8

 他愛ない話は尽きず、いつの間にか西日が強く部屋に差し込んでいた。千沙が立ち上がりカーテンを引く。ふいに低い音がして、畳に置いた彼女のスマートフォンが振動する。彼女は画面を見て眉間に皺をよせ、それを手に取った。はいと返事をした顔がみるみる引きつっていく。

「うそ、夜まで帰らないって言ったじゃん」

 ひと言で、彼女の母親からの電話だと二人とも察した。千沙は必死に狼狽を隠し、何とか母親の帰宅を遅らせようとする。

「私ご飯作ろうとしてるんだけど、みりん切れちゃってて。悪いけど、買ってきてくれる?」

 電話の向こうから、初めて聞く千沙の母親の声。機械越しでもその声はしゃがれ、疲れているのがわかった。千沙の台詞に対し、ご飯はカップ麺でいいと言っている。

 彼女は電話を切ると、声を殺していた二人に「やばい」と短く告げて真剣な眼差しを見せた。

 家を訪れた彼らは翠がいないことを知り、方々を捜索しているのだと翔たちにも聞こえた。だが現時点をもって一時解散となったらしい。そこに含まれる千沙の母親は疲れから会合を欠席し、早めに車で送ってもらっている途中だという。

「ごめん、二人とも」

「千沙のせいじゃないって」

 な、と翠を見ると彼は「うん」と頷いた。

「千沙ちゃん、ありがとう」

 そう言った翠に、堪え切れず千沙はぼろぼろと涙を流し、彼をぎゅっと抱きしめた。翠も強く千沙を抱きしめ、千沙は彼の頬に自分の頬を何度も押し当てる。ごめんねとありがとうを繰り返し、彼女は優しくその背を撫でた。

「駅はまだまずいから、これ、使って」

 千沙に渡されたのは、ストラップと小さな鈴のついた自転車の鍵だった。一時解散とはいえ、諦めきれない者が残っている可能性は捨てきれない。

「三つは先の駅に行った方がいいと思う」

「そうだな。そうする」

「翔、翠くん任せたよ。絶対捕まっちゃ駄目だからね」

「わかってる」

 いつ彼女の母親が帰ってきてもおかしくない。急いで靴を履き、表に出て軒先の自転車に鍵を挿した。千沙が現役で使っている赤い自転車の荷台に翠を座らせ、翔はサドルに跨る。千沙が翠のフードを被せてやり、笑って軽く手を振った。

「いってらっしゃい」

 いってきますと翠が手を振り、翔がペダルを強く踏み込んだ。


 狭い道でワゴン車とすれ違い、彼女の家の方に曲がっていく様子がカーブミラーに映った。恐らく、彼女の母親を乗せた車だろう。車内は見ないようにしたが、気付かれていてもおかしくない。彼らが引き返す前に、翔は元来た狭い道を選んで公園に出た。

 空はいつの間にか白く曇り、運の悪いことにぽつぽつと滴る雨粒が腕を濡らす。しっかり掴まれと翠に声を掛けると、細い腕が後ろから腹に手を回して抱き着いた。その力を確認して、自転車を走らせた。

 時刻は四時を少し回っている。翠が命令を無視したことに気付けば、孝雄はすぐさま彼を探し始めるだろう。家にもいないと知れば、烈火のごとく怒り狂うに違いない。すぐにタクシー会社に根回しする可能性も高い。高校生と中学生の男子二人連れで、その内一人は布で目を覆っている。運転手の記憶にも容易に残り、居場所はあっという間に孝雄の知るところとなる。既に近隣のタクシー会社に釘を刺していても不思議はない。自転車で目くらましに動き続けるのが最善だ。

 道路が濡れ、タイヤが滑りやすくなる。雨は激しくはないが、目に入り込むのが厄介だ。落ちないように翠が必死にしがみついてくる。頭を振って前髪の雫を落とし、翔は自転車を漕ぎ続けた。

 駅の前は通らず、遠回りして沿線沿いと同じ方角に進む。人々は傘をさして歩き、その顔は良く見えない。だからこそ、あのとき地下室で見た顔がすぐそばに近づいている想像に慄く。やむを得ず赤信号で停止する時には、前を行く車中の人間が彼らでないか気が気ではなかった。ここで事故に遭うわけにはいかない。疲労と共に神経が削れていくのを感じる。

 大雨ではないが、遠くで稲妻が光り、数秒おいてごろごろと雷鳴が轟いた。翠の指に力が入る。

「大丈夫だ、雷なんて当たらない」

「探してるみたい……」

 雨音と雷鳴の中、彼が小さく呟いた声が耳に届いた。ひと気のない土手の上から、川を跨いだ遥か遠くで雲が光るのが見える。まるで天まで自分たちを見つけようと躍起になっている風だ。

