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山の麓の定食屋で早めの昼食を摂り、腹が落ち着いた頃に登山を開始した。日曜日だからか、一般の登山客の姿もちらほらと見られ、駐車場には十台ほどの車が並んでいた。
翠の負担をなるだけ減らすため、翔が二人分のペットボトルやタオル、そして形代を入れたリュックサックを背負う。踏み固められた登山道は、両側を青々とした樹々の枝葉に囲まれている。強い陽射しが葉に遮られ、木漏れ日がそこかしこに落ちている。それでもすぐに、汗が頬を伝って滴った。二人とも半袖のシャツに長ズボンの出で立ちで、汗を拭って歩いた。
「疲れたら言えよ、休憩するから」
うんと頷き、翠は受け取ったペットボトルの水をごくごく飲んでほっと息をつく。頬は熱で赤く染まり、白く細い腕はあまりに頼りない。彼も翔も、急ぎたい気持ちを懸命に抑えていた。無理にペースを上げて途中でバテて動けなくなるのが一番の悪手だ。休憩を取りながら着実に歩を進め、夕刻前に滝へ着ければ良い。夏の陽は長いから、それからすぐに下山すれば暗さに獣道へ迷い込むこともないだろう。頂上まで登り反対側へ向かう道を辿れば一時間のショートカットができるが、それだけ道は険しい。時間がかかっても、確実な方法を取るべきだと二人は決めた。
「川が流れてるな」
受け取ったペットボトルをしまい、再び歩きながら翔は右手の崖下を覗き込んだ。山の上から流れる小川がある。自分たちはこれを遡り、上流を目指している。
「あの川ですね」
「まだ随分あるな」
緑の山はまだ目の前にそびえている。蝉の声がシャワーのように頭から降り注ぎ、葉から零れる陽光の眩しさに目を細める。生気に満ちた夏の山は、自然の輝きをきらきらと惜しげなく放っていた。
「こんなに山を登るのは、初めてです」
「俺もだ。山登りなんてしたことない」
「今度は、千沙ちゃんとも来たいですね」
千沙は来たがっていたが、自分が足手まといになる可能性を危惧して辞退した。その代わり、形代を流して電波が届くところまで下りたら、一番に連絡するよう翔に念押しした。
「そうだな」
次は楽しい旅にしよう。誰の運命も左右しない、楽しさだけに満ちた旅程にしよう。苦しいのは今だけだ。二人は青々とした木々の中、ひたすらに足を運んだ。
ゆっくり進んでも翠はやがて息を切らし、休憩を幾度か挟まねばならなかった。外出さえ覚束ない生活を送って来た彼にとっては、低い山とはいえ登山は相当な負担だった。それでも文句ひとつ言わず、一生懸命に翔の後を着いて歩く。途中にベンチや休憩所を見つければ都度休み、早めに出てきて良かったと思う翔も、少しの疲労を感じ始めた。
次第に川はその幅を狭くし、流れも速くなっていった。水面で木の葉がくるくると舞い、水浴びをする小鳥が踊っている。陽射しの強さはピークを越え、真ん丸な太陽は枝葉の向こうで傾き始めた。その頃ようやく、滝壺迄あと二百メートルの看板に辿り着いた。
最後の休憩を挟み、当初よりずっと狭くなった道を前後に並んで歩く。既に行き交う人の姿はなく、降ってくるのはアブラゼミからヒグラシの鳴き声に変わっている。いつの間にか、水がどうどうと激しく落ちる音がそこに被さるようになっていた。
二人はようやく二百メートルの距離を歩き切った。見下ろした水面は、陽光を受けてガラスのように輝いていた。更に高い位置から落下する水が滝つぼに吸い込まれていく。飛沫が美しく輝いて散り、思わずため息をつく自然の美しさがそこにあった。
登山道を逸れ、岩場に下りる。見上げるような大岩から、手に収まるような小石まで、大小数多の石に足を取られつつも川べりまで辿り着いた。二人は並んで滝を見上げ、流れる川に視線を落とす。
翔はリュックサックを下ろし、中の封筒から取り出した形代を翠に手渡す。彼はもう一度、それを目元に押し当てた。どうか呪いが解けますように。彼の唇が小さく動き、声もなく願いをなぞった。
はっと、彼がその手を目から離した。翔も咄嗟に後ろを振り返る。
「間に合った」
山道から岩場に下りてくるのは、見間違えようのない幸也の姿だった。彼だけではない、あのとき地下室で見た人々が、二人、三人、四人と近づいてくる。翔は無意識に、右手で翠を抱き寄せた。翠は硬直して声も出せないでいる。
「悪いけど、その形代を流させるわけにはいかないんだ」
