7
千沙は裏道をよく知っていた。普通に歩けば見落とすであろう細道をくねくねと進むのが、公園から家までの最短ルートだった。それでも誰かが待ち伏せていそうで、千沙を先頭に翠を間に挟み、三人は慎重に先へ進んだ。
無事に家に着いた時にはほっと息をついた。間違いなく母親が出かけているのを千沙が確認し、家に二人を招じ入れる。
「今日は急だから。いつもはもうちょっと片付けてるからね」
以前目にした居間兼仏間は、ごちゃごちゃと散らかっていた。それを横目に千沙が念を押す。手を洗い、廊下を挟んだ反対側の部屋に入った。四畳半の和室は千沙の部屋だった。
そこは家の状態や他の部屋の散らかりようが嘘のように、きちんと片付いていた。学習机代わりの小ぶりなテーブルとイス。教科書の並んだ背の低い本棚。布団や制服は押し入れの中だろう。清潔感があり、窓辺の小さな棚の上には、手のひらサイズの鉢に植わったサボテンが陽の光を浴びていた。
千沙は彼女でも軽々と抱えられる座卓を運んできて、部屋の真ん中に置いた。思いがけず憧れの女の子の部屋に通され、翔はうっかりあちこちを見渡してしまう。
「そんなじろじろ見ないでよ。ていうか、見るものもないけど」
「あ、ごめん」
くすくす笑う千沙に促されて座卓の前に座り、財布とスマートフォンを入れたショルダーバッグを下ろす。千沙が麦茶の入ったコップを並べてくれた。
「風鈴、可愛いですね」
翠が見上げる方向には、窓の外にぶら下がる風鈴があった。金魚が描かれた風鈴がちりちりと鳴っているのに、翔も気が付く。青い空にはもくもくと白い入道雲が湧き、場違いなほど穏やかな夏の昼下がりだ。
「でしょ、私のお気に入り。……二人とも、お腹空いたよね。私もお昼食べてないから、一緒に食べよ」
千沙はてきぱきと動き、隣りの部屋から扇風機を持ってきて回してくれる。彼女にばかり働かせる負い目にあたふたする翔に、座っててと命じて颯爽と部屋を出ていった。
「千沙ちゃん、かっこいいね」
「そうだな……」
俺は永遠に、彼女にはかなわない。改めて翔はそう思った。
同じ容器がなかったといって、彼女はサイズの違う丼に冷やしうどんを作ってくれた。油揚げが四枚あったので翠に二枚与え、あとは翔と千沙で一枚ずつ分けた。安い冷凍うどんだと彼女は謙遜したが、おいしいおいしいと二人は食べた。
丼を片付けてひと息つき、翔はどこに行きたいか翠に問いかけた。元々今日は、翠の行きたい場所に行こうと決めていたのだ。
「行きたい場所……」
彼は困って首を傾げて考え込む。頭を振る扇風機の風に、彼の髪がさらさらとなびく。翔たちは、どこでもいいよと彼の返事を待った。
最期だからとは言わない。諦めたくない。最後の最後まで方法を探るつもりだ。だから今日はただのお出かけ。翠の行きたいところに出かけて楽しむだけの、些細な夏の一日。
「誕生日だしさ。行きたいところ、どこでも連れてってやるよ」
明日は翠の、十四歳の誕生日。彼はたんじょうびと口の中で呟いた。誰かに祝われる誕生日など、彼の記憶には一度たりとも存在しなかった。
「……綺麗なところに行きたいです」
彼は迷った末にそう言った。
最期に綺麗な景色を、色鮮やかな光景を、この目に焼き付けたい。願いの根本がそこにあると知りながら、三人とも最期という言葉は口にしなかった。
「綺麗なとこか」
「どこだろうね」
翔が腕を組み、千沙が小首を傾げる。
「もしよかったら、海に連れて行ってくれませんか」
二人を交互に見ながら、翠はおずおずと口を開く。
「ぼく、山は見たことがあるんです。翔くんにも連れて行ってもらいました。だけど、海は一度も見たことがないんです」
「そっかあ。村は山の中にあったしね」
千沙の言葉に翠が頷く。三歳で明昂村を出てから、彼は様々な街を点々としていた。どれもが都会で大きな権力を持った人々の元で、その家から出ることさえままならなかった。話に聞く広々とした美しい海を見る機会など、彼にはただの一度もなかった。
「海なら行けるよ。じゃあ、海に行くか」
今は駅に向かえないし、仮にすぐ出ても海に着く頃には暗くなってしまう。千沙は、母親は本来予定されている会合にも出席するため、六時ごろに帰ってくる予定だという。翠が家にいないと分かり、陽が傾く頃には会合も始まり、幾分彼らも捜索の手を緩めるだろう。孝雄が指定した五時の少し前にここを出て、念のため少し遠くの駅から電車を乗り継ぎ、海を訪れる。夜から朝にかけての朝焼けの海を見ることは、きっと出来る。
「実は、ずっと行ってみたかったんです。永遠に行く機会なんてないと思ってました」
「ばか、これからいくらでも行ったらいいだろ」
翔の言葉に、翠は笑って頷いた。
翠は死なない、必ず生き延びる。明日も明後日も迎えて、海なんて何度でも行くことが出来る。約束したんだ、何があっても生き続けるって。
なのに、下手をすると視界が滲みそうだった。千沙と楽しげにお喋りをする様子を見ていると、明日の今頃に彼がいなくなる想像など出来なかった。翠は死なない。そう分かっているはずが、うっかり気を抜けば、こみ上げたそれが頬を伝いそうだった。こんなに笑っているのに、こんなに楽しそうなのに、ただの普通の男の子なのに。
時間よ止まれ。後生だから、明日の朝を迎えないでくれ。そう願う翔の腕に千沙が軽く触れた。笑顔の彼女の目尻には、涙が光っていた。
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