6
未明に翔は夢を見た。とても懐かしい母親の夢だった。ただ優しく抱きしめられていた。学校で友だちと喧嘩をした帰り、怖い夢を見た夜、誕生日プレゼントを買って帰った日、眠りにつく前。温かな手のひらで頭を撫でて、いい子いい子と繰り返してくれた。夢の中でそっと手を伸ばすと、望み通りに抱きしめてくれた。
あなたはいい子。私の大事な宝物。
目が覚めても、まだ鼓膜が震える錯覚を覚える。思わず、母さんと呟くと、返事の代わりに聞き慣れた鳴き声が頭のすぐ横から聞こえてきた。
首を曲げると、枕元でモモが丸くなっていた。白地に黒い模様の猫は、青い瞳を瞬かせてこちらを見つめている。母が亡くなって、ひどく落ち込んでいた当時の自分に同級生が声をかけた。家の猫がたくさん子どもを産んだんだけど、と。帰りに寄った家では、毛布にくるまり子猫たちがみゃあみゃあ鳴いていた。その内の一匹と目が合い、どうしても一緒に暮らしたくなった。
父親は最後まで渋ったが、いつまでも翔がうじうじと思い悩んで引きこもりにでもなったら面倒だ。猫一匹でそのリスクが回避されるならと、全ての面倒を見ることを条件に許可をした。
そしてモモは翔の家族になった。母の一周忌の翌日、モモは家にやって来た。
生まれ変わりとまではいわない。けれど、母のいた場所をモモは違う形で埋めてくれる。激しい人見知りをしながら、心を許した人間にはその涙を舐めとることだってする。言葉が通じなくとも繋がり合える。今だって、心配そうにじっとこちらを見つめている。
そんなモモが、母の夢を見せてくれたような気がした。温かなものを思い出させ、自分がどうすべきかを教えてくれた。モモの頭を撫で、翔は身体を起こした。
スマートフォンが鳴り、電話に出る。向こうの千沙は、ひどく慌てていた。
「翔、翠くんと逃げて。芽佑会の人たちが、そっちに行くって」
「そっちって、もしかしてうち?」
「お母さんの電話盗み聞きしたの。集まって、正面突破するみたい。今ね、誰が復讐を遂げられるか、オークションみたいになってるの。翠くんを無理にでも捕まえて、一番お金を払った人がその力を使えるんだって」
「勝手なことを……」
唸りながら、翔は急いで支度をする。防犯カメラやセキュリティ会社と契約しているとはいえ、警備員が到着するまである程度の時間はかかる。彼らが後に罪に問われることを恐れないのなら、窓でも割って侵入してくるだろう。そうすれば逃げ場はない。
千沙と相談を終え、翔は翠の部屋に向かい、家を出ることを伝えた。どちらにせよ、今日は外出するつもりだった。それが少し早まっただけだ。
しかし何も知らない翠は驚き、孝雄の命令を無視することに困惑の表情を見せた。翔の将来がかかっている殺人をどう扱うべきか、彼は悩み続けていたのだ。孝雄の命では午後五時に指定された場所に赴き、人を殺さなければならない。そして既に第一発見者となる身内の者を用意している。失敗はすぐにばれてしまう。
「翠はどうしたいんだ」
翔は軽く屈み、彼の両肩を手で包んでじっとその顔を見つめた。隠している瞳を見透かすように、彼の真意を探る。
「俺は俺で生きる。親父のことは関係ない。一番大事なのは、翠がどうしたいかだ」
もう答えは分かっている。だが、彼の言葉で確かめたい。
翠は薄い唇を開いて、はっきりと言った。
「ぼくはもう、誰も死なせたくないです」
よしと頷き、翠に支度をするよう言った。明日の夜明けがタイムリミット。それまでこの家には戻らない。
千沙の母親が受けた電話によると、正午に彼らは自宅を襲撃するという。時刻はもうじき昼を迎える。亜香里に怪しまれないよう、翔と翠はそっと裏口から外に出た。少しでも他人の目に留まらないため、翠は黒いパーカーを羽織りフードで目元を隠す。下には、以前千沙と出かけた時に買ったシャツと七分丈のズボン。山登りにも使ったスニーカーを履いている。
小さな公園には、待ち合わせた千沙の姿があった。砂場とブランコとベンチしかない公園でブランコに腰掛けていた彼女は、二人の姿を見つけるとぱっと立ち上がって駆け寄ってくる。
「千沙、助かったよ」
「ううん。私も偶然聞いただけだから。お母さん、急いで出かけてった」
翠の心が変わっていなければ、翔は千沙を含めた三人で過ごそうと決めていた。父は午後五時を過ぎれば仕事を疎かにした翠を探し回るだろうから、それまでに街を出ようと画策していたのだ。
「いま駅に行ったらまずいよな」
「だと思う。万が一逃げられないか、駅は確実にマークしてるよ」
だがそこに、芽佑会の人間が加わったのは誤算だった。彼らは強硬手段など取らないと決め込んでいた。千沙が連絡をくれなければと思うと、背筋が冷たくなる。同時に彼らの目も欺かなければならず、隠れ場所も探さなくてはならない。
「遅くなっても翠くんが見つからなかったら、諦めるかもしれない。どこに隠れるか決めた?」
「いや、まだ。ネカフェとかはやばいよな」
「そんなの、あの人たちが一番に探しに来るよ」
千沙は、黙って考えている翔と翠の片手をそれぞれ取って握りしめた。
「うちに来て。匿ってあげる。会の人たちはうちがぼろいの知ってて来ないし、お母さんは翠くん探しに出てて帰ってこないから」
「いや、でも」
「灯台下暗しだよ。今はきっと、街のどこにいても見つけ出される」
会員である千沙の母親が暮らす家など論外だと思ったが、よく考えれば彼女の提案に間違いはない気がした。下手に外を出歩いている今の状況が一番危険なのは確実だ。
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