10

 にゃーんとモモが鳴いて、翔の手に頭をこすりつける。翠が傍から毛皮をそっと撫でても逃げず、気持ちよさそうに喉を鳴らした。

「この音は、喜んでくれてる、のかな……」

「そうだよ。猫は嬉しい時に喉を鳴らすんだ」

「やっぱり!」翠がぱっと顔を明るくする。「図鑑に書いてあったんです」

 翔が購入した動物図鑑を、翠は隅から隅まで読み込んでいた。彼は元々動物が好きで、本当はモモに触れたくて堪らなかったのだという。

「ありがとう、モモさん」

 床に座す翔の腕に抱かれたモモを優しく撫で、翠も幸せそうだ。モモは孝雄にも亜香里にも身体を触らせない。褒めて宥めておやつをあげて、翔の友人をようやく許すほどだ。触れることを拒まないなら、そう遠くないうちに翠も抱っこが出来るだろう。

 そんな日は来る。八月六日の夜明けまでに、翠の呪いは必ず解ける。

 本当に? と囁く心の声を翔は懸命に抑え込んだ。間に合う根拠はどこにある? 追撃する己の声に、うるさいと心中で叱咤する。間に合うんだ。誰が何と言おうと、形代は翠が生きている内に届くんだ。

「翔くん、大丈夫?」

 急に難しい顔をして黙り込んだ翔に、翠が不安そうな声をかけた。モモだけが、変わらずごろごろと音を立てている。

「え? ああ、別に何でもない」

 あぐらの中でひっくり返ったモモが、翠の指を甘噛みする。彼は痛くないと不思議そうに言って、くすぐったいと笑った。白い尻尾は先だけ黒く、それを動かしてモモも機嫌よくしている。

 こんな日がずっと続けばいいのに。翔はふとそう思う。このまま時間が止まって、穏やかな日々だけが残ればいい。

 しかし時計の針は動き、タイムリミットは確実に近づく。それに呪いが解けたら、翠はこの家にいる理由がなくなる。力が失われたと知れば、孝雄が翠を手元に置いておくわけがないし、翔にも彼を養える力はない。養護施設で暮らすのが一番なのか。これまで学校にすら一度も行ったことのない彼が、今後上手に世間で生きていけるのだろうか。

「なあ、翠。おまえ、勉強はどれぐらいできる」

 突然の台詞にきょとんとして、翠はふるふると首を振った。

「分かりません。学校に行ったことがないし……。全然できないと思います」

「少しぐらいなら、俺が教えてやろうか」

「勉強を? 本当に?」

 彼は翔の思った以上に喜んだ。辛うじて本は読めるが、教科書など目にしたこともないという。彼の呪いが無事に解けるのが確実ならば、その後生きていく手段を手に入れなければならない。少しでも学んでおいて損はないはずだ。

「ありがとう。ぼく、勉強してみたかったんです」

 年齢にそぐわない台詞を発して、翠は口元を綻ばせた。


 そして翔は、物置から小学生時代の教科書を引っ張り出して、真っ新なノートと鉛筆と共に彼に与えた。読解力は既に小学校の教科書を卒業していたが、算数や理科といった分野は一から読み込んでいくことになった。

 翔自身も夏休みに入った。高校では一定期間の夏期講習が設けられているが、それも午前で終わる。午後は翠の勉強に付き合い、わけを話すと千沙も参加したいと言った。歓迎しない理由がない。それに彼女は、普段の食堂でも子どもたちの宿題を手伝っているだけあり、教えるのが上手だった。

 気晴らしに近所の公園を散歩し、図書館を訪れ、帰りにはコンビニで買ったアイスを食べた。夏はきらきらと頭上で輝き、街路樹の蝉は命の限り叫んでいる。真っ白な入道雲がもくもくと湧き上がり、公園の東屋で夕立が過ぎ去るのを待つ。これ以上の「夏」を翔は感じたことがない。

 そんな中、訪れた食堂で佐久間と再会した。

「おお、三人とも、いらっしゃい」

 座敷で子どもたちと喋っていた彼は立ち上がり、カウンターの隅に腰掛け手招きした。

「夕子さん、この前会った人。覚えてるかな」

 佐久間の台詞に、翠がはいと頷く。

「何でも、お守りを渡す約束をしてたんだってね。完成したから、取りにおいでって。それにお母さんから聞いた話もあるから、伝えておきたいんだって」

「夕子さんのお母さんですか」

「どうやら村で産婆さんをやっていたそうでね。翠くんを取り上げたのは、彼女の仕事仲間だって話だよ」

 翠と翔は顔を見合わせた。下手をすれば、夕子の母が翠の力の犠牲になっていたかもしれない。

「そんな神妙な顔しなくてもいいよ」

 二人の表情を見て佐久間が笑った。

「翠くんのお母さんと夕子さんは仲が良かったそうだね。彼女が覚えてない昔の話もあるから、ぜひ直接伝えたいんだって」

「もしかして、夕子さんの母親から?」

 翔の疑問に、佐久間はそうだと頷いた。まさかそこまでしてくれるとは思わなかった。今度は泊まらず、話だけを聞きに行くこととなった。居心地が悪いわけではないが、日帰りでも充分だ。この前は渋面の亜香里に餌の係を任せたが、モモの心配だってある。

「じゃあ、駅で待ち合わせようか」

 コップを並べながら、幸也から言ってくれた。二度目とはいえ二人きりで乗り込むには勇気が要ったから、相変わらず気が利いて心強い。

「お土産とか期待していい?」

 千沙がくすくす笑い、また夏の予定が一つ埋まったことを翔は嬉しく思うのだった。

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