10

 未明四時の海はまだ真っ暗だった。街灯がぽつぽつ灯る寂しい道の左側、背の低い防波堤を挟んで暗い海が広がっている。目の見えない翠が転ばないよう腕を掴ませ、ゆっくりと道を歩く。夜中まで続いた雨が嘘のように空は晴れ、青白い月が空と海に浮かんで揺れている。雲一つない満天の星空が頭上に広がり、街では見ることのできない夜の景色が広がっていた。

 足元がコンクリートから粒の細かい砂に変わった。流木の破片を避けながら海岸を進む。白い波が寄せては引く音が海辺に響き、濃い潮の香りが鼻腔をくすぐった。涼しい風が吹き、柔らかな砂に足が埋もれる。

 おっかなびっくりだった翠は、翔が立ち止まるとようやく手を離し、思い切り空気を吸い込んだ。見えない海の方を向いて、全身でその景色を感じていた。

「海のにおいがします」

 見えないのに、翔を見上げて弾んだ声をあげる。

「波の音、とても静かで気持ちがいいですね」

 頬を上げ、心地よさそうに笑っている。

「ここまで来られて、本当に嬉しいです」

 翠はありがとうと言った。もうすぐ死ぬ彼は、望んだ場所で最期を迎えられる幸せを、心から喜んでいた。

「海に来たいって願いは叶ったよな」

 もうじき夜が明ける。はいと翠が返事をする。

「なら、俺の願いも聞いてほしい」

 翔は彼に向かい合った。両腕をそっと掴み、自分は砂地に膝を折る。その動きを感じ、翠は翔の顔へ視線を下げた。

「最後に、その目で俺を見てくれ」

 あと一人だけ死なせて翠が生き延びるなら、誰かが犠牲になればいい。母の夢から目覚めた時に覚悟を決めた。最後の一人には俺がなる。俺は決して翠を恨まないし呪わない。この命一つで彼が生き永らえるなら、惜しいものはない。

 翠は嬉しそうに微笑んだまま、驚きもせずゆっくりと首を左右に振った。彼にもまた、翔の提案は予想していたことだった。

「見ないよ。ぼくは翔くんの顔を見ない」

「頼む。俺は願いを叶えてやったろ」

「それだけはだめ。絶対。絶対に」

 翠もまた、翔を殺す真似などできない。言葉を繰り返し、彼は夜明けを待とうとする。

「ぼくは元々、十四歳の朝までの命なんだ。そういう運命だから。最後に翔くんと千沙ちゃんとモモさんに会えて、本当に幸せな時間をもらいました」

「約束、破るのか」

 翔は目の見えない翠に、わざと声を尖らせる。咎めるような台詞を吐く。

「おまえ、言ったろ。何があっても生き続けるって。あのとき俺に約束したじゃねえか。あれは嘘だったのかよ」

 翠は苦しそうな顔をした。力なく首を振り、嘘じゃないと呟く。

「でも、翔くんの命を奪うことだけは、できません」

「奪うんじゃない、俺が与えるんだ。翠に譲るんだ」

「翔くんが死んでしまえば、ぼくよりも大勢の人が泣いて辛い思いをします。そんな中、一人で生き続けることなど出来ません」

 沈痛な声を震わせ、彼は横に垂らした手をぎゅっと握りしめる。

「ぼくは、翔くんとは正反対です。生まれた時にお母さんを死なせ、守ってくれたお父さんも死なせました。翔くんの命まで奪えません。代わりに生きる資格なんてないんです」

 声だけでなく翠の身体までが震える。懺悔の思いだけではない、これから訪れる死への恐怖を彼は必死に耐えている。懸命に立ち向かいながら、最後に残った死にたくないという渇望を必死に抑えている。

「翠、大丈夫だ。おまえは本当にいいやつだ。俺の代わりに生きる資格ぐらい、充分にある」

「翔くん、ぼくを想ってくれるなら、もう優しい言葉は要りません。怖くなるだけです。怖くて寂しくて、苦しくて堪らなくなるから……」

 しゃくり上げた拍子に言葉が詰まる。死にたくないと喉まで出かかった言葉を堪え、彼は最後の平穏を求めている。それをかき乱す翔の優しさに頷くこともできず、泣きながら力なく膝をついた。首を垂れて項垂れるその顔、両目の部分に左右の手のひらを押し当てる。

