5
翌朝、疲れた身体を引きずって翔は途中から高校の夏期講習に参加した。もっぱら目的は授業ではない。千沙に昨日の出来事を報告するためだった。
翔から連絡がないことを不安がっていた千沙は、放課後の教室で目を白黒させて彼の話を聞いた。ようやくひと段落ついた頃には憤りに顔を赤くして、自分の鞄にノートや教科書を詰め込み始めた。
「どうしたの、急に」
「許せない。ゆきくんに文句言ってくる」
「駄目だって、どうせ返してくれない」
「じゃあ諦めるの?」
思い詰めた千沙の表情を見て何も言えなくなった。諦められるわけがない。既に八月を迎え、今も刻一刻と翠の命の終わりが近づいている。早く形代を取り戻し、もう一度川に流しに行かなければならない。
「疲れてるんだよ。昨日の今日なんだし」
どこかぼんやりした翔の顔を見て、千沙は優しく笑ってその腕を軽く叩いた。彼女の机を間に、二人は向かい合って座っていた。教室には他に生徒はおらず、窓の外では陸上部や野球部の生徒たちが走ったりボールを投げたりと活動にいそしんでいる。いつもと変わらぬ光景にうっかりしてしまうが、間違いなく時間は進んでいる。
「私、今日食堂に行ってゆきくんを問い詰める。気まずいなんて言ってられないよ」
「じゃあ、俺……」
「翔は翠くんについててあげて。一緒に行くなんて、飛んで火にいる夏の虫だよ。お家で、そばにいてあげて」
彼らがセキュリティのしっかりした自宅へ押し入ってまで、翠を無理やり連れ去るとは思えない。不法侵入で捕まるリスクは犯さないだろう。見張られている可能性はあるが、外に出ない限り手出しは不可能だ。そして、常にそばで支えられるのは翔しかいない。
帰りに、千沙は食堂に行く前に翔の家へ寄った。翠は昨晩からずっと眠り続け、千沙が夕方に帰ろうとする頃、ようやく目を覚ました。夢現の狭間でぼうっとしながら、傷だらけの顔を千沙に撫でられていた。
しかし夜になると、幸也は食堂に来ていないと彼女から電話があった。昨日から急に休むことになり、食堂はてんてこまいだという。成り行きで手伝ってきたという千沙の苦笑する顔が思い浮かんだ。誰も幸也の自宅を知らず、電話をかけても繋がらない。唯一彼の住所を把握している佐久間も、多忙を極めてそれどころではないそうだ。その多忙は、八月六日まで続くのだろう。
翠の様子は翔の心配とは裏腹に落ち着いていた。夕子の嘘が判明し、形代まで奪われて、また人を死なせてしまった。いくら取り乱してもおかしくないが、彼は千沙や翔が買ってきた菓子を食べ、ありがとうと嬉しそうに笑った。諦めたのかと出かける言葉を、翔は喉元で必死に堪えた。彼は約束したのだ。何があっても生き続けると、あの夕暮れに約束してくれたのだ。諦めるはずがない。
どうすればいい。どうすれば、翠の呪いを解いてやれる。
考え込む翔は、夕方に受け取った郵便をリビングのテーブルに置いた時、偶然テレビニュースを目にして愕然とした。また一人、某大手会社の社長が路上で不審な死を遂げたという。
「おまえなんだな」
部屋に入ってきた翠に問いかける。報道されているニュースを見て、彼は翔の言いたいことを理解した。うっすらと悲しげに微笑み、足元に寄ってくるモモをそっと抱き上げた。モモの甘える鳴き声だけが二人の間で響いていた。
父の孝雄は、自分を人質に翠を脅かしたに違いない。翔には容易に想像がつく。自分と翠が以前より強い結びつきで繋がっているのを利用したのだ。翔が恐れているのと同じく、翠も翔が傷つくことを恐れている。二人が相手を大事に想う毎に、それは弱さとなり仇となる。翔が翠を庇う様子を見て、孝雄は彼に言ったのだろう。「あいつの将来は俺にかかっている」等の意味の台詞を。翔の未来を天秤にかけ、翠は新たな罪を犯したのだ。
