13

 床に突っ伏し泣き崩れる翠を、最早誰も見なかった。彼らは動かない男の周りに集まり、脈を取ったり胸に手を当てて鼓動が消えたことを確認している。本当に男が死んだことを知り、驚きと喜びの混ざった歓声をあげている。

 一方で翠は大きく口を開け、わあわあと泣き叫んでいた。翔が駆け寄り身体を支えると、色白の顔を真っ赤にし、ぎゅっと閉じた瞼から涙をとめどなく流していた。彼はもう殺したくなかった。これ以上誰一人、死なせたくなかった。

 翔は翠を抱きしめ、手探りでアイマスクと布を拾ってズボンのポケットにねじ込む。今はゆっくり慰めている時間はない。抱えるようにして立ち上がり、出口に向かって急いだ。誰かがこちらに気付いて声を上げるのが聞こえたが、決して振り返らなかった。

 重い扉に体当たりし、転げるように階段を上がる。誰もいない廊下を駆け、玄関から外へ飛び出すと、日光の強さに目が眩んだした。それでも立ち止まらず、住宅街を駆け抜け、人の多い方を目指す。もし彼らが追ってきても、人目があれば乱暴を働くことに躊躇するだろう。バス停に辿り着く前に空車のランプを灯らせたタクシーを見つけ、迷わず手を上げた。自動で開いたドアの隙間に身体をねじ込ませ、仰天する運転手に住所を告げる。自分たちが裸足であることには、しばらく気が付かなかった。


 這う這うの体で帰り着くまでの間、翠はひと言も言葉を発さず、翔も黙ったままでいた。誰もいない自宅から足りない金を持って運転手の元へ戻るとき、家に金があってよかったと初めて思った。だがそんな思いは、現状に対する何の慰めにもならなかった。

 シャワーを浴びて足の手当てをして、憔悴しきった翠は眠るために部屋に戻った。お腹は空いてないと微かな笑みを浮かべる様子が心配でならなかったが、疲れ果てた彼を無理に起こしているのも不憫な気がした。

 翔自身にも疲労が溜まっており、眠ってしまえば夜中に一度目を覚ましたきりだった。再び気が付くと、目覚まし時計は朝の九時をさしていた。何日も眠っていた気分だ。枕元で朝飯を催促するモモに、前足で頭を叩かれて目が覚めた。

 階段を下りて、モモの朝食を用意する。皿に頭を突っ込んでカリカリとご機嫌な音を立てるモモをしばらく眺めてから、自分のトーストを焼いて食べた。あまり空腹は感じていなかったが、牛乳で何とか胃に流し込んだ。

 朝食後、翠の様子を見るためにドアをノックしたが、返事はない。躊躇いつつ、ノブをそっとひねる。この部屋に鍵はない。廊下の明かりが暗い部屋に差し込む中、翔は少しの緊張を覚えていた。万が一、翠が絶望しきって自ら命を絶っていたら。そんな想像が頭をよぎった。

 だから、ベッドの中で丸くなる背中を見て、少しだけほっとした。彼は翔の気配で目が覚めたのか、もぞもぞと動いて顔をこちらに向ける。彼は寝ている間も、目を隠したままでいた。

「悪い、起こして」

「ううん。うとうとしてました……。起きてるのか寝てるのか、自分でもわからないぐらい」

 昨日は結局、ほとんど言葉を交わさなかった。翔自身も混乱していたし、呆然とした翠に話しかけて負担を強いるのも気が引けたのだ。

 上体を起こしてまだぼんやりしている彼のベッドにモモが飛び乗る。にゃーと鳴いて、ベッドに腰掛けた翔と翠の間で丸くなった。翠がそっと手のひらで毛皮を撫でても、じっとしている。

