14
やはり自分は素直じゃないなと翔は改めて思った。
「翠くん、辛かったね。本当に辛かったね」
千沙は泣きながら翠を抱きしめて、その背や頭を撫でさすり、慰めの言葉を惜しげなく与えた。もう大丈夫、私たちがついてるから、翠くん大好き。翔がいた場所に座り、翠の頭に頬ずりをして何度も何度も繰り返す。彼女に連絡をして正解だったと、端に追いやられた翔は些かほっとした。自分はここまで素直に感情を吐露できない。
今朝目が覚めてすぐに千沙へ連絡をした。佐久間たちが都合の良いように彼女を言いくるめる可能性はある。その前に洗いざらい電話越しに吐き出した。
絶句して話を聞くだけだった千沙は、翔の言葉が途切れるとすぐに、そっちに行くと言った。そして実際、一時間も経たずにチャイムを鳴らした。
「千沙ちゃん、ありがとう」
「こんないい子にそんな酷いことができるなんて、信じらんない。私、絶対許さないから」
翠が泣き止んでも千沙はまだしばらく泣いていた。すっかり翠の涙が乾いた頃、やっと彼女は自分の目元を拭って、「それにしても」と憤慨する。
「佐久間のおじさんにそんな過去があったなんて、知らなかった。だけど、翠くんを巻き込んでいいわけがないのにね。子どもを亡くした復讐で子どもを傷つけるなんて、犯人と同じことしてるって気付かないのかな」
ぷんぷんと頭から湯気を出さん勢いの千沙は、しかし僅かに顔を曇らせた。
「それに、ゆきくんまで。ゆきくんなら、何かあれば二人の味方になってくれると思ったのに」
翔は幸也の過去を千沙に電話で話していた。彼が敵に回ったのなら、こちらだって黙っている義理はない。千沙は幸也の恋人が自殺していたことなど全く知らず、ただ驚いていた。
「ごめんね、私が二人に食堂を紹介したから」
「ううん。そんなことないです。ね、翔くん」
翠に顔を向けられて、翔もそうだと頷いた。彼らを善だと信じていた千沙には何の落ち度もない。許さざるは彼らの悪意なのだ。
「でも、もう食堂には行けないよね。せっかくスタンプも貯まってたのに」
予定通りなら、次の訪問で翠にはまたプリンかゼリーを選ぶ権利が与えられるはずだった。それを彼は心待ちにし、翔と千沙は微笑ましく思っていたのだ。
「千沙ちゃんは、どうするんですか」
「私も行くのやめる。こんなことの出来る人が運営する食堂になんて、行きたくない」
辛そうに翠が唇をきゅっと引き結んだ。自分がいなければ、千沙は居場所を失くさなくて済んだ。彼がそう思っているのは明らかだった。
「謝らないで」
彼の口から謝罪の言葉が出る前に、千沙がふんわりと笑った。
「むしろ、佐久間のおじさんの本性を知られてよかった。あの食堂はおじさんの善意の塊だと思う。復讐心とは関係ない気持ちでやってるんだよ、きっと。だけど、私はそれが全てだと思ってたから、おじさんの裏の顔を知ることができたのは幸いだったよ」
千沙は強がっている風には見えない。台詞は滑らかに口をつき、表情にも口ぶりにも一寸の嘘もうかがえない。それでも項垂れる翠の頭を撫で、「ねえ」と千沙は彼と翔を交互に見た。
「遊びに行かない? 部屋に閉じこもってたら、余計に気が滅入っちゃうよ」
千沙はまるで、太陽のような女の子だった。
翠は服を数えるほどしか持っていない。これまでの家で譲り受けた他人の古着ばかりで、いま着ている白いシャツも襟がすっかり伸びきっている。翔と千沙は、翠に服を選ぶことにした。
カフェやクレープの屋台が並ぶカジュアルな通りで、三人は服屋を訪れた。シンプルなデザインの服がハンガーにかかって、小さな店の中に所狭しと並んでいる。服の合間を縫うように客が歩き回り、翔たちもシャツとズボンを選びにかかった。
翔と千沙は手に取った服を翠の前にかざし、どの色が似合うか相談したが、すぐに意見は一致した。青色は大人しく涼やかな彼の雰囲気とよくマッチし、暑い夏にもぴったりだ。青と白のボーダーと、袖と裾にだけ白いラインの入った青いシャツを二人がそれぞれ持ち、翠にデザインを選ばせる。彼は散々悩みぬいた末に後者を選んだ。半袖のシャツと、カーキ色の七分丈のズボン、併せて白いスニーカーも新調する。購入と同時にタグを切って着替え、着ていたものは服屋のロゴの入った袋に入れて持ち帰ることにした。
「新しいにおいがする」
店を出ると、翠は右腕を鼻に当てて袖のにおいを嗅いだ。
「翠くん、よく似合ってるよ」
千沙がそう言って、彼の背中をぽんぽんと叩く。彼は照れたように頬を綻ばせて、ありがとうと二人に礼を言った。
本屋の店先で立ち読みし、ゲームセンターの入口でUFОキャッチャーをした。翠は騒音が苦手だというので、それ以上は入らなかった。花屋でサボテンを眺め、二軒目の本屋をひやかして、駅前の噴水広場に出た頃、時刻は既に正午を過ぎていた。
喫茶店に入り、サンドウィッチを二皿注文してカウンター席に座る。翠を真ん中にして、右に翔が、左に千沙が腰掛けた。正面のガラス窓の外を、人々が額に汗を滲ませて行き交っていく。
