信する千沙を守ろうとしたのではないか。翔の推測に彼は頷いた。
「次の被害者が出るとしたら、彼女だからね。見張ってはいたよ。無事で何よりだ」
そして翔の背中を軽く叩く。
「千沙ちゃんは頑張り屋で優しくて、本当にいい子だ。翔も頑張れよ」
何をだよ。口を尖らせながら、千沙と同じく幸也にもかなわないなと思った。彼が戻ってきてよかったと、心の底から思った。
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