9
スマートフォンは駅のゴミ箱に叩き込んだ。階段を下りて、丁度やって来た電車に飛び乗り、すぐに別の路線に乗り換える。出鱈目に乗り降りを繰り返し、翔には既に自分がどこにいるのかさっぱり分からなくなっていた。
幾度目かの乗り換えで、高速バスの看板を見つけて改札を出た。時刻は既に八時を過ぎており、二人は夜行バスの受付に飛び込んだ。地理感覚が分からないので、海沿いを通るバスを探し、途中のバス停で降ろしてもらうことにしてチケットを買った。
緊張で疲れ果てた翠は、待ち合い室の椅子でバスを待っている間、こっくりこっくりと船を漕いでいた。多くの人がスーツケースを提げているが、二人は翔のショルダーバッグ一つという身軽さだ。達成すべきは海を見るという目的だけなのだから、問題はない。
やがて夜行バスがやって来て、人々が列を作った。運転手のチェックを受けてバスに乗る。二人掛けのシートが二列に並んでいるだけの車内で、二人は並んでシートに座った。最後にもう一度首を巡らせたが、自分たちを気にするような人は誰一人いなかった。
乗客が全て乗り込むと、バスが低く唸り動き出す。未だに小雨がパラパラと窓を叩き、夜闇に沈む街の灯りが流れていく。繁華街の交差点に浮かぶ水たまりには、赤や青や緑といった色とりどりの光が反射している。窓際に座った翠はしばらく外の様子を眺めていたが、すぐにぐったりとシートに背をあずけて窓から顔を背けた。
「寒くないか」
「うん。大丈夫。ありがとう」
顔をあげて微笑んでみせる。疲れ切った表情は、翔の胸に鋭い痛みを与えた。もう笑わなくていいよ。無理しなくていい。そう言いたいのを堪え、よかったとだけ返した。
午前四時前には目的のバス停に着く。バスの受付で聞いた通りなら、海はすぐ目の前だ。
「疲れただろ。寝てていいよ」
「翔くんも、眠りますか」
「ちょっとだけな。でも寝過ごしたりしねえから、大丈夫」
翠は頷いて、備え付けの毛布を身体にかけるとすぐに寝息を立て始めた。やがて車内は明かりの光度を落とし、翔も瞼を閉じた。
ふと目を覚ます。車内に備え付けのデジタル時計は、二時四十六分を示していた。ほんの少しのはずが、四時間は眠っていた。寝過ごさなくてよかったと、翔は瞼を擦る。その気配で目覚めたのか、隣で翠がぴくりと動いた。
「翔くん……」
「ごめん、起こしたな」
「ううん」
薄闇の中に翠の輪郭が見える。細い少年のシルエットを、布の白さが横切っている。
「何も、見えないんだ」
翠が囁いた。
「暗いから見えないんだろ」
「眠る前、時計の数字が光ってるのが見えた。今も光ってますか」
翔はバスの前部に視線を戻し、二時四十八分を示す緑色の数字を見た。暗いとはいえ真っ暗ではない。目が慣れれば隣にいる者の表情さえ見て取れる。
「真っ暗なんだ」
翠の唇が動き、辛そうに言った。
「真っ暗って、本当に何も見えないのか」
「見えない。光は見えるはずなのに、もう何も見えない。真っ暗です」
そう言って、彼は自分の両手を目の前にかざした。それすらも今は認識できないという。
「どうしよう。翔くんの顔が分からない」
ぱたりと両手を落とし、苦しそうに笑う顔が翔には見えた。翠は瞼を閉じていても白黒で前が見える。それは彼の力の一つに違いない。どうやら命が弱ると共に、その力も失われていっているようだ。
こんなやり方ってありかよ。翔は奥歯を噛み締め、誰かを呪った。それは呪いを受ける人間に翠を選んだ神様かもしれないし、翠を呪う過去の人間かもしれない。翠は散々苦しんできたのに、最後まで真綿で首を締めるような真似をするのか。
こっそり深呼吸して、翔は気持ちを抑えた。シートに垂れる翠の左手を強く握りしめる。まだ温かい。彼の命はまだここにある。まだ生きている。今は、まだ。
同時に熱いものがこみ上げる。翠は起きてから、目の見えない恐怖に駆られたに違いない。しかし自分を起こさず、じっと一人で耐えていたのだ。自身の命が尽きる音を聞きながら、暗闇の中でただ待っていたのだ。それを思うと、鼻の奥がつんとした。
「大丈夫だ、俺はここにいる。ちゃんと翠のそばにいる」
肩に手を回して、両腕で翠をぎゅっと抱きしめる。彼の頭に自分の頭をくっつける。どうか少しでも、彼が感じる恐怖の一部だけでも俺に流れますように。
痩せた身体の温みを感じながら、翔はひたすらに願い続けた。
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