ジュースで乾杯して、あれこれと話をした。翔たちの学校の話が主だったが、翠は興味津々の顔で頷いた。千沙が髪を耳にかけ、その手首に巻きつくシュシュのピンク色が鮮やかだった。
「靴擦れとかしてない? 大丈夫?」
ふと、千沙が足元を見る。視線の先には翠の新しいスニーカーの白。
「大丈夫だよ」彼は大きく頷いて笑う。「ありがとう、千沙ちゃん」
「可愛いなあ。翠くん、ほんとに可愛い」
千沙が横からぎゅっと翠に抱き着いた。彼の左頬に自分の右頬を押しつけ、ぐりぐりと頭を横に振る。翠はされるがまま、くすぐったそうに笑っている。
翔は自分の中のもやもやに気が付いた。それは千沙に対してなのか、それとも翠に向けての気持ちなのか判断がつかない。何だよ、二人して。視線にそんな気持ちがこもったのか、千沙がこっちに目を向けいたずらっぽく笑う。
「あ、もしかして焼きもち?」
「いや、なんでそうなるんだよ」
「だってすっごい羨ましそうな目してるんだもん」
「そんなのしてないって」
「えー、そう? じゃ遠慮なく。ぐりぐりー」
千沙は再び翠を抱きしめ、頭を押し付ける。翠は嬉しそうな困ったような表情で笑っている。それを見ていると無性に自分も混ざりたくなり、身体がむずむずする。
「やめろって、他に人いるし」
「迷惑かけてるわけじゃないよ?」
「いやまあ、そうなんだけど」
翠は千沙のものじゃないし。そんな台詞が頭に浮かび、辛うじて口に出すのを堪えた。同時に、何笑ってんだよと翠を小突きたくもなる。ちゃっかりしやがって。
翔はどちらに対しても自分が嫉妬していることに気が付いた。翠を抱きしめる千沙の素直さが羨ましいし、千沙に抱きしめられる翠も羨ましい。
「翠くん、うちの弟になる? 家はぼろいけど、私何だってしたげるよ」
「駄目だって」ええいままよ。翔は翠の右腕を軽く引いた。「翠は俺の身内だから」
「えー、じゃあ今日からうちの家族ってことで」
「いやいや、そんなん無理だってば」
翔が翠を抱き寄せると、負けじと千沙が翠にくっつく。自分こそ身内に相応しいと言い合いながら、左右から翠に腕を回して引っ張り合う。次第に翔もムキになってきた。
「翠、今日も俺と帰るよな」
「ねえ翠くん、うちおいでよ。いいでしょー?」
「よくないって。大体千沙だけの家じゃないだろ」
「お母さんなら私が説得するし」
「待って待って、翔くん、千沙ちゃん」
翠の慌てぶりに二人ともはっとした。自分たちの様子を遠巻きに見つめる周囲の客に気が付き、翔は手を離し千沙も流石に翠から身体を離した。
ごめんと呟いた二人の間で、翠がくすくすと笑った。子どもらしい笑い声と共に、彼は全身で無邪気な喜びを見せた。
「ぼく、翔くんも千沙ちゃんも大好き。ずっとずっと一緒にいたい」
私もとすかさず千沙が被せたので、翔も咄嗟に俺もと口にしていた。恥ずかしさより先に顔から笑みが零れ、千沙も堪え切れずに笑っている。幸福を感じると共に、自分がどうして翠の呪いを解きたいのか、その気持ちをはっきりと理解した。
天ケ瀬翠は普通の人間で、どこにもでいる普通の少年だ。普通でない点は、強いて言えば年齢に見合わない心の純粋さか。彼が普通であることに気がついたから、翔は呪いを解きたくなった。彼は呪いなど関係なく、普通の男の子として生きるべきだと思ったからだ。
千沙と別れ、翔はいつもの通り翠と手を繋いで帰路に着く。白い肌に、温かな手のひら。まだ随分小さな手は、もっと大きくならなければいけない。
「翠、約束してほしいんだけど」
黒い髪が、夕陽の橙に染まりつやつやと輝いている。翠はそれを揺らして翔を見上げた。
「何があっても、生き続けてほしいんだ」
今なら言える。千沙のおかげで少しだけ素直になれた今なら、この心を正直に伝えられる。
「呪いの力は翠のせいじゃない。それでも罪悪感を覚えるなら、その人たちの分も生きなきゃいけない。翠の呪いは必ず解けるから、これから楽しい思い出をたくさん作ってほしい」
立ち止まると、布に隠れた翠の瞳が真っ直ぐに翔の顔を見つめる。その瞳を見通すように、翔も見つめ返す。
「約束してくれるか」
少しの間じっと黙った後、彼は「うん」と頷いた。
「約束する。ぼくは失くしてきた命の分、生きていきます」
よかった。思わずそんな言葉が吐息とともに零れていた。微笑んだ翠に右手を差し出すと、彼は再びその手をぎゅっと握りしめる。
「呪いが解けたら、まず何がしたい」
「翔くんと千沙ちゃん、あとモモさんの顔を見てみたいです。色のついた世界で」
歩き出しながら、翠はすぐに返事をした。
「あとね、虹を見てみたい。七色の虹を、この目で見たい」
彼の願いは無理難題とは程遠い、ほんのささやかなものだった。だからこそ、絶対に叶える必要がある。そしてそれは必ず叶う。翠は、これからも生き続けていくのだから。自分たちは、彼を生かさなければならないのだ。手の中の温みを感じながら、翔は心に強く誓った。
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