「もういいんです。ぼくは本当は、誰にも愛されるはずがなかった。最後までそうだと信じてた。こんな贅沢、想像さえしなかった。死にたくないって思える日が来るなんて、考えたこともなかった」

 だが、最後に愛されてしまった。死が間近に迫ってから、自分の生を心から望んでくれる人に出会った。生まれたことを悔いてきた彼にとって、最大の幸福は最大の不幸とも繋がっていた。

「こんなことは、これまで一度だってなかった。誰もぼくを、ぼく自身を望んでなんかいなかった。ただ息をするだけだった。そこに在るだけだった。誰かに想われるのがこんなに辛いことだなんて、知らないまま死ぬはずだった」

 頭が激しく振られ、黒い髪が左右に揺れる。引っ切り無しの嗚咽が、ぼろぼろと砂の上に零れ落ちる。声を詰まらせ泣きじゃくる翠は、全身で言葉を絞り出す。

「ぼくなんて、生まれてこなければよかったのに……!」

 心から悲鳴を上げて嘆く翠の右腕を、翔はそっと握った。目から離れた手を包み、それを握らせる。

「このお守りは、翠のものだ。おまえの両親が作って、神社に供えたものなんだ」

 明昂村で訪れた神社に奉納されていた小さな人形のお守り。生まれた子の健康と幸せを願って作られ、五年後には子ども自身に与えられるもの。

「後ろには、ちゃんと翠の名前が刺繍してある」

 翠が小さく口を開けたまま、右手に握った人形を左手の指先で辿る。翠という文字を、細い人差し指が探し当てた。

「どうして……」

「萩野さんが郵便で届けてくれたんだよ。翠が三歳で村を出た後に、回収してたんだって。間違いなく翠の両親が作って、父親が神社にあずけたものだ」

 何度も確かめるように人形に触れ、名前をなぞる。翠のしゃくり上げる声が大きくなる。

「母さんも父さんも、翠を大切に思っていたんだ。人形を作って、無事に大きくなることを願って納めたんだ」

 彼はもう、耐えられない。

「翠は、ちゃんと愛されていたんだよ」

 大きく口を開けて、翠は号泣した。幼い子どものように声を上げ、お守りを両手で包み胸に抱き、砂に突っ伏して身体を震わせ泣き続けた。自分は愛されていた。他の子どもと同じように、両親に望まれて生まれてきた。生まれた後も、健やかな成長を願われていた。揺ぎない事実に打ちのめされ、翠は決壊したように大声をあげて泣いた。

 暗い砂浜に響く翠の泣き声を、波音が優しく包み込む。小さな身体はこれまで必死に生きてきた。どんな理由であれ、この心と身体で生き延びた。彼が呼吸を諦めなかったことが、翔には有難くて仕方ない。

 泣き尽くして少しだけ落ち着いた頃、まだしゃくりあげる両肩に手をやって身体を起こす。右手でそっと白い布を解いていく。

「どうして、すぐに渡してくれなかったの」

「翠が頑固に拒んだ時の切り札にしようと思ったんだ」

「……いじわる」

 布を取り去り、アイマスクを外した。固く閉ざした両の瞼。その隙間を縫って、今も涙が頬に線を引いている。

「大丈夫だ。俺は死なない」

 翠の頬を両手で包む。顔を伝う涙の熱は、彼が生き続けている何よりの証。

「言っただろ、俺は生き返ったんだ。心臓と呼吸が止まっても、戻ってきたんだ。やり方は分かってんだから、二回目なんてもっと簡単だ」

 母親と事故に遭った時、心肺停止の状態から息を吹き返した。あれから五年になる。

「この心臓は、翠の力で止まっても、また動き出す。母さんも俺を追い返すよ。まだ早いって」

「絶対だよね」

「ああ」

「信じていいの」

「約束する」

 翠は生き続け、翔は戻ってくる。これで二人は、互いに約束を守ることができる。

 白む空から朝陽が昇ると共に、翠はゆっくりと瞼を開いた。涙に濡れて輝く瞳は、翔が想像した通りに澄んでいて美しかった。朝焼けの海に輝く水面のような、黒く透明な瞳。翠がその目を細めて微笑み、大粒の涙が零れ落ちていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る