11
約束の日は、以前と同じ朝早くに駅で待ち合わせた。同じ時刻発の列車に乗り、後にバスに乗り換える。車窓の青い空は、前回よりもその青を濃くしているように見える。
元旅館らしい立派な構えで、周囲は蝉の鳴き声を除いては静かな場所だ。陽射しが強く、道の向こうで陽炎が揺らめいている。玄関に入ると、風通しが良いおかげか中は涼しく、汗がすっと引くのを感じる。
靴を脱いでスリッパに履き替えると、竹箒を持った夕子が外から入ってきた。
「あら、もうそんな時間だったの」
額の汗を拭いながら三人を見る。
「裏庭の掃除をしてて。蝉の抜け殻とか、私苦手なんだけどね」
「危なく遅刻するところでしたね」
「庭にはいるんだから、遅刻じゃないわよ」
幸也の軽口に返事をしつつ、竹箒を壁に立てかけて彼女も靴を脱いだ。今日はブラウスにパンツ姿で、スリッパに足を通すと「ちょっと待ってて」と言い残し、ぱたぱたと奥に駆けていく。古い床をキシキシと軋ませ、すぐに戻ってきた。
「向こうにうちの母親も連れてきてるから。そこでお守りも渡すわね」
「ありがとうございます」
翠が丁寧にお辞儀をする。いいのいいの、年寄りは暇してるから。そう笑って、彼女は先に立って歩き出した。翔と翠が続き、幸也が最後尾につく。
てっきり談話室か、もしくは以前と同じ客室だろうと思っていた。しかし夕子は「足もと気をつけてね」と注意し、階段を下り始めた。
「え、地下があるんですか」
驚く翔に、幸也が返事をする。
「旅館の時は、物入れなんかに使ってたのかな。でも、夏場は涼しくて冷房要らずなんだ」
「電気代がー、なんて聞かせたくないけど、現実的に仕方ないのよね」
翠が躊躇して足を止める。蛍光灯は煌々と灯りを投げかけ、木の階段も手すりもしっかりしているが、地面の下に潜るとは思わなかった。翔も躊躇うが、ここまで来て地下が怖いからと引き返すわけにはいかない。翠の肩を軽く叩き、下りるように促す。埃一つない階段を、彼はようやく一段ずつ下っていく。
何が何でも引き返せばよかった。この時の感覚は正しかったのだ。
将来の後悔など、今の翔に気付く由もなかった。
重たそうな扉をひと一人分開いて、するりと夕子がすり抜ける。扉の向こうには、複数の人の気配があった。広々とした倉庫のような空間は、天井の蛍光灯に照らされているのにそれでも薄暗い。四方がコンクリートで固められているせいか、空気は真夏が嘘のようにひんやりとしている。だが、翔が逃げたくなった理由は冷たい空気などではなく、その場の異様な雰囲気にあった。
中に入ると、人々が一斉にこちらを振り向いた。二十代から、上は八十を迎えていそうな高齢の者まで三十人近くの人間がいるにも関わらず、場はしんと静まり返っていた。異様さは、特に彼らの目に宿っていた。曇天のように淀んでいるのに、どこか獣じみた鋭さを秘めている。視線に全身が刺されるようだ。咄嗟に振り向くと、しっかり扉を閉めた幸也と目が合い、はっとした。自殺した彼女の話をした時の彼の瞳も、淀んでさえいないが彼らと同じ鋭敏さを持っていた。砕かれた人の心の、ギザギザになった部分だ。
明らかに尋常な雰囲気ではない。硬直している翠は、翔が触れると我に返ったように身を寄せてきた。只ならぬ事態に動転し怯えている。その様子から、自分が怖じていてはいけないという意識になる。
「佐久間さん!」
人々の中に佐久間の顔を見つけ、翔は声をあげた。ここには先日見かけた顔もあれば、見たこともない顔もある。名前が分かるのは、夕子と幸也と、佐久間の三人だけだ。
「何だよここ! あんたら一体……」
「おい! いいからさっさと解けや!」
初めて聞く声が翔の台詞を遮った。こちらを向いていた佐久間がちらりと背後を振り返り、その場を一歩引く。すると周囲の人々は自然と左右に分かれ、翔と翠の前が一本の道のように開けた。数メートル先の壁の前には男が一人蹲っている。四十前後の日に焼けた短髪の男は、縄で後ろ手に縛られていた。
「てめえら、きしょいんじゃボケが。俺にこんなことしといて、無事で済むと思うなよ」
そして縛られているとは思えない怒声をあげている。彼は動けない不安ではなく、不満と怒りと苛立ちに満ちている。
「ここにも火いつけたるからな、覚悟しとけ」
冷たい地下の部屋で、縛られた男と大勢の人間。どう見ても彼らが男を監禁しているようにしか見えない。
「何なんだ、誰なんだこの人」
自分たちは、とんでもない事態に巻き込まれてしまった。それでも必死に虚勢をはり、翔は何とか声をあげる。
佐久間が再びこちらに視線を戻した。いつも子ども食堂で見かけるのとは全く異なる、濁り澱んだ沼を連想させる瞳だった。
「この男にね、私の娘は殺されたんだ」
「娘……?」初めて聞く話だ。
「私には、二十五年前に妻との間に娘がいた。もうじき五歳になるところでね、可愛い盛りだったよ」
佐久間は人々の間から歩み出て、翔たちと男の間に立った。その声は低くじっとりとしている。
「だが、火事で私たちの家は全焼した。その時に娘も亡くなった。原因は、火の不始末だ」背後の男の方に軽く首を振った。「この男が寝煙草で火事を起こしてね、それが隣の私たちの家にも延焼したんだ。だが、不始末を起こした本人はあっさり逃げ出して無事だった。犠牲になったのは、何の罪もない私たちの娘だった。ほどなく私と妻も別れ、家庭は見る影もなく消え去った」
「だからあれは事故だっつってんだろおっさん! 今さらグズグズ言ってんじゃねーよ!」
男が吠えるが、佐久間は深く口角を下げたまま表情を変えない。怒りか悲しみか、どちらとも解釈できる無表情が能面のように張り付いている。
「まだまだ未成年への処罰は軽すぎる。故意ではないことを主張し、ほんの数年で、再びこの男は世間に戻った。ひと一人の命を奪い、他人の家庭を破壊した反省もなく、のうのうと生きている」
許せないのだ。彼の無表情に宿る瞳と口調で理解できる。許せるはずがない。未来ある幼い子どもを死なせて、罪悪感さえ覚えない男が生きているのだ。自分が起こした火事の犠牲者を前にして、こんな暴言が吐けるとは。
ちっと男が派手な舌打ちをした。
「俺は嘘だってついてねえ、てめえらのいう処罰ってやつは終わってんだ、文句言われる筋合いはねえよ」
だが男の言い分も一部正論ではある。彼は事実に基づいて下された罪を、仮にも償っている。これ以上は勝手な私刑であり、次に罰せられるのは佐久間たちの方になる。
「私の娘を殺したことをどう思っている」
「だからちげーっつってんだろ、不幸な事故ってやつだよ。俺のせいじゃねえ。てめえらただじゃ済まねえからな」
「反省はしていないってことだな」
「してねえことを反省とかあり得ねえだろ」
男の台詞の後、佐久間ががくりと膝をついた。それは自ら膝を折ったようにも、絶望して自然と折れてしまったようにも見えた。
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