「……どうして、ここが」
「どうしてもこうしても、教えてもらったんだ。朝早く出かける君たちを見かけて、不思議に思って家の人に尋ねたんだよ。幻来山の西口は、本当に険しかった」
二人が登ってきたのは山の東口にある登山道だ。幸也たちは反対側から山を登り、頂上を経由して滝までやって来たのだ。彼らは元々自分たちを監視していたに違いない。そして何も知らない亜香里は、昨日リビングに広げていた地図からこの山の名を知り、疑問も持たず彼らに教えたのだ。
幸也に続いて現れた彼女の姿に、二人とも息を呑んだ。「夕子さん」翠が小さな声で名を呼ぶ。彼女は嘗て翠を抱きしめたのと同じ人物とは思えないほどに、憮然とした厳しい表情をしている。
「翠くん」彼女も彼の名前を口にする。「あたしたちのお願い、聞いてくれるつもりはないのよね」
翠は返事に窮し口を噤んだ後、かぶりを振った。言わずもがな、彼女のお願いというのは、旦那を死に至らしめた強盗犯を殺してほしいというものだ。はいそうですかと聞き入れるはずがない。
「夕子さんのお話は、本当だったんですか」
縋るような細い声を翠は絞り出す。決して得られない母親の存在。彼はその切れ端だけでも知ることを望んでいる。願わくば、母が自分を愛していたという証言だけでも。
「あたしの旦那の話と、桜っていう名前だけね。調べたらそれだけ出てきたから。でも後は全部でたらめ」
彼女は身体の前で両手を広げてみせた。
「ぜーんぶ作り話。でも本当っぽかったでしょ。実際あんたたち信じ切ってたし」
「お母さんの話も、村の出身だってことも……」
「だから、全部。そんな村、佐久間さんに言われるまで聞いたこともなかったし。知り合いのフリしろって言われて、最初は困ったけどね。あんたらが真剣な顔してるからおかしくって、笑い堪えるのに必死だった」
予め、覚悟していた事実ではあった。しかし翠だけでなく翔も、彼女の言葉に真実が含まれている可能性を捨てきれずにいた。夕子は本当に翠の母親の人柄を知っていたのかもしれない。彼女の語った偽の過去は、あまりに大きな希望と成り得てしまっていた。だがその名以外は、全てが翠を誘き寄せるための餌であり罠だった。夕子が語る桜との思い出が些細なものばかりだったのも、今や納得できる。何かのきっかけでボロが出てしまわないよう、当たり障りのない記憶だけを彼女はでっち上げていたのだ。
「翠、それを流せ!」
翔は呆然とする翠の肩を掴み、川に形代を流すよう促した。もう彼らの話に用はない。これを流してしまえば翠の呪いは解け、共に彼の力は消える。嘘に騙され傷けられ、他人に利用される理由はなくなるのだ。
形代を川に流そうと踏み出した途端、翠は鈍い音と共にくぐもった声をあげてその場に倒れ込んだ。彼の脇腹を直撃したこぶし大の石が転がる。大岩の向こうに潜んでいた者が飛び出し、翔は翠に覆いかぶさり、岩の隙間に落ちた形代へと手を伸ばした。
その手を蹴飛ばされて痛みに膝をつく。腕の中から這い出た翠が男の足にしがみついたが、ひと振りで呆気なく川の中へ転げてしまう。幸い川幅は狭く、流されるほどの水深もない。
「この野郎!」
形代を受け取った幸也に飛びかかった。だが後ろからシャツを鷲掴まれ、後方に投げ飛ばされる。ばしゃんと飛沫が上がると共に、川底の岩にしたたかに身体を打ち付けた。痛みと鼻を逆流する水で息が詰まる。
「悪いけど、呪いを解かせるわけにはいかないんだ」
「裏切りやがって! クズ野郎!」
咳き込みながら絶叫した。あの形代は、軽率に二枚目を手に入れることはできない。第一、もう翠の命が間に合わない。
「俺たちはあんたを信じてたのに!」
「ごめんな。俺はこうしないといけないんだ」
「ふざけんな!」
頭に血が上り、翔は再び幸也に立ち向かおうと身体を持ち上げる。そこで、助けてという悲鳴を聞いた。水飛沫が上がり、身体を抱え込まれた翠が必死に抵抗している。そうだ、彼らは形代だけじゃない、翠の能力自体が必要なのだ。
腰をかがめて横から体当たりした。相手と共に再び水中に倒れた翠の腕を掴み、引きずるように対岸に上がる。それでも翠の足を掴む手を踏みつけ、びしょ濡れのまま川原を駆け抜ける。怒号が聞こえたが決して振り向かず、翔は翠の手だけを引いて山中へ飛び込んだ。
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