12
「頼む。こいつを殺してくれ」
両手と額をコンクリートに押し付け、佐久間が悲痛な声を絞り出した。
「これは生きていてはいけない人間だ。人間と呼ぶのも烏滸がましい。人の世で生かしてはならない獣だ」
背後で男が吠える暴言など、既に翔たちにも届かなくなっていた。呆然としつつ、佐久間に対する疑念がよぎる。
「まさかあんたは、翠の力を最初から知ってたのか。こうすることを計画していたのか」
「翠くんの姿を見て、天ケ瀬の名字を聞いた時に察した。これは天が私に与えた最後のチャンスだと希望を持った」
翔の方もへたり込みそうになる。あんなに優しい顔をして自分たちに接していた佐久間が、腹の中で翠の力を利用する算段を立てていたなんて。
「噂を聞いて、嘗て私も彼の力を欲した。相談もしたが、提示されたのはとても私の手に負える金額ではなかった。しかし、諦めるしかないと自分に言い聞かせていた私に、彼の方からやって来てくれた」
佐久間が頭を上げ、翠に目をやった。彼の思惑をすっかり理解した翠は、青ざめた顔を微かに横に振った。嫌だという意志だった。対する佐久間の瞳は懇願と執着で濁りながらも、地獄の底で燃える炎が宿っているかのようだ。
「それは……そんなの、あんたたちの信条に反するんじゃないのか」
到底この人数相手に力では敵わないし、退路も塞がれている。翔は必死に説得の方法を模索する。
「罪人には勝手に神罰が下るから、自分たちは励まし合って生きていく……。芽佑会って、そういう集まりじゃなかったのかよ。加害者への復讐なんか考えないんだろ」
縋るように翔は周りを見渡した。確か、夕子はそんな風なことを言っていた。だが振り向いて目にした夕子の顔には、動揺の影さえない。無表情の中に僅かに強い感情を込めて、じっとこちらを見つめている。周囲の人々はみな同じ顔をしていた。彼らは赦せてなどいないのだ。自分たちから大事なものを奪った犯人を、例え法律が罰を与えても彼らの心は赦さないのだ。
「私たちが復讐をしないのは、私たち自身が法を犯し加害者と同じ罪人に成り下がらないためだ。方法がなかっただけなんだよ。復讐心が本当に消え去るはずがない。それから目を背けようと励まし合っていたんだ」
佐久間がゆっくりと立ち上がった。三十人以上の瞳がじっとこちらを見つめている。何かに操られているかのように虚ろで、なのに火種を孕んだ瞳。
「方法があるなら……法に触れず復讐できる術があるなら、私たちは是非に欲する。そして、そちらから飛び込んできてくれた。神など信じてはいなかったが、これほど天の采配に感謝したことはない」
「おまえらが騙したからだろ! 翠の親をだしに使ったくせに!」
「すまない。だが、諦めてくれ。どうか、彼の力を使わせてくれ」
「ふざけんな!」
翔の激昂が虚しく反響して消えていく。そして傍らの翠の身体が震えていることに気が付いた。彼は喘ぐように呼吸をしながら、細い首を必死に左右に振った。
「許してください……」
か細い声で、彼は懸命に許しを請う。
「ぼくは、嫌です。死なせたくないです。もう、この力は使いたくないです」
「どうせ、あと四回しか使えないんだろう」佐久間の声はしつこく絡みつくようだった。「このままだと、もうじき君自身が死に至る。それなら、呪いの力を使い切って生き延びるのが一番じゃないのか」
翔は彼の姿を探した。集団から一歩離れた場所に立つ幸也は、翔と翠の視線をただ黙って受け止めていた。彼の瞳に恨みつらみの光はなく、ただしんとした深い静けさだけがあった。
喋ったのだ。翔はぎりぎりと歯噛みする。幸也だからと信頼して話した真実を、ぺらぺらと佐久間たちに伝えたのだ。誠実で優しい人間だと信じていたのに、彼は自分たちを陥れたのだ。今やまるで他人事のようにこの光景を眺めている。
「ぼくは死んでもいい」
翠がきっぱりとそう言った。
「四人も誰かを死なせるのなら、ぼくはこのまま死ぬ方がいい」
「今まで何人も殺してきたのに、今さらどうしてだい」
佐久間の台詞に翠がぐっと息を呑む。彼はこれまでの十三年で多くの人間を死に至らしめてきた。自分の命がかかっているのに、たったあと四人で何を躊躇する必要があるのか。彼らには翠の心情など全く理解が及ばないのだ。
だが、今となっては翔には分かる。翠はこれまで自分の気持ちを無視し、悪い人間だからという言葉に縋って人を殺してきたのだ。そうして、本当は死にたくない彼は、生き延びてきた。今は違う。彼は誰も死なせたくない気持ちに気が付き、呪い自体を解きたいと願っている。他人の命を奪うぐらいなら、このまま死んでしまってもいいとさえ思っている。
