3
道はなく、荷物は全て置いてきた。辛うじてポケットにスマートフォンがあるが、電源が入っても電波が届かないから意味がない。木々の隙間を縫う西日が目と肌を焼く。とにかく声の聞こえる方角からがむしゃらに逃げた。何度も木の根や石に足を取られて転び、その度に起き上がり、ひたすら山の中を逃げ惑った。
すっかり人の気配がなくなり追手を撒けたと判断し、ようやく翔は足を止めた。背の高い木々が鬱蒼と頭上を覆い、もうじきやって来る夜の闇を思わせる。
恐怖と共に怒りがこみ上げ、やるせなさに気力を奪われる。手を強く握ったまま見下ろすと、疲れ果てた翠は足元も覚束なくなっていた。
「低い山だ。熊なんかは、きっと出ないだろ」
「……ごめんなさい」
翔の台詞に、翠の涙声が重なった。
「ごめんなさい。翔くん、ごめんなさい。こんなことになって、本当にごめんなさい」
解いた手で口元を抑え、彼は必死に嗚咽を堪える。濡れた肩がぶるぶると震え、泥だらけの顔で、ひたすらに謝り続けている。
あとほんの少しだった。形代を川に流すだけで、全てが終わるはずだった。翠の呪いは解け、帰りは目隠しを外して下山できたかもしれない。電波が入ればすぐに千沙に電話をかけ、喜びの声と祝福の言葉を耳にする。嬉し泣きする千沙の声を聞いて、電話を代わった翠もきっと泣いてしまうだろう。そんな未来はもうすぐそこだった。
「ごめんなさい。ごめんなさい。翔くん、ごめんなさい」
「違う、悪いのは翠じゃない、あいつらだ。翠が俺に謝ることなんて何一つない」
それでも翠はしゃくり上げている。自分を救うために翔まで傷つき、今や遭難の危機に晒されている。いくら夏の日が長くとも、夜闇は確実にこの山を覆う。見上げる空の端は既に深い青色を滲ませていた。じきに太陽は沈み、道を逸れた自分たちは水もなしに夜の山を彷徨うことになる。野生動物に襲われるかもしれないし、脱水症状で動けなくなる可能性もあれば、崖から滑落する危険もある。
「大丈夫だ、下ってればいつか麓に出る。それだけだ」
そう単純なものではないことぐらい、翔にも分かっている。だが、今自分が折れてしまっては、本当に二人とも命を失いかねない。翠が泣いているから、泣かずに済んだ。そしてこれ以上泣くまいと、彼も懸命に唇を引き結んで歩き出す。
「とにかく、帰ろう。家に」
たくさんの希望を奪われ、たくさん傷ついた。だが、この傷と対処法は帰ってからゆっくり考えればいい。今は無事に下山して家に帰り着くことだけを考えねばならない。
太陽の沈む方向から目指す方角を探り、翔は頭に懸命に地図を描いた。川を下れば自然と麓に着く。水音が聞こえないか耳を澄まし、少しでも足場が緩ければ迂回して進む。ここで崖から落ちて骨でも折ってしまえば、共倒れなのは確実だ。
翠としっかり手を繋ぎ、決してはぐれないよう居場所を伝え合う。やがて陽は落ち、代わりに明るい月光が遙か高くから差し込む。しかし足元まで照らすには覚束なく、自分が正しい方角を向いている自信もない。これ以上は動かず朝を待った方が良いのかもしれない。
そんな時、月明かりとは異なる白い灯りが葉の隙間で揺れた。見間違いではない、登山道に備えられた街路灯の灯りだ。目で辿ると、光は等間隔に並んでいる。安堵に崩れてしまいそうだった。
人の手で固められた道に辿り着き、二人はやっとひと息ついた。人工の灯りをこんなに有難く思ったのは生まれて初めてだ。土とひっかき傷に塗れた顔を拭うと、同じく汚れた顔で翠がこちらを見上げる。
その表情が強張るのに振り向きかけた途端、背中を激しい衝撃が貫いた。思わず膝をつくと、更に誰かの足に脇腹を蹴飛ばされて横倒しになる。
くぐもった声で呻きながら必死に目をやると、男が翠の腹に手を回して連れ去ろうとしている光景があった。と同時に、ぎゃっと悲鳴が上がる。相手の手に噛みついた翠が、緩んだ腕をすり抜けて跳びついてきた。
「翔くん!」
彼の両手が翔の腕に絡みつき、懸命に引き起こす。咳き込みながら立ち上がり、翔は逃げるでなく地面を蹴って肩から男に突撃した。
「離れてろ!」
翠に怒鳴り、男を押し倒して馬乗りになる。こいつはすぐに仲間を呼ぶに違いない。せめて気絶させる必要がある。だがどうやって。考える頭は、そばに落ちているこぶし大の石を握るように命じた。
石に被せた手に力が入らなかった。固い石で頭を殴れば、気絶どころか死んでしまうかもしれない。自分たちは、彼らを殺したいわけではないのだ。
逡巡がまずかった。下から伸びた手に首を掴まれ、引き倒される。身体が回転し、今度は男が翔の腹に跨る。舌打ちと悪態が降ってくると同時に、顔が右を向いた。口の中を流れる血の熱と味で、殴られたのだと知った。
首を掴んだままの手に力がこもる。翔は両手の指をその腕に絡みつかせ、必死に抵抗を試みる。しかし容易に喉は潰れ、声も出なければ呼吸も出来ない。気道を圧迫されて窒息するのが先か、首の骨を折られるのが先か。歯を食いしばり、男の腕に爪を食い込ませる。それでも力は緩まぬどころか、徐々に強くなっていく。
鈍い音と共に、真上の男の頭が揺れた。首を絞める力が緩まり、翔は全力で呼吸をする。
「ざけんなてめえ!」
頭を押さえて男が怒声をあげた。少し頭を動かすと、太い木の枝を両手で握りしめた翠が、息を切らして立っていた。枝で男の頭を殴ったのだ。
その名を呼ぼうとしたとき、翠が枝を捨て、地面を蹴った。男に両腕を伸ばして飛び掛かり、翔の上を飛び越える。どさっと彼らが地面に倒れる音がすぐ傍で聞こえた。
肩で呼吸をしながら、翔は震える腕で上体を支えて起き上がる。翠の力で大人の男を押さえつけられるはずがない。咳を繰り返し、なんとか息を整えつつ、地面に膝をついた。
「翠……」
名前を口にしても、翠は動かず振り向かなかった。倒れた男のそばに跪いている。翔の位置からは、男が無防備に伸ばした両足が見える。その足はぴくりとも動かない。
もう一度彼を呼んだ時、違和感を抱いた。項垂れる翠の後ろ姿、その頭にいつもの白色がない。頭部を左右に横切る線が消え、今は黒い髪だけがある。
彼の足元に、白い布と黒いアイマスクが落ちていた。それを認識すると共に、すすり泣きが耳朶を打っていることにも気が付いた。
翔は呆然と、頼りない翠の背を見つめた。また一つ傷の減った小さな背中は、丸まって小刻みに震えている。翠は何も言わず、ただ静かに泣いている。まだ呪いの生きる身体のまま、翠は泣き続けている。
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