 ゆっくりゆっくり彼がモモを撫でるのを眺めていた。優しい手つきに、モモはすっかり安心しきっている。

「あいつらに、騙されたな」

「ごめんなさい」

 翔が呟くと、彼は謝罪の言葉を口にした。

「翔くん、身体は痛くないですか」

 ああと返事をして、謝るなよと続ける。だが翠は、がっくりと肩を落としている。

「ぼくの望みに付き合ってくれたのに、あんな目に合わせてしまって。どう謝罪したらいいのか」

「ばか、いつ俺が謝れって言ったよ。おまえの方が、よっぽどひどい目に合ったじゃねえか」

 翔は一度言葉を区切り、「悪いのはあいつらだ」と吐き捨てた。

「騙されたんだ、俺たち。あの佐久間のおっさんに」

「……そんな人には、見えなかったのに」

「見えないから騙されたんだ。あいつは、最初から翠を復讐の道具だとしか思ってなかったんだ」

 食堂で見る佐久間の笑顔は、嘘が含まれているようにはまるで見えなかった。いま思い出しても、そこに恐ろしい魂胆が隠れているとは想像し難い。自然な笑顔で子どもたちにも好かれていた。だからこそ、恐怖さえ覚えてしまう。

「それに、あいつも……幸也も」

 モモを撫でる翠の手がぴたりと止まった。

「幸也さんも、ぼくたちを騙してたのかな」

「翠の呪いの詳細を佐久間に告げ口したのはあいつだ。萩野さんの話は、俺と翠と千沙、後は幸也しか知らない。佐久間は焦ったろうな、翠の力にタイムリミットがあると知って」

「幸也さんも……」翠は辛そうに口角を下げる。「幸也さんも、いい人だと思ってました。優しい、いい人。ぼくたちを閉じ込めるなんて、思わなかった」

「やっぱりあいつも、あっち側の人間だったんだよ」

「でも……」

 その先の言葉を、翠は無理やり飲み込んだ。翔にも彼の想いは理解できる。何かの間違いだという希望を持ちたいが、あの地下室で目にした彼の態度や表情を思い出すと、そんな希望はいとも容易く潰える。彼に復讐を為すべき相手はいない。だから翠の力を欲する理由はないが、彼はあっさり自分たちの敵に味方した。あの冷たい視線は忘れられない。

「夕子さんの話も、嘘だったんでしょうか」

 縋るような翠の顔から、翔は目を逸らすしかなかった。それは何度も考えた。

「ぼくを誘き寄せるために、嘘を吐いていたんでしょうか。お母さんの話も、村の出だということも、全部」

 いま翠が一番信じたいのは彼女だろう。翠は彼女の話を信じ、また桜の話は生きるよすがと化していたに違いない。例え産まれる前だとしても、確かに母は自分を愛していた。夕子の言葉は、その証拠だった。

「……さあ。でも、リアルな話だったろ。仮に嘘があっても、きっと全部じゃねえよ。本当に翠の母さんを知ってたかもしれないし、あの村の出身だってことは本当だったかもしれない」

 今となっては知りようがない。意気消沈し、疲弊しきった翠の顔を見ていられない。彼が僅かでも希望を持てるよう、曖昧な言い方しか出来なかった。

「……ありがとう、翔くん」

 翠は頬を上げて笑おうとしている。しかし彼の声は濡れて、涙が滲んでいる。

「もう、何を信じたらいいのか分からないよ。ぼくはきっと、愛されてなかったんだ。お母さんもお父さんも死なせて、たくさんの人の不幸を作って、愛してほしいなんて傲慢だったんだ。ぼくが求められるのは、ぼくだからじゃない。ぼくが持つ呪いの力のおかげなんだ」

 翠が喉を鳴らしてしゃくりあげ、異常に気付いたモモが顔をあげた。翔は翠の頭に手を乗せ、少し乱暴に撫でながら「そんなわけないだろ」と声をかける。「愛してほしいなんて、誰だって思う。翠の願いは当たり前だ。そして、翠が愛されなかった証拠だってない」

「ありがとう。……ありがとう」

 礼を言いながら翠は泣き続ける。一体どうすれば、彼を助けてやれるだろう。モモが不安げに鳴き声をあげ、不思議そうに二人を見上げる。

 その時、玄関のチャイムが鳴った。

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