「地上には山ほど人がいるんだ。俺たちのことなんて、見つけらんねえよ」

 押し当てられた頭が動き、彼が頷いたのがわかった。空は暗く、早くも夜の闇が辺りを包み初めていた。


 初めて訪れる駅の前で、駐輪場に自転車を停めた。抜いた鍵をポケットに突っ込み、時刻表を見て十五分後に電車が来ることを知る。警戒しながら駅前のコンビニでタオルとペットボトルの水、数個の焼き菓子を買った。改札を抜けたホームでタオルを使って頭を拭き、水を飲んで焼き菓子を食べた。甘ったるくて胃が受け付けなかったが、無理やり流し込んだ。

 ホームに滑り込んだ電車の座席はすっかり埋まり、どの車両も立ってつり革を掴む人で溢れていた。雨のおかげでじめじめと湿気た車内に、冷房の風が心地よい。扉のそばのスペースに立ち、ほっとひと息つく。あとは終点で乗り換えて、海へ向かうだけだ。

 外はすっかり暗くなり、雨粒が窓をぱしぱしと叩いている。翠はフードを被ったまま、パーカーのチャックを開けて風を通している。蒸れて暑いのだろう。細く白い首筋と、シャツの襟ぐりから浮き上がった鎖骨がのぞいている。

「疲れたか」

「少しだけ……」

 すまなさそうに言って、翠は身体の横を壁に押し付けてもたれた。その疲労が元々体力がないせいなのか、終わりが近づいているからなのか、翔には判断できない。

 扉が開き、人が次々と乗り降りしていく。どっさりと降りて乗ってくる人々の顔を一つずつ確認し、翔は見知った人間がいないか警戒する。翠は顔を他人に見せないように、壁に頭を押し付けて顔を俯けている。彼の両目は黒いフードの黒い影に隠れ、外からではその異様さを確認することは出来ない。

 誰ひとり、自分たちに注意を払っていない。動き出した車内で翔が微かに安堵すると、隣の車両と繋がる扉が開いた。

 逃げる間もなく、その人物は真っ直ぐ大股に近づき、数歩で距離を詰めた。翔は自分の血の気が引くのを感じた。

「足立さん……」

「随分探しましたよ。今までどこにいらしたんですか」

 父親の側近ともいえる人物の足立だった。表情の変化に乏しい、真面目一辺倒の男の顔を、翔はよく知っている。それは相手も同じで、人違いを疑い迷う素振りさえなかった。

 彼の手が、翠のパーカーの背を握っている。翠はじっと俯いたまま、うんともすんとも言わない。ただ袖から垂れた指先が細かく震えている。

「お父さまが随分お怒りです。今すぐ戻りましょう」

 声をひそめているが、有無を言わさない口調で足立は翔を見据えた。細い瞳に、翔は初めて彼の疲労の色を見た。

「戻りません、もう少しだけ」

「駄目です。許されません」

 がたんと車両が揺れる。足立は左手でつり革に掴まり、右手で翠の服を握っている。翔は脇の手すりを片手でぐっと握りしめた。

「しばらく先に、付き合いのあるタクシー会社があります。そこから帰りましょう」

 どうして分かった。なぜ足立は、自分たちが街から離れた駅で乗った電車が分かったのだ。

「なんで、俺らの場所が分かったんですか」

 話を無視した台詞だったが足立は眉をひそめることさえせず、つり革から離した手でスーツのズボンのポケットを探りスマートフォンを取り出した。

「GPSです」

「GPS? 俺のスマホの位置情報を割り出したってことですか」

「話しても問題ないでしょう。翔さんのスマートフォンに、細工をしておいたのです。万が一、契約を反故にされた場合にあなたの位置が分かるように。そばには必ず彼もいますから」

 足立がちらりと一瞥したが、翠は顔さえ上げなかった。

「細工? 俺のスマホに勝手に?」

「信じておられましたよ、釘を刺したばかりで契約違反をするとは思えないと。ですが、もしもの場合に供えて」

 咄嗟に声を荒げかけた。プライバシーなんてあったもんじゃない。知らない間に、自分の居場所は常に父親の監視下にあっただなんて、あまりに気分が悪い。まるで一人の人間として見られていない。

 幻来山から帰った後、思いがけず二人が仲良くしているのを目にして彼は細工を思いついたのだ。入浴中や就寝中、リビングに置き忘れた時などいくらでも触るチャンスはある。普段家にいる亜香里を使えば、ことは更に簡単だ。

「最悪だ」

「私たちにとっては、約束を守らない方が最悪です」

 話は通じない、彼らと自分たちは根本的に考えが違う。翠を道具としてみるか、人間としてみるか。その差異はここでいくら言葉を重ねても縮まらないだろう。

 駅への到着を告げるアナウンスが流れる。まるで聞いたことのない駅名。それを足立は手元の機械の画面に打ち込んでいるらしい。

 電車が速度を落とし、やがて停止した。シューと音を立てて扉が開き、人々が下りていく。

 ホームにいた人々が乗り込み、扉が閉まりますとアナウンスが流れた。

 それと同時に翔は走り出し、翠もそれに続いた。するり身体からパーカーが滑り、足立の手に残る。後も見ず、翔は翠の手を引いてホームを上る階段に向けて走った。ドアの隙間を縫って、足立が自分の名を叫ぶのが聞こえた。初めて耳にする彼の大声だった。

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