どうしようもない。次第にそんな思いが暗雲のように翔の心に湧き始めた。孝雄はあと一人、翠を利用して誰かを殺す算段を立てるに違いない。その流れに任せていれば、彼は無事に十四歳の朝を越えて今後も生き続けることができる。あと一人。たったあと一人で、翠は望む未来を手に入れられる。彼が生き続けるためなら、あと一人ぐらい誰かが犠牲になったって、構わないのではないか。
八月四日の午後、疲れた気持ちで翔はリビングのラグの上に座り込んでいた。相手はきっと孝雄のように、他人を見下し傷つける事を厭わない人間だ。翠の命のために犠牲になったところで、帳尻は合うのではないか。
「翔くん」
呼ばれていることに気付き、はっと顔をあげた。あぐらの中で眠るモモを撫でる姿勢のまま、ずっと固まっていた。
「大丈夫ですか」
リビングに一歩入ったところで、翠が心配そうに声をかける。このままでは、明後日の早朝に命を失ってしまう彼。自分を心配してくれる翠を見て、やはり死なせたくないと思う。
「ずっと動かないから、どうしたのかと思って」
「大丈夫だ。ちょっと考え事してた」
モモが翠を呼ぶように鳴き、彼は翔のそばに膝を折って腰を下ろした。あぐらを抜け出して足に鼻先を近づけるモモの背を、翠はそっと手のひらで撫でる。
「ぼくのこと、ですよね」
考え事の内容を言われているのに気付き、翔は迷いながらも頷いた。
「翔くんは、優しいですね」
「死んでほしくないからな」
「嬉しいです。こんなに想ってもらえて」
優しくモモを撫でる彼の姿は、もうじきなくなる。このままでは。このまま、人殺しを避け続けていれば。
「……親父に、言いつけられてんのか。あと一人」
沈黙が流れ、翠は小さく頷いた。
「明日。最後の一人を」
「親父は俺を人質に取ってんのか」
彼の沈黙に答えを察した。間違いない、孝雄は翔と翠の仲の良さを利用している。
「俺、思ったんだ」
あと一人なら、犠牲になってもらえばいいんじゃないかって。
その言葉が出てこない。出すことができない。翔は押し黙り、視線を伏せた。白と黒のモモの尻尾が、視界の隅で揺れている。
「……人が死ぬのって、命がひとつが失われるだけじゃないんですね」
モモを撫でながら、翠が静かに口を開く。
「自分にとっては他人でも、誰もが誰かの大事な人。命が消えるということは、その誰かをも悲しませるということ。失われた後に悲嘆や後悔といった感情を他人に与えるのは、命の持つ脆さであり尊さだと思います」
翠の手が止まり、催促するようにモモが彼の顔を見上げた。頭を指先で撫でられて、再び気持ちよさそうに目を細める。
「ぼくは、それをずっと無視していました。命が一つ消えるなんて、大したことではないと自分に言い聞かせてきました。けれど本当は知っていた。そんな簡単な話じゃないってことぐらい」
翔の脳裏に、ふと母親の顔が浮かんだ。そこには抱かれた時の温みや、自分の名を呼ぶ声の優しさが包まれている。それらは全て一瞬で失われた。目を閉じて開けるまでの瞬間で、何もかもひっくるめてこの世から消え去っていった。
消えるのはほんの一瞬なのに、心に残るものは言葉にできないほど膨大で計り知れない。
「芽佑会の人たちの話を聞いて、大切な人を失くして苦しむ人たちの姿を見て、ぼくは自分の罪の重さを再確認しました。人を死なせるということは、命が一つ消えるだけじゃない。大勢の悲しみや苦しみや後悔を生むことなんだって」
翠は今も思っている。もう誰一人死なせたくないと、ただひたすらに願っている。
翔は自分の心の弱さを自覚し、それを見せたさっきの自分を殴りたくなった。翠の気持ちは変わっていない。誰かの未来を奪い、多くの人を悲しませることを拒み続けている。誰かの代わりに自分が生きることを、彼は全く望んでいないのだ。
「そうだな」翔は顔をあげて大きく頷いた。「俺も、そう思う」
目元が見えなくても、翠がにっこり笑ったのが見て取れた。変わらない、静かで無邪気な笑顔だった。
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