わかるはずがない。翠の力を、彼自身を銃やナイフと同じ道具として見る人間に、そんな心の内など理解できやしない。だからこんなに不思議そうな声が出せるのだ。
「私たちは、心から君の力を望んでいる。そして、君が殺すのは獣の如き生き物だ。真に罪のある動物だよ。罪悪感を覚える必要なんてこれっぽちもない」
「馬鹿にすんじゃねえよ! おまえらこそ獣だ。翠を道具扱いして、人間として見ないあんたらこそ罪人だ!」
「何とでも言ってくれ。どうか、どうか頼む」
「復讐なんか勝手にやってろ! 巻き込むな!」
翔は翠の腕を握った。細い右腕の骨の感触を覚えながら、逃げようと振り返る。よろめく彼の身体を抱え、閉ざされた扉へ脱兎のごとく駆ける。
しかし到底間に合わない。周囲を囲む何人もの腕が、腕に足に首に絡みつく。待てとか逃げるなとかいう大声が、鼓膜をがんがん揺さぶる。もみくちゃにされつつ、必死に翠を抱きしめようと伸ばす腕を、誰かに掴まれた。そのまま背側に捻じ曲げられ激痛が走った。
声をあげ、背に圧し掛かられるまま膝を折った。そのままうつ伏せに倒され、潰されて息が詰まる。それでも翔は、必死に声をあげる。
「翠!」
無理やり引き剥がされた彼は、数メートル離れた場所で押さえつけられていた。膝を床に押し付け、土下座をするような姿勢で身体を丸めている。彼の少し前には縛られた男がいる。男は話を理解できておらず、また理解できるはずもなく、目の前の少年の力など信じてはいない。
もう一度彼の名を呼ぶ翔の声に、嫌だという悲鳴が被さった。小さな身体を三人がかりで押さえつけ、一人が目を覆う布を引き剥がし、アイマスクを取り払った。両手を後ろで抑えられた翠は、せめてもの抵抗で前傾姿勢を取り、床に頭を垂れている。そんな抵抗も虚しく、アイマスクを放り捨てた手が、彼の髪と頭を掴んで持ち上げた。
「くそ、やめろ! おい、おっさん! やめさせろ!」
圧し掛かられて潰れそうな声を、翔は懸命に絞り出す。佐久間は翠の隣に跪き、翔の叫びに耳を貸す様子はない。それでも叫ぼうとすると、誰かの怒声と共に、一層強く腕をひねられた。骨が折られてしまう恐怖と痛みに声が掠れる。
「翠くん、目を開けるだけでいいんだ。瞼を開くだけでいい」
一人が翠の身体に手を回して上体を持ち上げ、もう一人がその頭を掴んで固定する。翔から顔は見えないが、彼は瞼を閉じて必死に抵抗している。
「んだよ、この茶番は」
男が縛られたまま毒づいた。彼は目の前に死が近づいていることなど信じていない。こんな荒唐無稽な話、信じられるはずがない。
「最後に聞くが、反省はしていないんだな」
広い地下室に佐久間の言葉が響き、短い沈黙の後にぺっと唾を吐く音がした。
「わかった。……翠くん、これがこの男の返事だよ。幼い子どもを死に至らしめ、微塵も反省しない男だ」
「……ぼくは見ません。それなら、死んだ方が」
「君は、こんな地下で最期を迎えるつもりかい」
しんとした空間に、翠の返事が途切れた。
「私はいつまでも待つ。君たちがこの穴ぐらから出てくるのをね」
「佐久間!」
翔は身体の痛みも忘れて絶叫した。いつの間にか、翠の嫌だという声が聞こえなくなっていた。
「おい、翠、見るな! 瞼を開けるな!」
佐久間は、翠と共に翔もこの地下に閉じ込めるつもりだ。翠が目の前の男を殺すまで、二人そろって監禁するつもりなのだ。もし翠が先に死んでしまったら、残った翔をどうする気かは判断できない。監禁の罪に問われる前に、何らかの口封じを行うかもしれない。人を殺めることを望む彼らが何を考えるのかわからない。
「俺は大丈夫だ、俺のことは気にするな!」
翠は最悪の結末を予想せざるを得ない。彼らは翠の力を使うために翔を人質にとるだろう。その命を危険にさらす可能性は充分に考えられる。翠は自分だけなら耐えるというはずだ。だがそこに翔が立ち替われば、彼は無下にすることなどできない。
「やめてくれ、翠、頼む。見るな……そいつを見るな……!」
今や懇願する翔に、翠は何も言わない。だが翔には、その気持ちが手に取るように分かる。彼は優しい人間だ。澄んだ心の持ち主なのだ。
翠が悲鳴のような叫びをあげた。男の呻き声をかき消し、彼は全身から振り絞るように絶叫した。
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