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 自力で下山し、翔は麓で家に連絡を入れた。電話に出た亜香里に、山で道に迷ったと説明した。財布もなければ、既に最終のバスも電車も出てしまっている。タクシーを呼べたところで、ぼろぼろの自分たちを見て運転手に通報されないとも限らない。

 やがて、父親に命じられた足立が車を走らせてやって来た。一人息子が低山で遭難し、助けを求めたにも関わらず見殺しにしたとあっては、あまりに体裁が悪い。足立は仕事終わりに、無理に駆り出されたのだろう。申し訳なさを感じると共に、後部座席に翠と並んで座ると、安堵で全身から力が抜けた。ぼろぼろだが、とにかく生きて山を下りられた。疲れて寝息を立てる翠の横で翔も微睡み、声をかけられて家に帰り着いたことを知った。

 亜香里から話を聞いていた孝雄は、二人が玄関に入るなり激怒した。山登りで無茶をして遭難しかけた彼らに、思いつく限りの罵声を浴びせた。自分の手を煩わせたことが許せないのだ。

 二人はただ謝罪の言葉を繰り返すしかなかった。特に翠の怯えようは翔が哀れに思うほどで、ぶるぶる震えながら、靴も脱がずにその場で土下座し三和土に額をこすりつけた。それを庇えば孝雄の怒りに一層火がつくことを知っているので、翔は何もできなかった。

 その襟首を掴み、早く靴を脱げと怒鳴り散らし、孝雄が翠をリビングに引きずる。慌てて翔もスニーカーを脱いで続いた。部屋のソファーに孝雄が身を沈めると、翠はその正面の床に膝と手をついて深々と頭を下げる。翔は少し後ろに立ち尽くすしかなかった

 今日は翠に用があったという。当然、都合の悪い人間を彼に消させようとしたのだ。しかし家には当の翠の姿はなく、亜香里は彼が翔と山登りに出かけたのだと言った。寝耳に水の孝雄は烈火のごとく怒り狂ったが、スマートフォンは圏外で通じず、呼び戻すことも出来なかった。

「使いたいときに外出とは、随分偉くなったもんだな」

 ようやく顔を上げた翠に嫌味を放ちながら、孝雄はちらりと翔を一瞥する。「下がってろ」と言い捨て、すぐに翔がリビングを出ないのに怪訝な顔をした。

「仕事の話だ。おまえには関係ない」

「仕事って、翠に人を……」

「分かってんだろ。とっとと下がれ」

 翠が音を立てず呼吸を荒くしているのが翔には見て取れる。細い指でラグの毛足を握りしめ、恐怖と緊張に慄いている。布でぐるぐる巻きに覆った目は、真下に向けられている。

 孝雄が話を続けようと口を開いた時、「旦那さま」と翠が言葉を挟み込んだ。

「申し訳ございません。ぼくはもう、そのお仕事を受けられません」

「どういう意味だ」

 翠は懸命に声の震えを抑え、深く頭を垂れた。

「もう、人を死なせたくはありません」

 孝雄は最初、それが下手くそな冗談か何かだと受け取ったらしい。まるで相手にしない風だったが、翠が何度も繰り返すので次第に苛立ちを露わにし始めた。

「そんな我儘が通じると思ってんのか」

「親父、翠は無限に人を殺せるわけじゃないんだ」

 眉根を寄せる孝雄に、翔は天ケ瀬の呪いの話を要約した。翠の命は八月六日の明け方に潰えてしまうこと、人を殺せてもそれはあと二人までであること、そして何より彼自身がこれ以上の殺人を拒んでいること。芽佑会や形代の話はしないでおいた。

 黙って聞いていた孝雄は、翔の話が終わると共に激昂した。

「調子に乗るな!」

 立ち上がり翠の首元を掴んで引き起こし、こぶしで激しくその頬を殴打する。細い身体は、一撃で床に叩きつけられた。翔が慌てて助け起こすと、痛みに呻く翠の唇には赤い血が滲んでいた。

「殴らなくてもいいだろ!」

「黙れ! 重大な契約違反だ、ふざけるのも大概にしろ!」

「契約違反って、翠だってその話を今まで知らなかったんだ。仕方ないだろ」

 翔を頭から怒鳴り付け、それでも翠から離れない彼の様子に、孝雄はこめかみを痙攣させながらも疑問を抱いたらしい。

「おまえ、どうしてそこまで肩入れするんだ。これはただの居候だぞ」

 家にほとんどおらず、用事がなければ翔や翠と顔を合わせない彼は、二人が仲良くなっていたことを知らなかった。彼は顎を撫で少し思案し、やがて得心顔で頷いた。

「最近二人で出かけてると亜香里が言っていたが、気になんぞしていなかった。どうした、情でも湧いたか」

「別に、情とかそんなんじゃないけど」

「ガキの見た目にほだされてんだよ。いいか、これは今まで何十人と殺してきた殺人鬼だ。こんな気色悪いやつに分ける情なんかねえんだよ」

 おまえにはそもそも情がないくせに。そんな台詞を翔はぐっと堪えた。翠はもう立つ余力もないのか、膝を折ったままぐったりと項垂れている。今日はとうに彼の体力の限界を超えているのだ。とにかく早く寝かせてやりたい。

 心配そうに翠を支える翔を見て、孝雄は舌打ちして悪態を重ね、やがて出ていくように言った。ほっとする翔自身、体力も気力も既に限界だった。

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